慶長五年四月二十一日(西暦1600年6月2日)
数日間の逃避行の末、織田信則と蒲生氏郷の一行は近江国、佐和山城に到着した。
岐阜城を出てから、夜道を駆け、昼は身を潜めることを繰り返したのである。
疲労は一行全員の体に重くのしかかっていたが、信則の心には叔父である長政の協力を得られる一点の希望があった。
彼こそが、兄・信秀の暴走を止め、和議への道を開くための鍵となるはずだったのである。
佐和山城の城代は信則たちの突然の来訪に驚きながらも、丁重に一行を城内の一室へ迎え入れた。
「左衛門様、ようこそお越しくださいました。して、此度は如何なる御用向きにございましょうや」
「うむ。備前守様(長政)に一刻も早くお会いしたい。火急の用だ」
信則は単刀直入に用件を伝えた。
氏郷もまた、その隣で城代の返答を待つが、城代の口から出た言葉は、信則たちの期待を根底から覆すものだった。
城代は眉を曇らせ、言いづらそうに事実を告げる。
「左衛門様、殿は城にはおられませぬ」
城代の言葉に、信則は息を呑んだ。氏郷の顔色も変わる。
「如何なる故だ? 何処へ行かれたのだ?」
「それが……白装束にてわずかな供をつれて、大阪へ向かわれたと……」
「大阪へ? 一体何を……」
信則の頭の中で、長政の行動の意味が結びつかない。
京大阪はには肥前国の守備隊がおり、織田軍の進撃によって緊張が高まっているはずだ。そんな危険な場所に、なぜ単身で向かったのか。
「もしかすると……」
氏郷が重い口を開いた。
嫌な予感がする。
「もしや備前守様は……自らの命を賭して、殿下に直訴なさるおつもりでは……」
「なに! ?」
信則は絶句した。
最大の協力者を失ったかもしれないのである。
岐阜城を脱出した意味も、この近江まで来た目的も、すべてが霧散した。
重苦しい空気が漂い、氏郷も堀秀政も、言葉を発することができない。
自分たちが登ろうとしていた梯子そのものが、目の前で燃え尽きたような絶望感があった。
次の手を考えねばならない。だが、その思考は完全に停止していた。
「左衛門様……」
氏郷が絞り出すような声で信則を呼んだ。
「ここは……一旦、在り様(状況)を整えましょう」
「整えるだと? 何をだ? 我らは道を失った。叔父上が自ら命を賭ける道を選ばれたのだぞ」
信則はゆっくりと氏郷の方を向き直った。その顔には、疲労と絶望の色が濃く浮かんでいる。抑えきれない悲痛さが滲んでいた。
「まさか備前守様が、斯様に無謀な真似をなさるとは……」
氏郷は、長政の行動を無謀と断じつつも、その決意の重さを理解していた。
食料不足にあえぐ領民を救うため、そして織田家と同盟国を破滅から救うため、長政は自らを犠牲にする道を選んだのだ。
「……左衛門様。斯くなる上は、我らも大阪に向かうより他ありますまい。殿下にお会いするのです」
「我らも……?」
信則は氏郷の言葉を繰り返した。その目は、まだ虚空を見つめている。
「備前守様が命を賭して大阪に向かわれたのです。そもそも、我らの当て所は殿下にお目通りいただいて和議の道を探る事。然すれば大阪にむかうは理の当然にございましょう。備前守様とは、ここでお会いするか大阪でお会いするかの違いにござる」
氏郷の言葉には、揺るぎない覚悟があった。
彼の視線を受け、信則の心に、消えかけていた炎が再び小さく灯る。叔父が命を賭して開こうとしている道であった。
■同日 大阪政庁
政庁の一室には華美な装飾は一切ない。
ただ、手入れの行き届いた柱と床が格式の高さを物語っていた。
浅井長政はその部屋の中央に座っている。
しばらくして純正が部屋に入ってくると、側近を下がらせ、長政の正面に腰を下ろした。2人の間には、言葉にならない緊張が流れる。
天下人としての威厳を放つ純正と、死を覚悟した者の静謐さをまとう長政。
視線が交錯する。
先に口を開いたのは長政だった。
「浅井備前守長政にござる。本日は、殿下に嘆願があり参上いたしました」
「申してみよ」
純正の返答は短い。
長政とは見知らぬ仲ではなかった。信長同様30年来の付き合いであり、信長が年の離れた兄であれば、長政は身近な兄である。
もっとも、日ノ本大同盟あたりから政治的な色合いが濃くなり、疎遠になっていた。
「織田家への津留・荷留を解き、ならびに塩味噌醤油を生業とする者共を、もとに戻していただきたい。彼の地の民は、限りの極みにございます。この通り、伏してお願い申し上げます」
長政は、その場で深々と頭を下げた。
「備前守……いや、義兄上。我らは戦をしている訳ではない。然りながら袂を分かちきならば、如何なる災があるやもしれぬ地より、我が国の民を引き上げは理の当然。なんのそしりを受けようか」
信長と長政の間と違って、義兄弟ではない。
しかしあえて、温情にも近い感情でそう呼んだのである。
純正の声は、穏やかな響きを保ちつつも、そこには一切の妥協を許さぬ鋼のような意志が宿っている。長政は顔を上げ、その瞳を見つめた。
まさしく正論であり、純正に非がないことは長政自身が最も理解している。
「……御意にございます。貴国が民を引き上げられたのは、理の当然。何のそしりも受けられぬでしょう」
長政は静かに答えた。白装束の袖口をぎゅっと握りしめる。
「然れどその果として、残された民は塗炭の苦しみに喘いでおります。食料も尽き、病に倒れ、冬を越すことさえ覚束ぬ者が殆どにございます。このままでは、遠からず餓死者が巷に溢れましょう。それは、殿下が願われる太平の世の有り様ではございますまい」
長政の声には、為政者としての責任と民を思う純粋な憂いが込められていた。
純正はその訴えを静かに聞いている。
表情は変わらないが、長政の言葉の奥にあるものを探っているようだった。
「……わしの命と引き換えに、民を救っていただきたく、参上いたしました」
長政は深く頭を下げ、その首を差し出した。
自らの命一つで、この惨状を終わらせようという最後の賭けである。
純正は長政の覚悟を受け止め、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「義兄上、そのお覚悟、しかと受け取った。然れど、一つ伺いたい」
「なんでございましょう」
「義兄上が死んで、塩や味噌の生業の者を戻したといたそう。民の暮らしは戻ったとして、浅井の領国は無論の事、織田や徳川は如何なる? 肥前の、オレのやり方に従うのか?」
純正の問いは、長政の自己犠牲が持つ根本的な欠陥を突いていた。
長政の死は、民の一時的な救済にはなるかもしれない。
しかし、織田家という問題の根源を解決するものではなかった。長政は、その問いに答えることができない。
「……それは」
言葉に詰まる長政を見て、純正は続けた。その声に、憐れみや嘲りの色はなかった。ただ、冷徹な事実を告げるための響きだけがあった。
「義兄上の死は、美しいやもしれぬ。先の世の者は、民のために命を捨てた名君と語り継ぐやもしれぬ。然れど、それはオレが求めるものではない。オレが求めるのは、打ち続く(持続する)秩序と安寧よ。一時の情や自らの悦による失の上に成り立つ、脆い平和ではない」
それに、と純正は続ける。
「腹を切るべきは義兄上ではない」
純正は立ち上がり、長政に背を向けた。長政の命を奪うつもりはない、と純正は告げた。長政は混乱する。死を覚悟して来たのに、純正はそれを拒否する。
「それに、斯様な戦などすぐに終わろう。真に力を入れて打ち合えば、一日、いや、数刻とかからず信秀の勢は滅さるるであろう」
純正はふん、と鼻で笑って話を終わらせた。
次回予告 第892話 (仮)『信秀と信則』

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