第890話 『戦端』

 慶長五年四月十日(西暦1600年5月22日) 

「おお、越後屋に組屋ではないか。他にも……。何人かは見知らぬが、代替わりでもしたか? 懐かしいのう。如何した?」

 嘆願書を携えた十名の商人であった。

 純正の声は、昔馴染みに語りかけるように穏やかだったが、その言葉には空気を震わせるような威圧感が伴っている。

 商人たちは背筋を凍らせ、代表格である越後屋が、震える声を抑えながら顔を上げた。その額には玉の汗が浮かんでいる。

「は、ははっ……。殿下にはご健勝のこと、お慶び申し上げます。本日は我ら一同、殿下に伏してお願いがあり、罷り越しました次第にございます」

 越後屋は言葉を選びながら、必死に窮状を訴え始めた。

 経済制裁により物流が完全に途絶えている点。

 織田領の民が塗炭の苦しみを味わっている点。

 最後に、その影響が自分たち商人の身をも滅ぼしかけていることを、切々と語ったのである。

「そう固くなるな。オレと主らの長きつあいではないか。……うべな(なるほど)。それで、オレに荷留と津留を緩めよと、そう申すか」

 30年近く前に純久が築いた畿内以東の商人ネットワーク。

 その頃からの付き合いである。

 純正は、商人たちの話を聞き終えると、扇子でとんとんと膝を叩いた。その表情は依然として穏やかだが、目の奥には冷たい光が宿っている。

「殿下のお慈悲を……。このままでは、織田の民ばかりか、我らも……」

 組屋が口を挟むが、純正はそれを目で制した。

「お主らが苦しんでいるのは、わしのせいではない。わしに頭を垂れぬ、織田信秀のせいよ」

 純正の言葉は、静かだが有無を言わせぬ響きを持っていた。

「良いか? オレは二十年も彼奴らに騙されておったのだ。見抜けなんだオレもオレだが、而して肥前のやり方をせよと言えば、出来ぬと言う。故に肥前国と成すと言ったのじゃ。武田や畠山はそれを是とした。否とする織田はもはや敵……ではあらぬが、それに等しい。ならば引き上げは理の当然であろう」

 その正論に、商人たちは返す言葉もなかった。

 彼らが説得すべき相手は、本来、織田信秀の方なのだ。だが、暴走する若き当主が、一介の商人の言葉に耳を貸すはずもなかった。

「それに、商売は畿内でなくとも、肥前国で出来よう? 宗湛や道喜に口利きいたそう」

「そ、それは……」

 商人たちは返す言葉もないが、純正はさらに続ける。

「然りとて、民が困窮するのを黙ってみておくのも忍びない。要る量を申せ。都合いたそう。然れど、儲けようとは致すなよ。なに、案ずるな、斯様な仕儀はすぐに収まる」

 純正は、ははははは! と高らかに笑って続ける。

「ああそれから、塩や味噌、なんでも良いが、売る時は小佐々の殿、このオレの命で行っておることを喧伝するのを忘れるなよ」

「ははぁっ」

 ■慶長五年四月十八日(西暦1600年5月30日) 逢坂関

 不破関と鈴鹿関の二手に分かれて進軍した信秀軍であったが、2つの関では全くといっていいほど抵抗がかなった。

 相応の兵力を配備していなかった点もあるが、備蓄していた食料を強奪することによって、少なくとも一時的には食における士気の低下は免れたのである。

 これまで食事といえば、薄味もしくはあじつけのない物ばかりであった。

 ごく少量の塩をなめることで、ミネラル不足を補っていたのだ。

「良いか、皆の者! これまでは敵との争いはなかったが、逢坂関では間違いなく大いなる抗いがあるであろう。気を引き締めてかかるのだ!」

 信秀の声が、兵士たちの耳に響いた。

 その声にはわずかな高揚と、しかしそれ以上の焦りが含まれている。

 だが、兵士たちはその焦りには気づかない。

 彼らの目に映るのは、自分たちの腹を満たし、家族を飢えから救う希望の光だけだ。

 関所に備えられた皇紀2254式(1594年・54式一貫銃・ドライゼ銃)銃の銃声が響き渡る。

 乾いた発砲音がけたたましく鳴り響くが織田軍の軍勢は止まらない。飢えと絶望が彼らを突き動かしていたのだ。

「突撃じゃあ! ひるむな! あそこには塩がある! 味噌があるぞ!」

 勝政の怒号が、兵士たちの背中を押す。死への恐怖よりも、生きるための渇望が勝っていた。彼らは竹束を構え、銃弾が飛び交う中を突き進む。

 織田軍の兵士たちは、もはや飢えた獣そのものだった。

 彼らは肥前国の守備兵に襲いかかり、その正確な射撃や規律正しい動きを、数の暴力と狂気じみた突進で無効化していく。

 そして、ついに、関所の陣地が突破された。

「勝ったぞ! 勝ったのだ!」

 興奮した織田兵の歓声が、逢坂の山々に響き渡る。彼らは関所に備蓄されていた食料に殺到し、飢えを満たそうと我先にと群がった。

 信秀は、突破の報せを受け、安堵の息を漏らす。

 初戦の勝利はこの無謀な計画に現実味を与えたが、同時に、彼の胸には一抹の不安もよぎっていた。

 だが、今は勝利に酔いしれる時だ。

「京は目と鼻の先ぞ! 進め! 帝をお救いし、奸臣を討つ時だ!」

 信秀は、勝政と共に馬を駆り、突破された関所を越えた。その先に広がる京の町並みが、彼の目に映った。

 しかし織田軍は、死者はおろか、負傷者も軽症の者が数名いるだけであった。

 その頃、大阪の町は1人の男の出現に静かな衝撃を受けていた。

 白装束を纏い、髪を水引で束ねた男。浅井長政である。

 彼は琵琶湖を渡って逢坂関での戦火を避けるようにして京に入った後、そのままた大阪へ向かったのだ。

 その死を覚悟したかのような異様な姿は、行き交う民衆の視線を集め、彼が肥前国側の政庁の前に立った時、その場の空気は一変した。

「何奴だ、そのなりは!」

 門を守る役人が咎めるが、長政は一切動じない。

 その目はどんな感情も映さず、ただ静かに前を見据えていた。まるで時が止まったかのように静かのようである。

「浅井備前守である。関白殿下に、取り次ぎを願いたい」

 落ち着き払った声には拒絶を許さぬ響きがあった。

 役人たちは顔を見合わせる。

 浅井長政の名は織田の同盟大名として彼らも知っていたが、その男がたった一人、このような姿で現れたのだ。

 尋常な事態でないことは誰の目にも明らかだった。彼らは長政のただならぬ気迫にのまれ、すぐには言葉を返すことができなかった。

 ■岐阜城

 信長の居室では、オットーと弦斎が眠り続ける主君を昼夜を問わず見守っていた。

 目を覚まし、起き上がって自力で歩くには程遠いが、それでも2人が見る限り、病状は良くなていたのである。

「弦斎殿、やはり食事に問題があったのでしょう。糖尿病の症状あるが、状態は良くなっている」

「然れどオットー殿、食事の中身は些細な違いはあれど、そうまで違わぬ。一体何が違ったのだろうか」

 弦斎は素朴な疑問を投げかけた。

「わかりません。栄養素が同じなら、差異はないはずです。可能性とすれば……」

「まさか! ?」

「そのまさかです。疑うわけではありませんが、消去法でいけばそうなります。しかし、だからといって、それをどうこう言っても仕方ありません」

「うむ」

 弦斎は釈然としない様子であったが、それを今議論してもなんの意味もない。

「弦斎殿、状態が回復した今こそ、インスリンの継続的な投与をおすすめします」

 オットーは静かに、しかし断固たる口調で言った。

「……承知した。全ての判を任せる」

 インスリンの投与は即座の回復を意味するものではない。

 地道で、先の見えない治療の始まりに過ぎなかった。信長の意識は、未だ出口の見えない深い霧の中を彷徨っている。

 しかし、回復の可能性が確かにあるのだ。

 次回予告 第891話 (仮)『邂逅とすれ違い』

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