慶応三年七月四日(1867年8月3日)午後
「ガウワー殿、再びお時間をいただき感謝します」
会議室に現れたガウワーを、次郎は丁寧に迎えた。しかし、ガウワーの表情には昨日とはうって変わって不安が見え隠れしている。
「ミスター太田和、どのような件でしょうか?」
「昨日の合意に追加すべき重要な点があります。先月発足したカナダ自治領に関連する問題です」
ガウワーの表情がわずかに変化した。
予想していたとはいえ、実際に突きつけられると、動揺せずにはいられない。必死に冷静を装っているのが分かる。
「なるほど。自治領の。具体的には?」
「はい。将来的にブリティッシュ・コロンビアがカナダ自治領に編入される可能性が高いと考えています。そうなった場合、我々の国境合意はどうなるのでしょう?」
ガウワーは少し考え込んだ後、慎重に答えた。
「そうですね。確かにその点は考慮すべきでした。ブリティッシュ・コロンビアのカナダ編入は、実際に進行中の議論です」
「では、カナダ自治領政府とブリティッシュコロンビア当局の事前承認を合意文書に明記していただけますか?」
ガウワーは渋い表情を見せた。
「それは政治的に複雑な問題を含みます。我が国としては、むしろ包括的な日英関係の改善を同時に進める条件で、関係各政府の理解を得やすくしたいのです」
「具体的には?」
「国交回復と通商関係の樹立です。それがあれば、カナダにとってもこの合意は意味があります。また、民間レベルでの技術交流も含めて検討していただければ」
次郎は少し考えた後、答えた。ガウワーは、さらに、と言っているのだ。
「技術交流ならびに交易関連は、我が国での法制度整備が前提となります。技術輸出に関する審査機関を設立し、どの技術をどの国に提供するかを厳格に管理する許可制度を構築する必要があります」
「もちろん、それが当然だと思います。貴国に限らず、自国の技術を他国に供与するとなれば、事前に厳格な審査が必要なのはどこの国も同じでしょう。我が国としても許容範囲の条件です」
ガウワーは緊張が解けたようだ。
表面上は技術交流への道筋がついたと感じていたが、実際には日本側の完全かつ厳格な管理下に置かれるとは気づいていなかったのである。
「では、カナダとブリティッシュ・コロンビアの承認の件は、我が国政府の責任でお約束します。しかし、問題はないと思いますが、念のため本国に確認をとりますが、よろしいですか?」
「構いません。こちらも、政府全権との協議が必要ですので」
この時点で、本来は各国を歴訪しているはずの幕府使節団であったが、その最重要国はフランスであった。
小栗上野介による240万ドルの借款は横須賀の造船所建設で消え、幕府の再建のためには追加の借款(ファンド)が必要だったのである。
しかし、メキシコ経営の失敗によりフランスの金融市場は冷え込んでおり、幕府の借款計画は厳しい状況であった。
そんなとき、万博における大村藩の技術展示は、フランス政府や投資家の興味を引くに十分な人気だったのである。
次郎としても、幕府の使節団がパリ滞在中に慶勝の承認を得られれば、何の問題もない。
2人は約2時間にわたって詳細を協議し、修正された合意文書を作成した。あとは両国政府の合意を得るだけである。
同じ頃、万博会場で2人の男が密談を行っていた。
「シーモア総督、この情報は確かなのですか?」
声をひそめて尋ねたのは、カナダ自治領の初代首相ジョン・A・マクドナルドである。彼は万博視察のためパリに滞在していたのだ。
「確実です、首相」
答えたのは、ブリティッシュ・コロンビア植民地総督のフレデリック・シーモアである。
「イギリス本国が、アラスカとの国境に関して日本と秘密交渉をしています。我々には一切の相談がありません」
マクドナルドの顔は怒りで赤くなった。
「あり得ない! ブリティッシュ・コロンビアとの国境問題は、我々にとって重要な問題ではありませんか? それが蚊帳の外に置かれているとは……。マニトバやルパートランドなども含めて、我々の意見が全く聞かれていない」
「それだけではありません」
シーモアは声をさらに落とした。
「どうやら、通商条約も同時に検討されているようです。日本との貿易関係において、我々の意見は全く聞かれていません」
「バカな! これは看過できない」
マクドナルドは拳を握りしめた。
「外交権が本国にあるのは承知しています。しかし、我々の隣接地域に関わる重要な問題ですよ。少なくとも、事前の相談や意見聴取があってしかるべきではありませんか」
「首相、どうなさいますか」
「まずは本国政府に正式な抗議をしましょう。そして、……」
マクドナルドは周囲を見回してから続けた。
「これは、あと数年後と考えていたんですが、ブリティッシュ・コロンビアのカナダ参加を急ぐべきかもしれませんね。それぞれの植民地の意向は知っています。参加に慎重なのも承知していますが、バラバラでは本国に軽視されます。しかし、統一すれば発言力も増すでしょう」
シーモアは深くうなずいた。
「私も同感です。様々なしがらみはありますが、植民地のままではいつまでも本国の都合に振り回される」
「しかし、カナダ統一に問題がないわけではありません」
マクドナルドは地図を見ながら言った。
「我々の間には広大な未開地が横たわっている。少なくとも、鉄道建設には|莫大《ばくだい》な資金が必要です」
「それに、我が植民地の財政状況も厳しい」
シーモアも困った表情を見せた。
「本国からの支援に頼らざるを得ない状況では、結局は本国の言いなりになってしまう」
2人は沈黙した。
統一の必要性は感じているが、現実的には困難が山積していたのである。
「待て」
マクドナルドは突然何かを思いついた。
「日本はアメリカの南北戦争で、北軍の戦時国債を大量に購入したと聞きました。売却しているかは分かりませんが、相当な国力なのでは?」
「それがどうしたのですか?」
「日本とパートナー関係を築けないでしょうか? イギリス本国を通さずに」
シーモアの目が輝いた。
「なるほど。それは興味深い発想です。しかし、我々には外交権がない。もし本国に……」
「総督、覚悟を決めなければなりませんぞ! ここで決めなければ、我々の未来はないのです!」
「……。分かりました!」
2人は万博の喧騒の中で、重大な決意を固めていた。
「ジロちゃん、今日の交渉はうまくいったの?」
その夜、次郎はお里と万博会場を散策していた。
「うん。うまくいったよ。あとは幕府名代の慶勝さんと話して許可もらうだけ。ただね……これで終わりじゃない気がするんだ」
「どういうこと?」
「うーん、何ていうかな。ほら、イギリス政府と交渉はしているけど、実際のカナダの代表とかブリティッシュ・コロンビアの代表とは面識がないだろ? その人たちが黙っているとは思えないんだよねー。自分たちの利益もあるだろうし」
次郎は夜空を見上げながら続ける。
「もしかすると、この交渉が思わぬ波紋を呼ぶかもしれない。でも……それは悪くない気がする」
お里は次郎の腕に自分の腕を絡めた。
「うーん、ジロちゃん? 何か考えがあるんでしょ?」
お里はいたずらっぽく笑う。
「ああ。カナダにはオレたちが情報提供できる価値がある。彼らが本当に自立を望むなら、オレたちが手を貸す選択肢もあり得るかな」
次郎の脳裏には、カナダの地下に眠る膨大な資源の地図が浮かんでいた。
クロンダイクの金鉱、アルバータのオイルサンド、サスカチュワンの石油。これらの情報は、カナダの統一と自立を大幅に早める宝の地図だ。
「具体的にはどうするの?」
「地質調査への協力、採掘技術の提供、そして資源開発における先住民の権利保護……。組み合わせれば、カナダは短期間で経済的自立を達成できるんじゃないかな」
「でも、それって私たち、つまり日本にどんなメリットがあるの?」
「北アメリカ大陸におけるイギリスの影響力を削げるかな。それから、アメリカやカナダと組んで、太平洋を『平和の海』にできるかもしれない」
あくまで、かも、である。
アメリカが今後どうなるか分からない。
どう外交的に出てくるか分からないが、現時点では強力なパートナーとなり得るのだ。
フランスとの兼ね合いもあるが、何をどの程度カナダに協力するかは、今後の話である。
2人は万博会場の明かりの下を歩き続けた。
翌日、ガウワーのもとに本国からの電報が届いた。
――日本との交渉において、植民地側からの抗議は承知している。交渉を継続せよ。日本との関係を最優先とし、植民地側の懸念は後日の政治的調整で対応する。技術協力に関する具体的合意の確保を急げ――
ガウワーは苦笑いを浮かべた。
本国政府は植民地・自治領の反発を承知の上で、日本との関係構築を優先する方針を明確にしたのである。
彼らにとって新興強国日本は、植民地の機嫌よりもはるかに重要な存在だったのだ。
しかし、ガウワーに一抹の不安があったのも確かである。
カナダやブリティッシュ・コロンビアが単に抗議するだけで終わるとは思えない。特に、マクドナルドのような政治家は、必ず対抗手段を考えてくるはずだ、と。
一方、次郎はこの状況を冷静に分析していた。
イギリスが植民地を軽視して日本を優先したことで、カナダ側の反英感情は確実に高まる。これは日本にとって、北米での新たなパートナーを得る絶好の機会だった。
次回予告 第417話 (仮)『植民地の反乱』

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