慶長九年三月二十六日(1604年4月25日) リスボン リべイラ宮殿
「閣下、斥候からの報告です」
衛兵長が息を切らして部屋に駆け込んでくるが、焦燥しきっている。
「反乱軍の先頭が、既に市街地へ入りました。抵抗もなく、市民は道を開けている模様です」
「そうか」
クリストヴァンはそれだけ言ってうなずいた。
民衆は『国王救出』の大義名分を信じている。
宰相である自分に反旗を翻す兵を、むしろ解放軍として迎えているのだ。
真犯人の解明と逮捕に躍起になっている間に、根回しとプロパガンダによって負けていたのである。
「宮殿の防備は」
「東西の門は固く閉ざし、城壁には弓兵を配置済みです。しかし、敵の数は5,000。我らの5倍以上です」
衛兵長の声には、隠しきれない絶望が表れている。
宮殿を守る兵は1,000に満たない。籠城したとしても、陥落は時間の問題だった。
「陛下と王族の方々は?」
「西棟の奥、最も安全な場所へお移りいただきました。オットー医師とアエリウス医師も付き添っています」
「わかった」
クリストヴァンは短く答えた。
今は国王の身の安全が最優先事項である。
しかし自分が討たれれば、たとえ国王が回復したとしても、セバスティアンの新政は難しいであろう。フォンセカは王太子マヌエルを担ぎ出し、自らに都合のいい政治へと誘導するに違いなかった。
そんな結論は避けたかった。
「降伏はしない」
クリストヴァンの声は静かで、揺るぎない決意が込められていた。
「我々はポルトガル王国の正統な政府だ。降伏など、国家の秩序を自ら破壊する行為に等しい」
ここで屈すれば、国王が心血を注いだ改革の全てが水泡に帰すのである。
「兵たちに伝えよ。我々は国王陛下をお守りする最後の砦である。誇りを胸に、持ち場を死守させよ」
「はっ」
衛兵長は力強く一礼すると、部屋を退出した。
その背中を見送る間もなく、宮殿の外から地を揺るがす鬨の声が響き渡る。
別の伝令が血相を変えて執務室に転がり込んで来た。
「申し上げます! 敵軍、宮殿の正門へ向け前進を開始しました!」
クリストヴァンの表情は変わらない。
「援軍は……まだないのか」
伝令は唇をかんで首を横に振る。
言葉はなくとも何よりも雄弁な答えだった。
「使者を送れ」
フォンセカは馬上から命じた。
「宰相の即時解任と武装解除を要求せよ。抵抗するなら総攻撃を開始すると伝えるのだ」
反乱軍の使者が白旗を掲げ、宮殿の正門へと向かう。
広場の兵士たちが固唾をのんで見守るなか、静寂を破ったのは遠い汽笛の音だった。
鬨の声とは全く異質な、低く重い響きである。
音は1つではない。
いくつも重なって宮殿の空気を震わせた。
兵士たちがどよめき、海の方角へ視線を送る。宮殿へ向かう使者の足が、思わず止まった。
「何の音だ」
フォンセカはいぶかしそうな顔でテージョ川の河口に目を向けた。
港に停泊している船が出す音ではない。もっと巨大で、力強い響きであった。
■リスボン港
リスボン港の監視塔にいた兵士は己の目を疑う。
水平線の向こうに、巨大な船影が次々と姿を現したのだ。煙突からは黒い煙が立ち上り、帆船とは違う速度で港へ突き進んでくる。その先頭を行く船のマストには、2つの旗が翻っていた。白地に赤い日の丸と、赤、白、青の三色旗である。
「同盟国の艦隊です!」
その報は宮殿のクリストヴァンの元にも届いた。
彼は安心感と共にゆっくりと立ち上がる。
「間に……合ったか……」
クリストヴァンにとって九死に一生を得た、まさに助け舟に対する放心の言葉である。
孤独な戦いを強いられていた彼にとって、水平線に現れた艦隊は神の使いであった。
「何だと? 日本とネーデルラントの艦隊が、何の通告もなく侵入したのか」
フォンセカの計算には、同盟国の軍事介入など全く含まれていない。
伝令が駆け寄り、詳細を報告した。
「日本、ネーデルラント、それぞれ4隻ずつ。合計8隻です。港の入り口を塞ぐように錨を降ろしました」
「たった8隻だと?」
フォンセカの言葉は、複数の意味を持っていた。
驚き、焦り、そして虚勢である。
なぜ日本とオランダの艦隊がいるのか?
冗談ではない。
内戦で終わらせるはずが、なぜ外交問題になりかねない艦隊がいるのだ?
そして最後は部下に対する虚勢である。
フォンセカの軍はなにしろ寄せ集めなのだ。何であれ、余裕を見せなければ雲散霧消しかねない。
「案ずるな。宰相の最後の悪あがきであろうよ」
フォンセカは隣にいる貴族に言い放った。
「あの数で我ら5,000の兵を止められるはずもない」
しかし、その言葉とは裏腹に、集まった諸侯たちの間には動揺が広がっていく。
彼らはポルトガルの内戦に参加したつもりであり、日本とオランダを敵に回すつもりはなかった。兵士たちのざわめきが、不安の大きさを物語る。
フォンセカはその空気を断ち切るように叫んだ。
「何をためらう! 予定通り、宮殿に降伏を勧告せよ!」
その声に使者は再び宮殿へと歩みを進める。
時を同じくして、港の艦隊からそれぞれ1隻ずつの小舟が降ろされた。
船が岸壁に着くと、緊張した面持ちの港湾衛兵が、彼らの行く手を阻む。
「どんな御用でしょうか」
衛兵の問いに、オランダ海軍代表のハルベルト・トロンプが答えた。
「我々は三国同盟の使者である。宰相クリストヴァン閣下にお目通り願いたい。ところで、これは一体どういうことかな?」
ハルベルトの言葉は即座にフォンセカに伝えられた。
「トロンプどの、やはり予想通りのようですな」
日本海軍代表の松浦草野永茂が尋ねると、ハルベルトが返事をした。
「ええ、臨戦態勢を維持しておかねばならんでしょう」
「宰相に会うだと?」
フォンセカは報告に来た伝令をにらみ付けた。
我らを無視するつもりか……。
「閣下、あまりに無礼です。あの者たちを捕らえるべきです」
フォンセカは隣の貴族の進言を、静かに首を横に振って却下した。
「それはダメだ。同盟国の使者に手を出せば、それこそ我らが反逆者となる」
選択肢はなかった。
2人を案内してクリストヴァンに会わせるしかないのだ。
「やむを得ない。使者を通せ。宮殿まで丁重に案内するのだ。ただし、我らの兵を護衛につけよ。宰相と何を話すのか一言一句聞き漏らすな」
フォンセカの命令はすぐに港の使者へと伝えられた。
ハルベルトと草野は、宮殿へ向かう反乱軍の士官に促される。
「ご案内いたします。どうぞこちらへ。道中は我々が護衛を務めます」
士官は丁寧な口調の中にも警戒心を緩めることはなかった。
もちろん、ハルベルトと草野に同行してきた両国の護衛も続く。
「承知した」
ハルベルトは簡潔に答えた。
草野と顔を見合わせ、静かにうなずき合う。
2人は反乱軍の兵士たちに周囲を固められ、宮殿へと続く石畳を歩き始める。
沿道の市民は異国の軍人たちの姿を遠巻きに見つめていた。
兵士たちの間からは不安げなざわめきが止まらない。彼らにとって、この同盟国の介入は、戦争の行方を全く予見できないものに変えたのである。
一方、宮殿の執務室ではクリストヴァンが静かに、しかし強い緊張感を漂わせながら同盟国からの使者を待っていた。
次回予告 第933話 『招かれざる客は最後の希望』
5,000の反乱軍に宮殿を包囲され、宰相クリストヴァンは絶体絶命の窮地に陥る。
だがその時、日蘭連合艦隊が突如リスボン港に出現し、戦況は一変した。
こう着状態のなかで2カ国の使者が上陸し、ポルトガル内戦は国際問題へと発展したのである。
反乱軍の監視の下、宰相との緊迫の会談が始まろうとしていた。
ハルベルトと草野はクリストヴァンにとって救世主となり得るのか?

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