慶長九年三月二十六日(1604年4月25日) ポルトガル王国 リスボン近郊
夜明け前、リスボン近郊の森閑とした平原に、無数の松明の炎が揺らめいた。地方諸侯から集結した義兵たちが、続々と陣を張っている。数は既に3,000を超えていた。
侍医長フォンセカの表情には、確かな勝利の予感が満ちている。
「諸君、よくぞ集まってくれた」
彼は集結した兵士たちを前に、力強い声で訴えた。
「国王陛下は今、宰相クリストヴァンの暴政により囚われの身となっている。我らは陛下をお救いするために、この場に集まったのだ」
兵士たちの間から、低いどよめきが起こる。彼らの顔には、国王への忠誠心と、理不尽な現状への憤りが混じり合っていた。
「宰相は無実の者を拘束し、市中を騒がせている。これ以上の暴挙を許してはならない」
フォンセカは続けた。
「我らの大義は『国王陛下の救出』にある。民衆もまた、我らに味方するだろう」
その言葉に兵士たちの士気は高まった。彼らは手に持った武器を高く掲げ、勝利を誓う雄叫びを上げる。夜明け前の闇を切り裂くように響き渡った。
「各方面からの報告では、総勢5,000の兵が集結する見込みです」
一人の貴族が声を弾ませて報告した。
「宰相の手勢など、もはや問題になりません」
フォンセカは満足げにうなずいた。
「準備は整った。明朝には、リスボンへと進軍を開始する」
保守派の貴族たちは、互いに顔を見合わせた。彼らの表情には、長年の鬱憤を晴らすかのような高揚感が浮かんでいる。
「いよいよ、この国の秩序を取り戻すときが来たのだ」
フォンセカは静かに言った。
「国王陛下の御名の下に、我らは正義を貫く」
彼らはワイングラスを掲げ、静かに勝利を祝った。
■宰相執務室
宰相クリストヴァンは、机に広げられた地図をにらみつけていた。目の下には深い隈がある。
「炭売りの情報は、まだつかめないのか」
声には疲労と焦りが混じっていた。
衛兵長は重い足取りで進み出る。
「は。市内をくまなく捜索しましたが、該当する人物は発見できませんでした」
クリストヴァンは絶望した表情を見せた。
「やはり、時間の無駄だったか」
深く息を吐く。
「保守派の動きはどうだ」
「それが……」
衛兵長は言葉を詰まらせた。
「地方から続々と兵が集結しているとの情報が、複数寄せられています」
クリストヴァンの体が硬直した。
「何だって! ? まさか……反乱か?」
「は。リスボン近郊に既に3,000を超える兵が集結しているとのこと。明朝にも、進軍を開始するとの噂です」
衛兵長は続けた。
「保守派は『国王陛下の救出』を大義名分として掲げています。このままでは民衆も彼らに味方する恐れがあります」
クリストヴァンは、地図の上に置かれた自身の指先を見つめた。その指先は、小刻みに震えている。
「私への反逆では民衆は動かない。だが、国王陛下を救うとなれば話は別だ」
彼は歯を食いしばった。
「つまり、私は完全に孤立したというわけか」
衛兵長は、沈痛な面持ちでうつむく。
「日本とオランダからの返答は、まだか」
「いまだ、届いておりません」
衛兵長は答えた。
改革派は文字通り窮地に立たされたのである。
「このままでは、内戦に突入する」
彼は静かにつぶやいた。
「私はその責任を問われるだろう」
脳裏にはセバスティアン1世の顔が浮かぶ。病床に伏している国王の姿が、彼の心を締め付けた。
「しかし……陛下を毒殺しようとした真犯人を、見つけ出さねばならない」
彼は決意を新たにした。
「たとえ、この身がどうなろうとも」
東の空が白み始める頃、義兵たちは進軍を開始した。総勢5,000を超える兵士たちが、隊列を組んでゆっくりと動き出す。
先頭に立つ侍医長フォンセカは、馬上で堂々とした姿を見せた。
表情には勝利への確信が宿っている。
「進め! 国王陛下をお救いするために!」
雄叫びを上げてリスボンへと向かう彼らの槍や剣が、朝日にきらめいた。
義兵の隊列は、まるで巨大な蛇のように平原を進む。
その規模は、リスボンを防衛する宰相の手勢を遥かに上回った。圧倒的な兵力の差は、保守派にさらなる自信を与えているのである。
フォンセカは、遠くに見えるリスボンの城壁を見つめた。
「これで終わりだ、クリストヴァン」
兵士たちの行進は続く。
彼らの顔には、正義を貫く者としての使命感が満ちていた。リスボンの街が、刻一刻と近づいてくる。
■宮殿 宰相執務室
「来たか……」
クリストヴァンの声は、重く響いた。
衛兵長が、慌ただしく部屋に入ってくる。
「閣下、保守派の兵がリスボンへと進軍を開始しました。既に城門近くまで迫っています」
「総勢は」
「約5,000名と報告を受けています」
衛兵長は答えた。
クリストヴァンは大きく息を吐いた。宮殿を守る兵力は、1,000名にも満たない。
「宮殿の守りを固めろ。国王陛下がご滞在の西棟は、特に厳重に警備させるのだ」
「は。しかし、このままでは……」
衛兵長は言葉を濁すが、クリストヴァンは肩に手を置く。
「わかっている。だが、降伏はしない。我らは国王陛下をお守りせねばならないのだ」
彼の目は輝きを失ってはいない。最後まで抵抗しようとする強い意志を示していた。
「日本とネーデルラントからの連絡は、まだか」
「いまだ、ございません」
衛兵長は、沈痛な面持ちで答えた。
夜明けの光が徐々に強くなっているが、その光は彼にとって希望の光ではない。迫りくる破滅の前兆のように見えた。
「間に合うのか……援軍は」
宮殿の外からは兵士たちの歓声が聞こえ始めた。反乱軍の接近を告げる不気味な合図である。リスボン市街は、まさに戦場へと変貌しようとしていた。
「まだ、終わってはいない」
宮殿の廊下を衛兵たちが慌ただしく行き交う。彼らの足音は迫りくる内戦の足音のように聞こえた。
ポルトガルは今、歴史の転換点に立っている。
次回予告 第932話 『三国同盟と国王』
宰相クリストヴァンが「偽りの炭売り」捜索に失敗する中、侍医長フォンセカ率いる保守派は5,000の義兵を集結させ、リスボンへの進軍を開始した。
国王救出を掲げる反乱軍に対し、孤立無援の宰相は絶望的な状況に追い込まれる。
改革派の唯一の望みは、日本とオランダからの援軍の到着だが、その返答はまだ届かない。
次回、反乱軍がリスボンに到着し宮殿を包囲する! 日蘭の援軍は間に合うのか?

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