第462話 『あり得ない条件』

 慶応五(明治二)年二月五日(1869年3月17日) 京都・小浜藩邸

「……条件、とな。いかなるものか」

 慶喜は努めて平静を装って低い声で問い返した。

 家茂の意向を受けて、徳川の威光を保ったまま大村を取り込むための懐柔策である。その最終段階で相手から逆に条件を突きつけられる事態は、慶喜の描いた筋書きにはなかった。

 純顕は何も言わず、次郎の横顔を見守っている。

 会談内容は事前に2人で何度も想定問答を繰り返した。

 しかし、これから次郎が口にする言葉が大村藩だけではなく、日本の未来を左右する分岐点になるのである。その重圧が、純顕の肩にのしかかっていた。

「……その前に、中納言様は御料、公儀御料所をいかにお考えでしょうか」

「……何?」

 慶喜の口から、純粋な疑問の声が漏れた。

 御料、公儀御料とはすなわち天領である

 また話の流れが唐突に変わった。

 慶喜は次郎の真意を測りかねて、眉間にわずかな皺を寄せている。老中や奉行就任の話をしているのに、なぜ幕府の根幹たる財政基盤の話が出てくるのか。

「御料とは、言うまでもなく将軍家が代々受け継いでこられた所領。公儀御料はすなわち、幕府が直に治める土地のこと。それが何か」

 慶喜は慎重に言葉を選んで答えた。

 次郎の問いには何か裏がある。それを鋭く感じ取っていたのだ。

 次郎は慶喜の警戒を意に介さず、静かに言葉を続けた。

「その御料は、徳川将軍家のものにございますか? それとも公の、日本の政のために幕府が差配する御料にございますか?」

 次郎の問いは部屋の空気を一変させた。

 慶喜の表情からわずかに残っていた笑みが完全に消え去る。

 次郎の狙いがはっきりと見えたのだ。

 これは、徳川による支配の正当性そのものへの挑戦である。単なる駆け引きではない。徳川250年の治世の根幹を問う、恐るべき刃であった。

「……左衛門佐。言葉を慎め」

 慶喜の声は低く、不快感がにじんでいた。

「御料は将軍家が泰平の世を築き、これを保つためにあるもの。公儀のためであることは、言うまでもない。徳川の私財などと、考えたこともないわ」

 それは将軍名代として言わなければならない言葉であった。しかしその声には、目の前の男が持つ揺るぎない論理の前で、かすかに揺らいでいる。

「お答え気ただき、ありがたく存じます。されば今一度、御料所はあくまで公のものであって、私のものではないと仰せになりますか」

「くどいぞ、左衛門佐」

 次郎は笑みを浮かべて深く一礼し、顔を上げた。

 その目は、慶喜の心を射抜くように真っ直ぐであった。

「されば申し上げます。ただ今は、天下国家の大事を京の貴族院にて合議いたしております。御料所が真に公のものならば、幕府差配の御料所から、議会差配となすべくお願い申し上げます。真に御料所が公の物ならば、何の障りもないかと存じます」

 時が止まった。

 障子の外で微かに聞こえていた夜の物音さえ、完全に消え失せたように感じられる。

「……左衛門佐、正気か」

 かろうじて漏れた声は、かすかに震えていた。

 天領を議会に明け渡せば、幕府の財政基盤が徳川家の手から完全に離れることを意味する。250年かけて築き上げてきた支配体制の、根幹を破壊するに等しい行為であった。

「正気も正気、これ上なく真剣に申し上げております」

 次郎は、慶喜の激しい動揺にも全くひるまない。

「中納言様は先程、御料所は公儀のものと仰せられました。これより先の日本の公儀とは、すなわち議会に他なりませぬ。徳川将軍家が議会の筆頭たる大名であることに、異を唱える者はおりません。されど、この国の富は将軍家だけのものではない。国の財の源はすべて議会がまとめて管理し、富国強兵のため、最も無駄なく差配すべきにございます」

 次郎の内心は幕府組織の解体が理想であったが、できるはずがない。

 徳川の全てを敵に回してしまう。

「世迷言を……!」

 慶喜は食卓に片手をつき、低い声でうなった。

 顔は怒りで赤く染まっている。

 ……息を大きく吸って吐いた。

 何度か繰り返し、再び口を開く。

「天領なくしていかにして幕府は国をまとめ、異国との折衝にあたるのだ。それは徳川に、この国を治める務めを|為止《しさ》せよ(放棄せよ)と、そう申しているに等しい!」

「務めは、徳川家のみが負うものではございません。このさきは議会に参加する全ての藩が、等しく国の務めを分かち合うのです。故に財の源もまた、議会に集めまとめるのが道理と存じます」

 次郎の論理には一切の隙がなかった。慶喜は反論の言葉を見つけられずにただ唇をきつく結ぶ。

 部屋を支配する重い沈黙の中、次郎は2つ目の条件を告げた。

「加えて今一つ。幕府にございます全てのお役目、譜代、外様の別なく、才ある者を登用する仕組みをお認めいただきたい」

 1つ目の要求が財政基盤の解体ならば、2つ目の要求は徳川による人事権の独占、すなわち支配構造の解体である。

 老中を筆頭とする幕府の要職は、長きにわたり譜代大名によって占められてきた。それは徳川への忠誠によって成り立つ、閉鎖的な権力構造そのものである。

 次郎の要求はその不文律を破壊し、能力本位の人材登用を制度化せよというものであった。

「我が殿と某を要職へ、とのお申し出、まことに光栄に存じます。なればこそ、その道を他の全ての藩にもお開きいただきたい。薩摩にも長州にも、土佐にも加賀にも、才ある者は数多くおります。彼の者らの知恵と力を集めずして、日本の未来を切り開くことはできませぬ」

 そこまで聞いて、慶喜の堪忍袋の緒が切れた。

「黙れ!」

 激しい声が響き、膳の上の椀がかすかに震えた。慶喜は身を乗り出すようにして、次郎を睨み据える。その目は怒りに燃え、これまで保っていた冷静さは完全に消え失せていた。

「おのれ……! 余の真意を、将軍家のお心を、どこまで愚弄すれば気が済むのだ! 大村の力を幕政に活かし、共に国を支えようという温情をことごとく仇で返すか!」

 懐柔策が完全に裏目に出た事実を、慶喜は全身で悟っていた。

 大村の力を取り込むどころか、逆に自らの足元を根こそぎ奪おうとする、あり得ない要求を突きつけられたのである。

 これは交渉ではない。最後通牒だ。

 徳川の支配を終わらせるための、静かな宣戦布告である。

「愚弄ではございません、中納言様。これからの国造りに、必要不可欠な変革であると確信しております」

 激昂する慶喜を前にしても、次郎の口調は静かなままであった。

「譜代や外様という生まれで人の役割を定める世は、終わりにするべきです。参勤交代がそうであったように、力で押さえつけるだけの仕組みは、もはや国を衰退させるだけ。これからは誰もがその才に応じて国のために働き、その働きによって認められる、さような新しい仕組みを作らねば、日本は立ち行かなくなります」

「戯言を申すな! 徳川が築いた秩序なくして、何の国造りか! 才ある者を集めると言うが、それはすなわち、野心ある者どもに国を切り売りさせることに他ならぬ! お主が為さんとするは国の破壊だ!」

 慶喜は立ち上がらんばかりの勢いで反論した。

 しかしその言葉には、もはやかつての自信が感じられない。

 次郎の論理は、慶喜が心の奥底で感じていた時代の変化と、皮肉にも一致していたのだ。だからこそ、彼はこれほどまでに激しく反発するのかもしれない。

 旧来の価値観の分厚い壁が、目の前の男によって崩されようとしている。その恐怖が、慶喜を駆り立てていた。

「破壊ではございません。創造のための礎でございます。徳川将軍家が、その新しい世の先駆けとなるのです。御料所を議会のものとし、身分によらない登用を認める。それは将軍家が私利私欲ではなく、真に公のために立つ存在であると、天下に示すことになりましょう。これ以上の威光がありましょうか」

 次郎の言葉は、慶喜の怒りを鎮めるどころか、さらに油を注いだ。

 徳川の名代である慶喜に対する、あまりにも痛烈な皮肉に聞こえたのである。

 慶喜は、はっ、と乾いた笑い声を漏らした。そしてゆっくりと席に座り直す。その顔からは表情が消え、能面のような冷たさだけが残っていた。

「……見事なものだ、左衛門佐。余の策を逆手に取り、ここまで追い詰めるとはな。もはや、語るべき言葉はない」

 その声は、全ての交渉を打ち切りを意味していた。事実上の決裂である。

「今宵の饗応、これにて終わりとする。六衛督殿、左衛門佐殿、下がられよ」

 拒絶の言葉は氷のように冷たかった。

 純顕と次郎は、何も言わずに深く頭を下げ、静かに席を立った。

「いや待て! 待つのだ」

 次郎と純正が襖を開けて退室しようとしたその時、慶喜の声が響いた。

「その話、事と次第によっては考えよう。江戸に戻って上様のご意向を聞かねばならんが」

 !

 2人は立ち止まり、振り返って無言で座って慶喜と再び正対した。

 次回予告 第463話 (仮)『確かに、そのとおり』

コメント

タイトルとURLをコピーしました