慶応五(明治二)年二月五日(1869年3月17日) 京都・小浜藩邸
「……条件、とな。いかなるものか」
慶喜は努めて平静を装って低い声で問い返した。
家茂の意向を受けて、徳川の威光を保ったまま大村を取り込むための懐柔策である。その最終段階で相手から逆に条件を突きつけられる事態は、慶喜の描いた筋書きにはなかった。
純顕は何も言わず、次郎の横顔を見守っている。
会談内容は事前に2人で何度も想定問答を繰り返した。
しかし、これから次郎が口にする言葉が大村藩だけではなく、日本の未来を左右する分岐点になるのである。その重圧が、純顕の肩にのしかかっていた。
「……その前に、中納言様は御料、公儀御料所をいかにお考えでしょうか」
「……何?」
慶喜の口から、純粋な疑問の声が漏れた。
御料、公儀御料とはすなわち天領である
また話の流れが唐突に変わった。
慶喜は次郎の真意を測りかねて、眉間にわずかな皺を寄せている。老中や奉行就任の話をしているのに、なぜ幕府の根幹たる財政基盤の話が出てくるのか。
「御料とは、言うまでもなく将軍家が代々受け継いでこられた所領。公儀御料はすなわち、幕府が直に治める土地のこと。それが何か」
慶喜は慎重に言葉を選んで答えた。
次郎の問いには何か裏がある。それを鋭く感じ取っていたのだ。
次郎は慶喜の警戒を意に介さず、静かに言葉を続けた。
「その御料は、徳川将軍家のものにございますか? それとも公の、日本の政のために幕府が差配する御料にございますか?」
次郎の問いは部屋の空気を一変させた。
慶喜の表情からわずかに残っていた笑みが完全に消え去る。
次郎の狙いがはっきりと見えたのだ。
これは、徳川による支配の正当性そのものへの挑戦である。単なる駆け引きではない。徳川250年の治世の根幹を問う、恐るべき刃であった。
「……左衛門佐。言葉を慎め」
慶喜の声は低く、不快感がにじんでいた。
「御料は将軍家が泰平の世を築き、これを保つためにあるもの。公儀のためであることは、言うまでもない。徳川の私財などと、考えたこともないわ」
それは将軍名代として言わなければならない言葉であった。しかしその声には、目の前の男が持つ揺るぎない論理の前で、かすかに揺らいでいる。
「お答え気ただき、ありがたく存じます。されば今一度、御料所はあくまで公のものであって、私のものではないと仰せになりますか」
「くどいぞ、左衛門佐」
次郎は笑みを浮かべて深く一礼し、顔を上げた。
その目は、慶喜の心を射抜くように真っ直ぐであった。
「されば申し上げます。ただ今は、天下国家の大事を京の貴族院にて合議いたしております。御料所が真に公のものならば、幕府差配の御料所から、議会差配となすべくお願い申し上げます。真に御料所が公の物ならば、何の障りもないかと存じます」
時が止まった。
障子の外で微かに聞こえていた夜の物音さえ、完全に消え失せたように感じられる。
「……左衛門佐、正気か」
かろうじて漏れた声は、かすかに震えていた。
天領を議会に明け渡せば、幕府の財政基盤が徳川家の手から完全に離れることを意味する。250年かけて築き上げてきた支配体制の、根幹を破壊するに等しい行為であった。
「正気も正気、これ上なく真剣に申し上げております」
次郎は、慶喜の激しい動揺にも全くひるまない。
「中納言様は先程、御料所は公儀のものと仰せられました。これより先の日本の公儀とは、すなわち議会に他なりませぬ。徳川将軍家が議会の筆頭たる大名であることに、異を唱える者はおりません。されど、この国の富は将軍家だけのものではない。国の財の源はすべて議会がまとめて管理し、富国強兵のため、最も無駄なく差配すべきにございます」
次郎の内心は幕府組織の解体が理想であったが、できるはずがない。
徳川の全てを敵に回してしまう。
「世迷言を……!」
慶喜は食卓に片手をつき、低い声でうなった。
顔は怒りで赤く染まっている。
……息を大きく吸って吐いた。
何度か繰り返し、再び口を開く。
「天領なくしていかにして幕府は国をまとめ、異国との折衝にあたるのだ。それは徳川に、この国を治める務めを|為止《しさ》せよ(放棄せよ)と、そう申しているに等しい!」
「務めは、徳川家のみが負うものではございません。このさきは議会に参加する全ての藩が、等しく国の務めを分かち合うのです。故に財の源もまた、議会に集めまとめるのが道理と存じます」
次郎の論理には一切の隙がなかった。慶喜は反論の言葉を見つけられずにただ唇をきつく結ぶ。
部屋を支配する重い沈黙の中、次郎は2つ目の条件を告げた。
「加えて今一つ。幕府にございます全てのお役目、譜代、外様の別なく、才ある者を登用する仕組みをお認めいただきたい」
1つ目の要求が財政基盤の解体ならば、2つ目の要求は徳川による人事権の独占、すなわち支配構造の解体である。
老中を筆頭とする幕府の要職は、長きにわたり譜代大名によって占められてきた。それは徳川への忠誠によって成り立つ、閉鎖的な権力構造そのものである。
次郎の要求はその不文律を破壊し、能力本位の人材登用を制度化せよというものであった。
「我が殿と某を要職へ、とのお申し出、まことに光栄に存じます。なればこそ、その道を他の全ての藩にもお開きいただきたい。薩摩にも長州にも、土佐にも加賀にも、才ある者は数多くおります。彼の者らの知恵と力を集めずして、日本の未来を切り開くことはできませぬ」
そこまで聞いて、慶喜の堪忍袋の緒が切れた。
「黙れ!」
激しい声が響き、膳の上の椀がかすかに震えた。慶喜は身を乗り出すようにして、次郎を睨み据える。その目は怒りに燃え、これまで保っていた冷静さは完全に消え失せていた。
「おのれ……! 余の真意を、将軍家のお心を、どこまで愚弄すれば気が済むのだ! 大村の力を幕政に活かし、共に国を支えようという温情をことごとく仇で返すか!」
懐柔策が完全に裏目に出た事実を、慶喜は全身で悟っていた。
大村の力を取り込むどころか、逆に自らの足元を根こそぎ奪おうとする、あり得ない要求を突きつけられたのである。
これは交渉ではない。最後通牒だ。
徳川の支配を終わらせるための、静かな宣戦布告である。
「愚弄ではございません、中納言様。これからの国造りに、必要不可欠な変革であると確信しております」
激昂する慶喜を前にしても、次郎の口調は静かなままであった。
「譜代や外様という生まれで人の役割を定める世は、終わりにするべきです。参勤交代がそうであったように、力で押さえつけるだけの仕組みは、もはや国を衰退させるだけ。これからは誰もがその才に応じて国のために働き、その働きによって認められる、さような新しい仕組みを作らねば、日本は立ち行かなくなります」
「戯言を申すな! 徳川が築いた秩序なくして、何の国造りか! 才ある者を集めると言うが、それはすなわち、野心ある者どもに国を切り売りさせることに他ならぬ! お主が為さんとするは国の破壊だ!」
慶喜は立ち上がらんばかりの勢いで反論した。
しかしその言葉には、もはやかつての自信が感じられない。
次郎の論理は、慶喜が心の奥底で感じていた時代の変化と、皮肉にも一致していたのだ。だからこそ、彼はこれほどまでに激しく反発するのかもしれない。
旧来の価値観の分厚い壁が、目の前の男によって崩されようとしている。その恐怖が、慶喜を駆り立てていた。
「破壊ではございません。創造のための礎でございます。徳川将軍家が、その新しい世の先駆けとなるのです。御料所を議会のものとし、身分によらない登用を認める。それは将軍家が私利私欲ではなく、真に公のために立つ存在であると、天下に示すことになりましょう。これ以上の威光がありましょうか」
次郎の言葉は、慶喜の怒りを鎮めるどころか、さらに油を注いだ。
徳川の名代である慶喜に対する、あまりにも痛烈な皮肉に聞こえたのである。
慶喜は、はっ、と乾いた笑い声を漏らした。そしてゆっくりと席に座り直す。その顔からは表情が消え、能面のような冷たさだけが残っていた。
「……見事なものだ、左衛門佐。余の策を逆手に取り、ここまで追い詰めるとはな。もはや、語るべき言葉はない」
その声は、全ての交渉を打ち切りを意味していた。事実上の決裂である。
「今宵の饗応、これにて終わりとする。六衛督殿、左衛門佐殿、下がられよ」
拒絶の言葉は氷のように冷たかった。
純顕と次郎は、何も言わずに深く頭を下げ、静かに席を立った。
「いや待て! 待つのだ」
次郎と純正が襖を開けて退室しようとしたその時、慶喜の声が響いた。
「その話、事と次第によっては考えよう。江戸に戻って上様のご意向を聞かねばならんが」
!
2人は立ち止まり、振り返って無言で座って慶喜と再び正対した。
次回予告 第463話 (仮)『確かに、そのとおり』

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