慶長七年九月二十五日(西暦1602年10月11日) リスボン
「……重要な提案があるんです」
その言葉がセバスティアンの注意を強く引きつけた。イタリア商人たちが退出した後に執務室は急に静かになったが、すでに関心は新しい提案に移っている。
「今後のポルトガルにとって重要な提案、ですか。詳しく聞かせてもらいましょう」
セバスティアンは身を乗り出した。
「場所を移しましょう。地図が必要です。それも、世界地図が」
フレデリックは落ち着いた口調で答えた。
セバスティアンはすぐにうなずき、侍従に命じて二人を宮殿の図書室へと案内させる。
図書室に到着すると、フレデリックは侍従が広げた世界地図の上に指を滑らせた。指先はポルトガルの首都リスボンから始まり、ゆっくりと南へと動いていく。
「私が提案するのは、『大東方電信計画』です」
フレデリックは静かに言ったが、確信に満ちていた。
「電信……ですか。オランダで使われている、電気で遠隔地に文字を送る装置の」
セバスティアンはすぐに理解を示した。王室保安局を通じて技術の概要は報告を受けていたのである。
「そのとおりです。ですが規模が違います。このリスボンから直接南へ進んでサアド朝(モロッコ)のカサブランカへは船で向かいますが、その後さらに南下してアルギン島(ポルトガル領)対岸へと進みます」
フレデリックの指は陸地の都市を順に進み、海路はすべて船で渡る経路であった。
すべてがポルトガルの植民地もしくは大日本帝国の海外領土、ないし友好国である。
セバスティアンは息をのんだ。
「日本まで……。正気ですか? 貴国の船で10か月、いや、日本までならゆうに1年はかかるでしょう。その距離を情報が瞬時に届くのですか?」
「瞬時ではありません。間に何か所も中継点を挟みますから。海も渡ります。それでも1年かかる情報の伝達が、わずか数日、あるいは数週間で済むのです」
全区間を電信で賄えれば数時間であろうが、オランダの海底ケーブルはまだ実用化されていない。
今回の計画中にアデン湾で実施する予定である。
ジブラルタル海峡はイベリア半島側がスペイン領なので現状では不可能だ。
セバスティアンは言葉を失い、地図に描かれた線を凝視した。
商業においては価格変動や市場の需要を即座に把握できる。
軍事においては、遠く離れた植民地や艦隊の状況をリアルタイムで掌握して的確な指示を送れるのだ。
政治においても外交交渉の主導権を握れる。
世界中の情報を誰よりも早く手に入れれば、国家の意思決定を最適化できる。
「情報の速さが、富と力を生む……。いや、情報の速さ自体が権力となる時代が来る……」
セバスティアンはつぶやいた。
しかし、同時に巨大な疑問が浮かび上がったのである。
「壮大過ぎる計画だな。フレデリック殿。オランダと日本の力を合わせれば、理論上は可能なのでしょう。しかしこれを実現するには、どれほどの時間と国力が必要になるだろうか……」
その懸念に対して、フレデリックは衝撃的な事実を告げた。
「陛下。お伝えしなければならない重要な事実があります。この計画の東側半分、つまり日本からインドに至る陸路・海路の通信網は、既に日本によって建設が進行中なのです。海底ケーブルの敷設はまだですが、中継点の確保や陸上施設の建設は始まっています」
「なんと……」
セバスティアンは絶句した。
自分たちが机上で夢物語を語っている間に、世界の裏側では、既に未来が形作られ始めていたのである。
「我々が今ここで議論しているのは、計画の是非ではありません。既に動き出している巨大な計画に、ポルトガルがどう関わるかです。インドからリスボンまでをつないで計画を完成させる西側のルートの建設を、陛下にお願いしたいのです」
フレデリックの言葉を受けてセバスティアンは地図をじっと見つめた。
脳裏で、点と点がつながっていく。
「……なるほど。留学生たちが送ってくる報告の意味が、ようやく理解できました。日本の巨大な銅山は資源の問題を解決し、蒸気船を次々と建造する巨大造船所は工業力と敷設手段を確保する。つまり、日本は単独でもインドまでの東側ルートを完成させる力がある。その上で、我々に声をかけてきた、と」
「そのとおりです」
「……やりましょう。この計画に、ポルトガルは全力で参加します」
オランダからポルトガル領を経て、日本へ向かう大電信網計画が始まった。
■慶長七年十月十六日(西暦1602年11月1日)
リスボン市庁舎に隣接して急きょ設けられた特別法廷は、歴史的な裁判の始まりを告げる厳粛な空気に包まれていた。
傍聴席はポルトガル国内の有力貴族や官僚、イタリア各都市の商人代表、そしてオランダやイギリス、フランスから派遣された外交使節団で埋め尽くされている。
誰もが固唾をのんで、これから行われる前代未聞の裁判の行方を見守っていたのだ。
国王に対する反逆罪で、カトリック教会の高位聖職者である枢機卿が世俗の法によって裁かれる。それは、ポルトガルにおける権力の序列が、神から法へと移り変わる瞬間を意味していた。
傍聴席の一角の一段高く設けられた席で、セバスティアンは静かに腕を組んで法廷全体を見渡している。
彼の隣にはフレデリックが控えていた。
セバスティアンの目的は枢機卿個人への報復ではない。法の前では聖職者であろうと例外なく平等である国家の基本原則を、国内外に明確に示すためであった。
裁判長を務めるのは、最高法院長官のアルメイダ侯爵である。
彼はセバスティアンが改革の中で登用した実務派の法学者だ。
敬けんなカトリック教徒であるがために、枢機卿の罪は国家への反逆であると同時に、神の教えと教会の権威を著しく汚す大罪であると考えている。
彼にとっては法の下にすべての人間を平等に裁く行為こそが、地上の秩序を守る神聖な義務であった。
「開廷する」
アルメイダの厳かな声が、静まり返った法廷に響き渡った。
まず、検察官が起訴状を読み上げる。
その内容は傍聴人の多くが既に知っていたが、改めて公の場で検察官が読み上げると、その罪の重さに誰もが息をのんだ。
第一の罪状は、国王陛下に対する毒殺未遂。
第二の罪状は、国王陛下の乗る馬車への襲撃と暗殺計画。
第三の罪状は、虚偽の情報を流布し、市民扇動による国家反逆罪。
「被告人、前へ」
裁判長の命令を受け、枢機卿はゆっくりと立ち上がった。彼の隣では、教会法を専門とする老弁護士が心配そうに付き添っている。
「起訴状に述べられた3つの罪状を認めるか否か、答えなさい」
アルメイダの問いかけに対し、枢機卿は裁判長ではなく、天を仰いで大声で答えた。
「私は神の僕である。地上の人間が、神の代理人たる私を裁くなど断じて許されぬ。この法廷は神への冒とくである!」
法廷内がわずかにどよめいたが、アルメイダはまったく表情を変えずに続けた。
「質問に答えなさい。罪を認めるか、認めないか」
「認めぬ! 断じて認めぬ!」
枢機卿は叫んだ。
その態度は法廷での弁明を放棄し、殉教者として振る舞う道を選んだかに見える。
「よろしい。では、検察側は証拠の提示を」
裁判長の許可を得て、検察官が立ち上がった。
彼は落ち着き払った声で、これから法廷に提出される証拠品のリストを読み上げ始める。
・毒殺計画に用いられた毒薬の瓶、ならびにその入手経路を記した商人の宣誓供述書。
・馬車襲撃計画の詳細を記した、被告人直筆の指示書。
・暴動を扇動するために各教会へ送られた文書の原本、ならびにそれを受け取った複数の神父による証言録。
・計画の実行犯全員の自白調書。これには、被告人から直接指示を受けた日時、場所、会話の内容が詳細に記録されている。
検察官が次々と読み上げる物的証拠と証言の数々が、枢機卿の関与を疑いようもなく示している。弁護人は顔面そう白になり、枢機卿自身も、その顔から血の気が引いていくのが傍聴席からでも見て取れた。
「では被告、この質問は本法廷とは直接に関係はないが、被告の名誉のためにあえて聞く。さきほど神の代理人と言ったが、それは誰が決めたのだろうか? その証拠と根拠はなんであろうか?」
アルメイダの予期せぬ問いかけに、法廷内の空気が凍り付いた。
それは罪状の事実関係を問うのではなく、枢機卿の存在の根幹を揺るがす一撃である。
「異議あり! 裁判長、その質問は本件とは無関係です!」
と弁護人が慌てて叫ぶが、アルメイダは片手でそれを制した。
「無関係であるとは、私も最初に断ったはずだ。これは、被告が自らの権威を法廷のそれより上に置こうとする主張に対する、単なる確認に過ぎない。答えなさい、被告。あなたを神の代理人たらしめている根拠は、何か」
アルメイダの静かな、しかし有無を言わせぬ声が響く。
枢機卿は一瞬虚を突かれたが、すぐにその表情は侮蔑と怒りに染まった。
「愚かな! 神の権威が、俗人である貴様に理解できるとでも思うのか! その根拠は聖書にあり、使徒ペテロより連綿と続く教会の伝統にある! 貴様が問い、証拠を求める行為自体が神への冒とくに他ならぬわ!」
枢機卿は信仰の面から必死に反撃するがアルメイダは全く動じなかった。
静かにうなずくと、さらに問いを重ねる。
「なるほど。ではその聖書を解釈し、伝統を紡いできたのは誰かな? 神か? いや、人間であろう。あなたを枢機卿に任命した教皇聖下も一人の人間だ。その人間による任命が神聖ならば、国王陛下が法の名の下に任命したこの私が、同じく人間であるあなたを裁く行為に、一体何の違いがあるのかね?」
「なっ……!」
枢機卿は言葉に詰まった。
アルメイダの論理は、枢機卿がよじ登ってきた権威のハシゴを一段一段冷静に外していく。神の権威も教会の伝統も、突き詰めれば人間が解釈し、人間が作り上げてきたシステムに過ぎない。
その冷徹な事実を、法廷にいるすべての者の前で暴き立てたのだ。
「詭弁だ! 冒とくだ! 貴様は地獄の業火に焼かれるぞ!」
もはや枢機卿に論理的な反論は残されていなかった。ただ暴言を吐き散らすだけである。
傍聴席の貴族や商人たちはその無様な姿を冷ややかに見つめていた。彼らが今まで恐れ敬ってきた権威の正体が、これほどまでにもろかったのかと、誰もが実感していたのである。
「被告の主張は理解した。裁判を続行する」
彼は静かにそう告げると、再び証拠調べへと手続きを戻した。
法廷はもはや枢機卿の罪を証明するだけの場ではない。
それは、ポルトガルにおいて、神の権威が法の権威に完全に屈した瞬間を記録する、歴史的な舞台となったのである。
次回予告 第911話 (仮)『枢機卿の末路と第二世代』

コメント