慶長七年七月十一日(西暦1602年8月27日) リスボン
「よいか、気づかれないよう迅速に任務を遂行するのだ」
「ははっ」
セバスティアンが逮捕状に署名した翌朝早く、王室保安局の部隊が静かに出動した。
石畳の道に響く統制された足音が、行き交う者もいない早朝の静寂を破る。
目的地はポルトガルにおけるカトリック教会の権威の象徴、リスボン大聖堂であった。
壮麗な建物の正面に着いた部隊は、迷うことなく作戦を始めた。
隊長が重厚な扉を数度たたくと、内側からヒソヒソ声が聞こえて若い聖職者が対応した。
「こ、これはいったい何事ですか? ここは大聖堂、聖なる場所ですよ」
「国王陛下の名において、枢機卿閣下にご足労願う。国家に対する反逆の容疑である」
隊長の低く、しかし明瞭な声が大聖堂の静寂に響き渡った。
その言葉は単なる逮捕の通告ではない。ポルトガルの歴史において、王権が教会の権威に対して正面から法を執行する、今までにない宣言であった。
「何のつもりだ。ここは神の家であるぞ。世俗の法が及ぶ場所ではない」
「我々は神ではなく、ポルトガル国王の法を執行する」
しばらくして着の身着のまま出てきた枢機卿に対し、隊長はまったく動じない。
背後に控える警護班の兵士たちは後装式小銃を携え、いかなる抵抗も許さないとの無言の圧力を放っている。
枢機卿は顔をゆがめた。
彼らが先日、自らが扇動した暴徒をいとも簡単に鎮圧した部隊であると悟ったのである。
狂信はもはや通じない。
科学と規律で武装した王の新しい力の前では、信仰による抵抗はあまりにも弱かった。
「く……。しばらく待つが良い」
抵抗を諦めた枢機卿は寝間着姿から正装に着替える。
その後、兵士たちに両脇を固められ、大聖堂から連れ出された。
朝日が差し込み始めた広場には、早起きの市民が何事かと集まり始め、その光景に息をのんでいる。
ポルトガルで最も高位の聖職者が、罪人と同じ扱いを受けて兵士に連行されていくのだ。
ある者はただ客観的に眺め、ある者は泣いた。そしてまたある者は罵声を浴びせている。
衝撃的な光景はうわさとなってまたたく間にリスボン全土へ、そしてポルトガル全土へと広がっていった。
人々は混乱した。
長年、神の代理人として敬ってきた枢機卿が、国王への反逆者として捕らえられたのだ。
どちらが正義で、どちらが悪なのか。
セバスティアン王が進める急進的な改革への不安と、旧来の教会への信仰心が、民衆の中で激しく衝突し、国全体が不穏な空気に包まれていく。
枢機卿逮捕の報は教会関係者や保守派貴族に激震を与えた。
彼らは王宮へ抗議の使者を送ったが、セバスティアンは面会を拒否し、代わりに布告を市内広場に張り出したのである。
布告は枢機卿を国家反逆罪で裁く『特別法廷』の設置を宣言し、公開裁判では身分に関係なく世俗法の下での平等を明示した。これは政教分離の理念を国家の根幹に据えるセバスティアンの意志表示でもある。
「民衆は動揺している。長年の信仰と思想を一度に変えるのは容易ではない」
「しかし、陛下。変化には痛みが伴います。重要なのは、この改革がポルトガルの未来にとって不可欠であると、国民に示し続けることです」
フレデリックのその言葉には、オランダ独立戦争を戦い抜いたマウリッツの代理人としての現実的な視点が込められていた。
「分かっている。だからこそ、裁判は公正でなければならない。すべての証拠を白日の下にさらし、誰が悪意をもってこの国を危機に陥れたのかを、国民自身の目で見させる必要がある。もちろん、相手側にも弁護人を用意させる」
しかし、彼らの想定通り、最大の抵抗勢力は国内の保守派ではなかった。枢機卿逮捕の報はローマのヴァチカン宮殿にまで届いていたのである。
■慶長七年九月(西暦1602年10月) ローマ教皇庁
教皇クレメンス8世は、ポルトガルからの急使がもたらした報告にしばらく言葉を失った。
一国の国王が、ローマ教皇が任命した枢機卿を、世俗の法廷で裁こうとしている。カトリック世界の秩序に対する許しがたい挑戦であった。
史実ではクレメンス8世は教皇としては珍しく、聖職者と政治家の両面で優れた人物として評価されている。
ジョルダーノ・ブルーノはオランダに滞在を続けており処刑を免れていた。
しかし、ベアトリーチェ・チェンチとその家族の処刑は1599年に実施されている。
3年前とはいえ、ローマの市民感情は教皇に好意的ではなかった。
報告を受けて激怒した教皇は、直ちに枢機卿会議を招集する。
「ポルトガル王セバスティアンの行動は、神への冒とくである! 聖職者には、神から与えられた不可侵の特権がある。世俗の王が自らの都合でそれを侵すなど、断じて許される行為ではない!」
クレメンス8世の怒声が響き渡る。
彼は前述のとおり優秀ではあったが、教会の権威については極めて敏感であった。
会議は紛糾したが、結論は1つしかない。
ポルトガル王の暴挙を断固として阻止し、カトリック教会の権威を守り抜く。
直ちに親書が起草され、教皇特使がリスボンへ派遣された。
セバスティアンはすぐに裁判にはかけない。
時間をかけてさらに調べ直し、逆に枢機卿側にも時間的に猶予を与えていたのである。
到着した特使はリベイラ宮殿に招かれたが、謁見は儀礼的ではなく、極度の緊張感に包まれていた。
セバスティアンは玉座に座し、その傍らにはオランダ総督代理としてフレデリックが静かに控えている。
「聖座よりポルトガル国王セバスティアン1世に通告する。速やかに神の僕たる枢機卿を解放し、その名誉を回復せよ。聖職者の裁きは、教会法廷においてのみ行われる。もしこの神聖なる秩序に背き続けるならば、汝自身はもちろん、ポルトガル王国全土に対して破門と神の罰が下される」
教皇特使は、仰々しく羊皮紙の親書を広げ、内容を読み上げた。
破門。
カトリック教徒にとって魂の救済を閉ざされるに等しい最悪の宣告である。
特使の言葉はポルトガルの廷臣たちを恐怖に震え上がらせた。
国王が破門されれば、臣下は忠誠の義務から解放される。国内の保守派がこれを口実に反乱を起こし、スペインなどのカトリック大国が介入してくる可能性も否定できない。
謁見の間は、水を打ったように静まり返った。
全員の視線が、玉座のセバスティアンに注がれる。
「なるほど。それで?」
セバスティアンの返答はあまりにも静かであった。
その声には恐怖も動揺も、怒りすら含まれていない。ただ純粋な問いかけだけが、静まり返った謁見の間に響く。
教皇特使は予期せぬ反応に一瞬言葉を詰まらせた。
彼は国王の激こうか、あるいは狼ばいを想定していた。しかし目の前の王は、まるで他人事を聞くかのようにただ続きを促している。
「そ、それで、とは……。陛下、これは警告ですぞ。教皇聖下の最終通告です。破門の意味を、まさかご存じないわけではあるまい」
「破門破門と、そう金切り声をあげなくてもよいだろう。よいか? 余は毒殺されかけ、事故にみせかけて殺されかけ、さらには狂信的な暴徒にまで襲われたのだぞ。他にもあげればきりがない。そのすべに枢機卿が関与し、教唆していた事実は明白だ。十分な証拠もあり、証言も得ている。枢機卿を教皇庁はいったいどうなさるつもりなのだ?」
教皇特使の顔から血の気が引いた。
セバスティアンは交渉の余地すら与えるつもりはないのである。
「そ、それは……もちろん、教会法にのっとり、厳正に……」
「厳正に? どうするのだ? フレデリック殿、ネーデルラントでは殺人を教唆し、しかも1度ではなく何度も教唆した者の罰は何ですか?」
傍らにいたフレデリックが答える。
「我が国では、殺人教唆は重罪中の重罪です。1度でも人を殺すよう他者を唆した者は、絞首刑に処せられます。ましてや、それが国家元首に対する殺人教唆であれば、国家反逆罪として、より厳しい処罰が科せられるでしょう」
教皇特使の顔はさらに青ざめた。
フレデリックの言葉は法的な事実を淡々と述べているだけであったが、その意味は明らかである。
「さらに申し上げれば」
フレデリックは続けた。
「我が国では、教唆犯は正犯と同等の刑罰を受けます。つまり、殺人を教唆した者は、実際に殺人を犯した者と同じ罪に問われるのです」
セバスティアンは満足そうにうなずいた。
「なるほど。我が国の法でも同じです。さて特使殿、教皇庁の『厳正なる処置』とは……教会法によると具体的に何罪になるのか?」
特使は言葉に詰まった。
実際のところ教会法廷における聖職者への処罰は、世俗法廷と比べて著しく軽微なのが常なのである。破門や聖職はく奪が最も重い処罰であり、死刑はおろか、長期の監禁すら極めて少なかった。
「それは……教会法に従い、適切な悔しゅんと……」
「悔しゅん?」
セバスティアンの声に嘲笑が混じった。
「バカバカしい。余を何度も殺そうとした者に、悔しゅんで済ませろと?」
中世から近世にかけて、世俗権力と教会権力の間では、聖職者の裁判権を巡って長い対立が続いていた。
教会は聖職者の特権として、世俗法廷での裁判を拒否し、より寛大な教会法廷での審理を主張してきたのである。しかし、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、この特権は各国で次第に制限されつつあった。
「陛下」
特使は震えた声で言った。
「教皇聖下は、この問題を平和的に解決するよう強く望んでおられます。枢機卿については、ローマにて厳正に調査し……」
「調査? ローマは遠い。それに証拠は既に十分にある。証人もいる。毒の瓶も、暗殺者の自白書も、暴動を扇動した書簡も、すべてそろっている。必要なのは調査ではなく、正義の執行だ」
セバスティアンは立ち上がった。
「最後に聞こう。もはや確定しているが、百歩譲って、枢機卿がもし国家元首たる余の殺人教唆をしていたならば、教会法での刑罰はどうなるのであろうか?」
教皇特使は完全に追い詰められた。
セバスティアンの質問は、教会法の根本的な矛盾を突いていたのである。
「それは……」
特使は緊張で声を震わせて答えた。
「教会法においては、聖職者による殺人や教唆は……重大な罪ではありますが……」
「だから、具体的に何罪になるのかと聞いている」
セバスティアンは冷酷に追及し、特使は汗を拭いながら答える。
「教会法では……聖職者による殺人教唆は『重大な犯罪』として分類されますが、具体的な刑罰は……破門、もしくは聖職はく奪、そして……悔しゅんの義務が課せられます」
「……は? それだけか?」
「はい……それが教会法における最も重い処罰です」
「バカバカしい! 人を殺すようそそのかした人間が! 話にならん!」
セバスティアンの怒鳴り声のあとには、謁見の間に重い沈黙が流れた。
「つまり、余を何度も殺そうと企てた枢機卿は、最悪でも聖職をはく奪されて『悔しゅん』すれば済むのか。一方、世俗の法廷では絞首刑になる罪を犯しても、聖職者というだけで命は助かる」
「それが……教会法の定めです」
特使は小声で答えた。
「好きにしろ」
は?
「聞こえなかったのか。破門でもなんでも好きにしろと言ったのだ」
セバスティアンの声が謁見の間に響いた。
「では、ローマにこう伝えよ。ポルトガル王国は、真の正義を追求する。神の名をかたる偽善者の脅迫には屈しない。そして、正義を支持する同盟国と共に、新しい時代を築いていく」
教皇特使は完全に打ちのめされ、震える足で謁見の間を後にした。
彼の使命は完全な失敗に終わり、ポルトガルにおける教皇庁の権威は地に落ちたのである。
次回予告 第909話 (仮)『法廷の枢機卿と東方からの同盟者』

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