慶長七年三月十五日(西暦1602年5月7日) リスボン大聖堂
毒殺計画の失敗から数日が経過し、枢機卿の憎悪は頂点に達していた。
「王は悪魔に魅入られた。もはや我らが王ではない。毒を見破る術など人間の業ではないのだ。あれは間違いなく悪魔の加護である」
枢機卿は低い声でつぶやくと、コインブラ修道院長のフランシスコ・ロドリゲスが震えた声で口を開く。
「枢機卿、では我々はどうすれば」
「直接的な手段に訴えるしかない」
枢機卿は立ち上がり、修道院長たちを見回した。
「神の敵を討つには、神の剣が必要だ。我々は聖戦を戦っているのだ」
エヴォラ修道院長のアントニオ・ペレイラが不安げに尋ねる。
「しかし、王宮の警備は厳重になっております」
「だからこそ、王が宮殿を出る機会を狙うのだ」
枢機卿は冷酷な笑みを浮かべ、古い羊皮紙の地図を広げながら説明する。
「来週の狩りが絶好の機会だ。森の中ならば『不幸な事故』として処理できる。崖から転落、あるいはイノシシに襲われた、と」
「参加者の中に我らの同志はおりますか」
ブラガ修道院長のペドロ・アルヴァレスが身を乗り出した。
「もちろんだ。近衛兵の中にも熱心な信徒がいる。彼らが内部から手引きしてくれるはずだ」
枢機卿は満足げにうなずいた。
同じ頃、王宮では王室保安局の活動が本格化していた。
近衛兵の刷新も実施されたのである。
判断項目はただ一つ、王と枢機卿のどちらに仕えるのか?
近衛兵の職務は王の護衛である。それ以上でもそれ以下でもない。
クリスチャンで即答できなかった者は除隊させたのだ。
リベイラ宮殿の一角にある保安局の執務室では、フレデリックが持参した最新の科学機器が所狭しと並べられている。
顕微鏡や化学試薬、光学機器を含めた精密な天秤まで、ポルトガルの宮廷では誰も知らない器具ばかりだった。
ヤン・デ・フリースは小さなガラス瓶を片付けると、王に一礼する。
「陛下、本日の朝食も異常ありません」
「ご苦労」
短い会話が終わり、セバスティアンは満足そうにうなずいた。
フレデリックが王の前に進み出る。
「陛下、保安局の調査により、教会側の動きに変化が見られます」
「どんな変化ですか?」
「毒殺に失敗したので、次は直接襲撃してくる可能性があります。特に、陛下が宮殿を離れる際の警備を強化すべきかと」
フレデリックは詳細な報告書を手に説明した。
「我々の情報網によりますと、枢機卿は近衛兵の一部を抱き込んでいる可能性があります」
保安局の情報分析官、マルティン・ファン・ベルゲンが補足する。
「内部からの裏切りに備える必要があります」
「それならば心配いりません。余に長年仕えてきた近衛兵を疑うのはしのびないが、人員を刷新しております」
実際、ほんの数名ではあったが該当者が解雇されたのである。
枢機卿の次なる標的は、王が狩りのために離宮へ向かう際に使用する、専用の豪華な馬車であった。
計画は単純かつ確実。
協力者を使って出発前夜に馬車の車軸に細工を施すのである。
ほんの僅かな切れ込みではあるが、計算された位置に仕込まれたその傷は、馬車が石畳の道を特定の速度で走行した際の衝撃により、致命的な破断を生じさせる仕組みとなっていた。
彼らが設定した『キルゾーン』は、リスボン郊外の石畳の街道が続く数キロの区間である。
高速で走行中に車軸が折れれば、馬車は激しく横転して乗員は助からない。
もし途中の石橋で馬車が壊れれば、王は馬車もろとも川に落下するはずである。
いずれにしても、どこで壊れても王の死は『悲劇的な事故』として処理されるはずであった。
出発の日の朝。
リベイラ宮殿の馬車庫は、いつもとは違う緊張感に包まれていた。
王室保安局に新設された『王室乗物管理課』の整備士たちが、王の馬車を隅々まで点検していたのである。
主任技師のハンスは、ネーデルラント出身で鉄道技師としての経験を持つ男だった。彼はまず、手にした小さなハンマーで車輪や車軸を軽くたたいて回った。
コン、コン、と澄んだ金属音が響くが、右後輪の車軸をたたいた瞬間、彼の眉がわずかに動いた。
「……音が、少し鈍いな」
他の者には分からないごく僅かな音の濁り。
それは、内部の何らかの欠陥を示す危険信号であった。
ハンスは部下に命じて油と布、そしてきめ細かいチョークの白い粉を持ってこさせた。彼は車軸の疑わしい部分を油で拭き、余分な油を綺麗に拭き取った後、その上からチョークの粉を慎重に振りかけたのである。
すると数分後。
真っ白な粉の上に、細い一本の線がまるで墨汁がにじむようにじわりと浮かび上がってきた。表面の亀裂に染み込んだ油が、チョークに吸い出されたのである。
「……見つけた。人為的につけた巧妙な亀裂だ」
ハンスの低い声に周囲の整備士たちの顔が強張った。単なる整備不良ではない、明確な殺意の証拠であった。
殺害計画は再び実行される前に露見した。
その報は、衝撃となって枢機卿の元に届く。
「なぜだ! なぜ見抜かれた! あの細工は、国一番の鍛冶職人にやらせたのだぞ!」
枢機卿の怒声が響いた。
だが、報告に来た協力者もただ首を横に振るばかりである。
「それが……王の新しい整備士が車軸をハンマーでたたいて、白い粉を振りかけただけで傷を見つけ出したと……」
「くそう! またしても『術』か……!」
枢機卿たちの常識は、またしても打ち砕かれたのだ。
音を聞き、粉をまくだけで内部の欠陥を見抜くなど、それこそ魔法か悪魔の所業にしか思えない。
2度にわたる不可解な失敗は彼らを合理的な思考から遠ざけ、より一層狂信的な結論へと導いていった。
王は悪魔に守られている。ならば奇をてらった策略ではない、信仰の力そのものをぶつけるしかない、と。
■慶長七年五月(西暦1602年7月)
巧妙な計画が次々に失敗に終わっていくなか、枢機卿は徐々に追いつめられていった。
失敗が続けば足もつきやすくなる。聖職者である自分を捕らえるとは考えにくいが、悪魔に取り憑いた王ならば、何をしでかしてもおかしくはない。
枢機卿はそう考えるにいたったのだ。
もはや陰謀を隠す余裕も、時間をかける忍耐も失っている。残されたのはその宗教的影響力を使って人々を直接扇動する、最も原始的で過激な手段であった。
彼は秘密裏に信奉者である下級聖職者たちを集め、熱のこもった説教をした。
「聞け、神の子らよ! 我らが王は異教徒の甘言に魂を売り、神聖なる教会からその権威を奪おうとしている! 飢饉は神の警告であったのだ! これ以上堕落した王の治世を許せば、この国に神の祝福は二度と訪れぬであろう! 今こそ神をも恐れぬ者に信仰の鉄槌を下すときだ!」
その言葉は、教育改革や政教分離に不満を抱いていた一部の者たちの心にまたたく間に広がった。彼らの目には、王はもはや敬愛すべき君主ではなく、打倒すべき神の敵と映っていたのである。
■慶長七年七月十日(西暦1602年8月26)
セバスティアンがリスボン市内に新設した平民向けの技術学校を視察する日である。
王の改革を象徴する場所であり、枢機卿はその日に決行を決めたのであった。
王を乗せた馬車が学校前の広場に差し掛かった、そのときである。
「神の敵に、天罰を!」
1人の聖職者の絶叫を合図に、群衆の中から数十人の男たちが鬨の声を上げて飛び出してきた。
彼らは斧や棍棒、農具を手にし、憎悪に顔を歪ませながら一直線に王の馬車へと殺到してくる。
従来の王室衛兵であれば、この突然の襲撃に浮足立って無秩序な乱戦に陥っていただろう。
しかし、王の周囲を固めていたのは王室保安局の警護班であった。
「防御陣形、構え! 射手、準備!」
隊長の冷静な号令が飛ぶと警護班は一切の混乱を見せず、機械のような正確さで動いた。
最前列の隊員たちが、背負っていた最新ネーデルラント製の強靭な特殊鋼製の盾(パヴィース)を地面に突き立て、瞬時に胸の高さまでの防壁を構築する。
その間、後列の隊員たちが構えたのは、マスケット銃とは似て非なる後装式の小銃であった。
暴徒たちは目の前に出現した金属の壁に一瞬たじろいだが、狂信が恐怖を上回った。
彼らは雄叫びを上げ、盾の壁に襲いかかる。
「警告する! これ以上近づく者は、王命により実力で排除する!」
隊長の最後の警告も、狂乱した彼らの耳には届かない。
先頭の男が、盾に斧を振り下ろそうとしたその瞬間――。
「第一射、足元を狙え! 放てっ!」
号令一下、乾いた炸裂音が1つの轟音となって広場に響き渡った。それは、マスケット銃の散発的な発砲音とは全く異質の、統制された破壊の音だった。
暴徒たちの足元の石畳が銃弾によって同時に砕け散り、火花と破片をまき散らす。
先頭にいた数人の男たちは悲鳴と共に足を押さえて転倒した。
致命傷ではない。
だが、その骨を砕き、戦意を根こそぎ奪うには十分な一撃であった。
マスケット銃なら次弾装填に数十秒を要するはず。その隙を突こうと後続の暴徒がさらに前に出ようとする――。
「第二射、用意!」
次の瞬間、彼らの目の前で信じられない光景が展開された。
盾の壁の向こうで射手たちが薬莢を排出させ、新たな紙薬莢を薬室に送り込み、瞬時に再び射撃姿勢を取ったのである。その間、わずか数秒。
いつでも第二、第三の斉射が放たれる事実と圧倒的な連射速度と命中精度。
理解を超えた技術の差が、暴力的なまでの説得力をもって彼らの狂気を冷却したのである。先頭集団は無力化され、後続は恐怖に足をすくませている。
「突入! 主犯を捕らえよ!」
隊長の号令で盾の壁の一部が開き、棍棒を手にした突入班が飛び出した。
彼らは抵抗の意志を失った襲撃の主犯格たちを、的確かつ迅速に制圧して拘束していったのである。
ほんの数分後、狂信者たちの狂乱は完全に鎮圧されていた。
広場には硝煙の匂いと負傷者のうめき声だけが残っている。
セバスティアンは、馬車の窓からその一部始終を驚嘆の目で見つめていた。それは単なる優れた兵士の働きではない。圧倒的な技術力と、それを過剰な殺戮ではなく的確な鎮圧にのみ使用する高度な戦術思想。
自らが目指す『新しい国』の力の片鱗を、彼は目の当たりにしていたのである。
王宮の地下にある尋問室は、冷たく湿った空気に満ちていた。
捕らえた襲撃犯たちは、当初こそ『神の御心に従ったまで』と口を閉ざしていたが、王室保安局の尋問官による論理的で執拗な問い詰めに、徐々に精神的な守りを崩されていく。
彼らは、ある特定の聖職者から、いかに王が悪魔に与して国を破滅させようとしているかを聞かされ、その義憤から行動に移った経緯を白状し始めたのだ。
それと並行して別の部屋では、馬車の車軸の分析が進められていた。
金属の専門家は、自然に生じた亀裂ではなく、特定の道具を使って意図的に作った亀裂と断定。さらに、その工作をした鍛冶職人を特定して身柄を確保したのである。
その職人もまた、ある貴族に脅されてやったと認めたのだ。
襲撃犯たちが口にした聖職者と鍛冶職人を脅した貴族。
彼らの背後関係を洗い出すと、すべての糸が、ただ一点へと収束していった。
枢機卿。
その名がすべての陰謀の頂点に存在しているのは、もはや疑いようもなかった。
報告を受けた執務室で、セバスティアンは静かに目を閉じた。
傍らには王室保安局の局長が控えている。
「……証拠は、そろったか」
「はい、陛下。物証と、複数の者からの証言。もはや言い逃れはできませぬ」
王室保安局長が分厚い調査報告書を恭しく差し出した。
セバスティアンはそれを受け取ると静かに目を通す。
傍らには、一連の報告を共に見守っていたフレデリックが、厳しい表情でたたずんでいた。
「……そうか。ここまで、か」
短いつぶやきは、長年国政を共に担ってきた相手への最期の情だったのかもしれない。だが、それも一瞬。顔を上げ、フレデリックに向き直った。
「フレデリック殿。あなたの警告がなければ、今ごろ私の首はなかっただろう。改めて礼を言う」
「礼には及びません。陛下の改革は、我々ネーデルラント、ひいては欧州全体の未来にとっても不可欠です。しかし陛下、本当の戦いはこれからです」
フレデリックの言葉は事実であった。黒幕を特定しただけでは何も終わらない。
セバスティアンは決然とした表情でうなずいた。
「分かっています。神の名をかたり、この国を血で染めようとした者たちに、王の法廷でその罪を問わねばなりません」
机の上に置かれていた逮捕状を手に取ると、羽根ペンにインクを浸した。そのペン先が、枢機卿の名の上に置かれている。次の瞬間、セバスティアンはペンを止め、フレデリックを見た。
「この署名は、ポルトガル一国の枠を超えた意味を持つかもしれぬ。ローマとの全面対決になる可能性もある。それでも、あなたは証人として、ここに残ってくれるか」
「望むところです」
フレデリックは即答した。
「兄のマウリッツも、そして日本の平九郎陛下も、必ずや陛下の決断を支持するでしょう」
その言葉に力づけられ、セバスティアンは迷いのない筆致で逮捕状に自らの名を記した。
ポルトガルの歴史において、国王が教会の最高権威者に対し、世俗の法による裁きを宣言した最初の瞬間であった。
次回予告 第908話 (仮)『法廷の枢機卿』

コメント