慶長七年二月十三日(西暦1602年4月5日) リベイラ宮殿
セバスティアン1世が政教分離を宣言した後、謁見の間は静寂に包まれていた。
力なく歩きながら部屋を出た枢機卿は、恥辱を感じた表情をローブのフードで隠し、彼に従う保守派貴族たちと一緒に急いで王宮を去ったのである。
その夜、リスボン大聖堂の壮麗な館の一室に彼らは再び集まっていた。
ロウソクの光が揺れて壁に影が映る。その光景が彼らの憎悪と不安を強めていた。
「王は悪魔に魅入られた。もはや我らが王ではない」
枢機卿は静かに言ったが、目は真剣だった。
「神の敵を地上から取り除く。それが神に仕える我らの『聖務』だ」
その言葉はもはや疑念を挟む余地のない決定事項として、その場にいた者たちの胸に刻まれた。王の排除、すなわち暗殺計画が、神の名の下に静かに、そして具体的に練られ始めたのである。
同じ頃、王宮の執務室では、セバスティアンとフレデリックが二人きりで向き合っていた。
「フレデリック殿、改めて礼を言う。今日のあなたの存在は、我が国の革新派にとって大きな支えとなった」
「いえ、陛下の揺るぎないご決断に感銘を受けたのは私の方です。しかし、だからこそ申し上げねばなりません。陛下の御身は今、ポルトガルで最も危険な状況に置かれております」
フレデリックの言葉にセバスティアンは静かにうなずく。
「覚悟の上だ。だが、死んでしまっては何も成し遂げられん」
「そこでご提案がございます。我がネーデルラントの最新の知識と技術を用い、陛下の安全を確保するための組織を設立されてはいかがでしょう。仮に『王室保安局』とでも呼びましょうか」
「余の安全を守る近衛兵ならばいるが、新しい部隊をつくるというのですか」
「そのとおりです」
フレデリックは、従来の衛兵とは全く異なる、専門的な知識で王を守る組織の構想を語った。
毒物を化学反応で見抜く検毒法、馬車や建物の破壊工作を事前に見つけるための検査技術、そして遠方の脅威をいち早く察知するための光学機器。
それらは『ネーデルラントの秘術』として説明されたが、内容は極めて科学的かつ合理的であった。
「面白い。実に面白い発想だ。すぐに取り掛かろう。必要な人材はあなたに一任する」
セバスティアンは即決した。
旧弊な迷信ではなく、体系化された知識こそが未来を切り開く。その確信が王の顔に一条の光を差したのである。
■慶長七年三月(西暦1602年5月)
セバスティアンの許可を得てから1か月。
王宮の一角は、これまでのポルトガルにはなかった異質な空気に満たされていた。
フレデリックがネーデルラントから呼び寄せた十数名の専門家たちが、王直属の特務機関『王室保安局』の中核として活動を始めていたのである。
彼らは従来の衛兵のような華美な装飾の服は身に着けていない。
動きやすい実用的な服装で、奇妙な器具を手に宮殿内を黙々と調査してまわっているのだ。
活動内容は当初ポルトガルの廷臣たちから奇異の目で見られていたが、食事にまで介入したために、伝統を重んじる者たちからの強い反発を招いてしまった。
「陛下、あのような素性の知れぬ異国の者たちに、神聖なる王の食膳を任せるなど前代未聞にございます」
侍従長が憂いの表情で進言するが、セバスティアンは意に介さなかった。
「彼らは余の健康を管理する顧問団だ。フレデリック殿が身元を保証しておる。心配は無用だ」
王の信頼は厚く、改革は着々と進められていく――。
その頃、リスボン大聖堂の奥深く。
枢機卿は信徒である貴族の一人から、確かな報告を受け取っていた。
「準備は整いました。王宮の厨房に長年仕える料理人の一人、マテウスは我らが敬虔なる信徒。神の敵を討つ『聖務』の栄誉を、涙を流して受け入れました」
「うむ。毒は?」
「ネーデルラントの商人から手に入れた、無味無臭の遅効性のもの。3日もすれば王は原因不明の病で衰弱し、神の|御許《みもと》に召されるでしょう。誰も毒殺とは気付きますまい」
枢機卿は満足げにうなずいた。
王の新たな護衛組織の噂は耳にしていたが、所詮は異教徒のこざかしい真似事。神の天罰の前には無力だと信じていた。
その夜、王の私室に夕食が運ばれてきた。
海の幸をふんだんに使ったスープから立ち上る湯気は、食欲をそそる芳香を放っている。
しかし、セバスティアンが匙を手に取るより早く1人の男が進み出た。王室保安局の化学顧問、ヤン・デ・フリースである。小さな木箱からガラスの小瓶と細い棒を取り出すと、王に一礼した。
「陛下、お食事の前に恒例の『純度検査』を執り行います」
給仕たちが不審がって見守る中で、ヤンはスープを数滴、白い陶器の小皿に取った。
そして、小瓶から透明な液体を一滴垂らしたのである。
次の瞬間、誰もが息を呑んだ。
無色だったスープは、まるでインクを落としたかのように、またたく間に鮮烈な黄色へと変色したのである。それは自然界にはありえない、見る者に生理的な危険を感じさせる毒々しい色だった。
「……何だこれは! ?」
セバスティアンが声をあげるとすかさずヤンが答える。
「猛毒です。ヒ素系の化合物に特有の反応を示しております。食べていれば確実に命を落としておりました」
ヤンの冷静な宣告に部屋は凍り付いた。
侍従たちの顔から血の気がうせる。
王の食事に毒が混入されていたのだ。
それは王権に対する最も卑劣な挑戦に他ならない。
保安局員が厨房へ急行したが、料理人マテウスはすでに小部屋で冷たくなっていた。口の端には白い泡が付着しており、計画の失敗を悟って服毒して果てた後だったのである。
同じ時刻、枢機卿は共謀者たちと共に、成功の報を今か今かと待ちわびていた。
3日後の王の衰弱と崩御によって国は混乱に陥り、そのときこそ自分たちが摂政として立ち、国を『正しき道』へ戻すのだ。
そこへ、1人の密使が血相を変えて駆け込んできた。
「申し上げます! 計画は……失敗でございます!」
「何だと?」
枢機卿の顔がこわばる。
「毒が……王が口にする直前に、見破られました! 厨房は封鎖され、マテウスは自決してございます!」
「馬鹿な!」
貴族の一人が叫ぶ。
「あの毒は無味無臭のはずだ! なぜ見破られた?」
「それが……報告によりますと、ネーデルラントから来た『錬金術師』が、スープに一滴何かを垂らしたところ、たちまち色が変わったと……」
「錬金術師だと? 馬鹿馬鹿しい!」
枢機卿は激昂した。
錬金術など、まやかしに過ぎぬ。
だが現実に計画は失敗した。一体何が起きたのか?
偶然か。それとも、王が悪魔の力を借りて、こちらの企てを見通したとでもいうのか。
彼らの知識では、化学反応による検毒を科学的現象として理解できなかった。理解できない現象は、彼らの心に得体の知れない恐怖と、さらなる憎悪の炎を燃え上がらせたのである。
「……王は、悪魔に守られている。ならば、より直接的な力で、神の鉄槌を下すしかない」
枢機卿は唇をかみ締め、次の計画に思考を巡らせ始めた。狼狽は、やがて冷酷な決意へと変わっていく。
次回予告 第907話 (仮)『科学の盾と信仰の刃』

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