1591年8月15日(天正19年6月26日) オラニエアカデミーの一室
フレデリックたちはコルネリス・ピーテルスゾーン・ホーフトをアカデミーの一室に案内して商談し、その後メンバーで相談するために別室に移動して議論を交わしていた。
アカデミーの廊下は静まり返っている。
馬鹿げている! と言い放ったコルネリス・ヴァン・デ・プートと取り巻きの姿はすでになく、投資に好意的な数人の商人も最終的な決断は後日として帰っていった。
フレデリックたちの足音だけが、硬い石の床に響く。
先ほどまでの騒ぎが嘘のような静けさである。
ホーフトが待つ部屋の扉の前で一度立ち止まり、フレデリックは同行するメンバーの顔を見回した。
シャルロットの表情は落ち着いている。
これから始まる金融の戦いに静かな闘志を燃やしていたようだが、法律顧問として同行する父のシャルルは、緊張を隠せない様子でこめかみを指で押さえていた。
シャルルは法律の専門家ではない。
だが、この時代の貴族として生きてきた彼は、商人との契約における慣習や作法を熟知している。彼の役割は法理論の助言ではなく、身分がもたらす社会的な信用を背景に、交渉の場に「重し」として存在することだった。
技術顧問のハインリヒは黙り込んでいるが、両目には技術者としての誇りと責任が表れている。
「行くぞ」
フレデリックが短く告げ、重い扉を押し開く。
部屋の中では、ホーフトが一人窓の外を眺めていた。
フレデリックたちが入室してもすぐには振り返らない。
アムステルダムの有力商人であり、市長でもある男が放つ威圧感が室内の空気を支配していた。やがて彼はゆっくりと体をこちらに向ける。顔に浮かぶ表情は読み取れない。
「答えは出ましたかな。フレデリック殿。私はあなた方の技術に投資もするが、シャルル殿の後見も理由の1つなのですよ」
フィリップ・ド・モンモランシー(ホールン伯)の息子で、次期ホールン伯のシャルルの名声も担保の一つだと言うのだ。
「はい、ホーフト市長。我々の結論をお伝えします」
フレデリックは堂々とした態度で応じ、交渉のテーブルに着いた。
シャルロット、シャルル、ハインリヒもそれぞれの席に着く。
「まず、貴殿の提案に感謝します。10万ギルダーの投資額は、我々の計画にとって大きな助けとなります」
フレデリックは前置きを述べ、本題に入った。
「新会社『オラニエ蒸気機械会社』の設立。これには同意します。貴殿を重要なパートナーとしてお迎えしたい」
ホーフトは軽くうなずいた。
まだ彼の表情は変わらない。全てを見通す鷹の眼が、フレデリックの次の言葉を待っていた。
「しかし、我々にも条件があります」
その言葉を待っていたとばかりに、ホーフトの眉がわずかに動いた。
「ほう、条件とは」
「会社の運営方法と、技術の管理についてです。詳細は彼女から説明させます」
フレデリックは隣に座るシャルロットに視線で合図を送った。
全員の注目が、この場で最も幼い見た目の財務責任者に集まる。シャルロットは臆せず、まっすぐにホーフトを見据えて口を開いた。
「ホーフト様。まず、新会社の株式を発行する件、素晴らしいお考えです。貴殿には筆頭株主として、相応の利益を保証いたします」
彼女の声は、子供の声とは思えないほど明瞭で自信に満ちていた。
「ですが、会社の経営、特に日々の業務執行と技術開発に関する意思決定は、我々アカデミーが主導権を握る必要があります」
「主導権、ですと?」
ホーフトの声に初めてかすかな苛立ちが混じった。
「つまり、金は出すが口は出すなと? そう聞こえますな、お嬢ちゃん」
「いいえ、違います」
シャルロットは即座に否定した。
「会社の最高意思決定機関として取締役会を設置します。その取締役会の過半数を、我々アカデミーのメンバーで構成したいのです。そして、会社の定款に一条項を加えていただきます」
「定款に?」
「はい。『蒸気機関および関連技術の研究開発に関する方針と計画の最終決定権は、オラニエアカデミーが有する』。この一文です」
部屋に緊張が走った。ホーフトは腕を組み、シャルロットをにらみつける。
出資する以上は経営の全権を掌握するのは当然の権利であり、彼の常識ではそうだった。その権利を、定款で制限する前代未聞の提案である。
「はて……はてはてはて……。私の聞き間違いかな? オラニエ蒸気機械会社の資本金はいくらで、私の10万ギルダーはそのうち何割なのだろうか。出資比率によって発言権が増すのは、当然ではないかな?」
ホーフトの鋭い指摘に、部屋の温度が数度下がった。
大げさではなく、また、ここでいう温度とは室温のことではもちろんない。
空気が張り詰め、ゴクリとつばを飲み込む音すら聞こえそうな、そういう雰囲気の例えである。
彼の言葉は商人社会における絶対の真理であり、出資額こそが力。
つまり発言権そのものだった。
シャルルの顔は険しく、ハインリヒは固唾をのんでいるが、フレデリックの隣に座るシャルロットの表情は少しも揺らがない。
「ホーフト様のおっしゃるとおりです。通常の商取引なら、出資比率が議決権の比率と一致するのは当然の原則でしょう」
シャルロットはまず、相手の論理を肯定して見せた。
ホーフトは『分かっているではないか』とでも言いたげに、腕を組んだままシャルロットを見る。
「ですが、ホーフト様。我々が設立しようとしている『オラニエ蒸気機械会社』は、通常の会社とは成り立ちが根本的に異なります」
「ほう。どう違うのだ」
ホーフトの関心は、目の前の小さな少女がどうやって自分を納得させるのかに移っているようだ。ニヤリと笑ってシャルロットの言葉を待っている。
「この会社の価値は、貴殿が出資してくださる有形の資本、つまり10万ギルダーの現金だけでは構成されません。それと同等、いえ、それ以上の価値を持つ『無形の資本』によって支えられているのです」
「無形の、資本?」
ホーフトは初めて聞く言葉に眉をひそめた。長い商売経験の中で初めて聞く概念である。
「はい。第一に、我々アカデミーが提供する、蒸気機関に関する全ての技術知識です」
シャルロットは言葉を切って、ハインリヒに視線を送った。
ハインリヒはコクリとうなずいて静かに口を開く。
「ホーフト市長。この蒸気機関は、単なる1つの機械ではありません。高効率な機関を安定して製造するには、まず石炭から不純物を取り除き、高純度の燃料『コークス』を作る必要があります」
・コークスを使って大型の高炉で良質な銑鉄を大量生産する。
・銑鉄から鋼鉄を精錬するための反射炉も不可欠。
・全てが1つのシステムとして機能して、初めて意味をなす。
一連の技術体系の流れが必須だと説明したのだ。
ハインリヒはテーブルに広げた設計図の一枚を指さす。
「技術体系の全体像を理解して建設して管理運営できるのは、今のネーデルラント広しといえども、我々アカデミーをおいて他に存在しません。この知識こそが、我々が会社に提供する第一の資本です」
ホーフトは黙ってハインリヒの話を聞いていた。
彼の目が、設計図の複雑な線と技術者の真摯な表情とを行き来する。
商人として、独占的な技術がどれほどの利益を生むかは理解していたのだ。
設立する会社が単なる海運会社や従来の商会であれば、出資額がそのまま経営権の比率に直結するだろう。しかし、この事業に関して言えば、技術を知らない素人が下手に口を出せば失敗する。
少なくともその可能性を多分に含んでいるのだ。
ホーフトは瞬時に理解した。
「そして第二の無形資本」
シャルロットが再び口を開く。
「それはフレデリック殿下の兄君、マウリッツ総督閣下のお名前を、この会社の名称に冠する許可を得た、その事実です」
フレデリックが静かにうなずいた。
「『オラニエ』の名を冠する行為は、この事業が単なる私的な金儲けではなく、ネーデルラント連邦共和国の国益に資する公的な事業である、総督閣下自らのお墨付きを意味します」
これは、いかなる商会も手に入れられない絶対的な信用力である。
今後フレデリックたちが事業を拡大するうえで、あらゆる障害を取り除き、多くの特権をもたらすに違いない。
ホーフトは息をのんだ。
技術とオラニエ家の名は金銭には換算できない。しかし事業をするうえで、それ以上の価値を持つ強力な資産である事実は間違いなかった
「したがって、我々の提案はこうです」
シャルロットは、交渉の核心を突いた。
新会社の資本は、ホーフトの10万ギルダーの『有形資本』と、アカデミーが提供する『技術』と『信用』の『無形資本』によって構成される。
その上で長期的な視点での研究開発を確実に進め、事業を成功に導くための安全装置として、アカデミーが経営の最終決定権を保持するのだ。
これがホーフトの利益を長期的に最大化するための、最も合理的な仕組みなのだとシャルロットは断言したのである。
詭弁ではなかった。
全く新しい事業の形を定義する、新しい論理なのである。
短期的な支配権を手放す代わりに、技術革新によって永続的に成長する事業の、最大の受益者となる権利。ホーフトはどちらが重要かを必死に測っていた。
「……よかろう。その条件、全て受け入れよう」
部屋にいた全員が、ホッと息を漏らした。
フレデリックが立ち上がってホーフトに右手を差し出すと、全員が握手をした。
「感謝します、市長。良きパートナーシップを」
ホーフトは力強く手を握り返した。
「こちらこそ。期待していますぞ、フレデリック殿下。そして、アカデミーの皆さん」
交渉は成功した。
30万ギルダーへの道筋、その第一歩が確かになった瞬間である。
「あ、市長。私はお嬢ちゃんじゃなくて、シャルロット・デ・モンモランシーですよ」
「ああ、これは失礼した。(いや、私のいた時代とは違う時代から来たようだ)」
「え?」
■交渉成立から数日後 オラニエアカデミー会議室
会議室は、新たな熱気に包まれていた。
ホーフトからの10万ギルダーは、彼の設立した準備会社を通じて為替手形によって間もなく決済される手はずとなっている。しかし、目標額まではまだ20万ギルダーが不足していた。
「さて、次の段階へ進むわ」
シャルロットがメンバー全員の前で高らかに宣言した。その手には分厚い計画書が握られている。
「ホーフト市長との交渉は成功よ。『オラニエ蒸気機械会社』の経営権を獲得できたわ。残りの20万ギルダーの問題もあるけれど……いえ、それより重要なのは今後ね。巨大プロジェクトを実現するには、継続的な資金調達システムをこの会社に組み込む必要があるの」
彼女が示した計画は、フレデリックたち転生者の知識をもってしても、あまりに壮大で革命的だった。
「まずはね、マウリッツ総督閣下とホーフト市長に全面的に協力してもらって、アムステルダムに2つの機関を作るの」
シャルロットは黒板に、チョークで力強く文字を書いた。
1つは『アムステルダム銀行』
もう1つは『アムステルダム証券取引所』
「銀行と、証券取引所?」
天文学者のウィルが不思議そうに尋ねた。
「そうね。まずはアムステルダム銀行なんだけど、これってただの銀行じゃないのよ。ネーデルラント連邦共和国が公的に信用を保証してくれる、世界で初めての『中央銀行』なの」
シャルロットの説明に熱がこもる。
「この銀行はね、国の貴金属を預かって、それを担保にして『銀行ギルダー』っていう信用度の高い独自の通貨を発行するの。今の状況って、両替商がたくさんあって質の悪いお金が出回ってるじゃない? そういうのを終わらせて、安定した決済システムを作るのよ。そうすれば、アムステルダムがヨーロッパで一番の金融センターになるっていうわけ」
「国家が通貨の発行を管理する、か。確かにそれは強力だ」
シャルロットの父であり、メンバーの後見人である元農学教授(前世)のシャルルが、その意味の大きさを理解してうなずいた。
「それから、もう1つがアムステルダム証券取引所なの。ここが私たちの資金調達の舞台になるのよ」
シャルロットは黒板に書かれた『オラニエ蒸気機械会社』の文字を指さした。
「この会社の株式を、証券取引所に『上場』させるの。それでね、アムステルダム銀行が作り出す安定した信用と通貨を背景にして、広く一般の商人さんや富裕層の方々から出資してもらうのよ。会社の将来性もあるし、蒸気機関が生み出す利益もある。それに、マウリッツ総督とホーフト市長の後ろ盾もあるでしょう? これだけの材料がそろってるんだから、20万ギルダーの調達だって不可能じゃないと思うの」
歴史上の1602年に設立されるオランダ東インド会社とその取引所を、10年以上も早く、より洗練された形で実現する壮大な計画である。
従来の商取引は、個人の信用や単一の事業への出資に頼っていて不安定であった。船が沈めば投資家の資金も水の泡となる。そんな一か八かの賭けに近い投資環境が当時を支配していたのだ。
しかし、この新しい仕組みは根本的に異なっている。
国家が保証する強固な金融システムを土台として、企業の価値それ自体を株式形式で細分化し、市場に流通させるのだ。投資家は特定の航海ではなく、企業の継続的な成長に投資する。
リスクは分散され、必要なときに株式市場を通じて資金調達が可能になるのだ。
これこそが真の金融革命――。
個人の信用に依存する前近代的な商業から、システム化された近代的な資本主義への転換点を意味していたのである。
「すごいな……」
オットーが感嘆の声を漏らした。
医師である彼には金融の詳細は分からない。しかし、シャルロットがやろうとしている行為が、とてつもなく大きな変革なのは理解できた。
フレデリックは、シャルロットの計画書に目を通す。
そこには銀行の定款や取引所の規約、株式公開の具体的な手順までが、詳細に記されていた。元銀行頭取の知識と経験が、この世界で完全に花開こうとしている。
「シャルロット、君は天才だ」
フレデリックの言葉に、シャルロットは少し照れながら微笑んだ。
「私の知識が、みんなの役に立つなら嬉しいわ」
「よし、すぐにマウリッツ兄さんとホーフト市長に話を通そう。シャルロット、君が計画の全権責任者だ。必要なことは何でも言ってくれ。全員でサポートする」
「ええ、任せて!」
フレデリックの言葉に、メンバー全員が力強くうなずいた。
蒸気機関の失敗から始まった絶望は、今や巨大な希望へと変わっている。
材料の壁を打ち破るための製鉄革命と資金を生み出す金融革命。2つの革命は、今まさに始まろうとしていた。
次回予告 第31話 (仮)『総督と頭取と鉄血宰相』

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