慶長七年二月十三日(西暦1602年4月5日)
「では兄上、行ってまいります」
「うむ、日本はもちろんだが、欧州においてポルトガルの影響力は大きいからな。しっかり頼むぞ」
フレデリックは、先月ポルトガルより届いた技術交流(供与)と『火山の冬』に関連する食糧供給体制の協議のため、リスボンに降り立った。
海外領土、特に南半球に領土を持つポルトガルとの連携は、日本との連携と同様に重要事項だったのである。
■リスボン リベイラ宮殿
フレデリックは他の転生者から選抜された主要メンバーと一緒に謁見の間にいる。
1か月前の重苦しい雰囲気とは打って変わって現在は活気のある状態になっているが、フレデリックはその活気の背後に深刻な緊張があると感じ取っていた。
保守派と革新派。
どこにでもいるもんだな。
オランダでも同じ争いを何度となく繰り返してきた。
妥協する点は妥協し、譲れない点は強硬に主張した。
今はお互いに着地点を見つけ、何とかなっている。
21世紀の未来……になるが、オレがいた時代でもあったから、この時代ならなおさらだ。
キリスト教至上主義。
宗教的な対立は変わらんか。
セバスティアン1世の表情は、以前の苦悩に満ちた顔とは違って決意に満ちていた。
しかし、その両脇に控える重臣たちは明らかに2つの派閥に分かれている。
一方は、王の教育改革を支持する新たに任命された大臣たち。もう一方は、枢機卿を筆頭とする保守派の重臣たちである。
「フレデリック殿、遠路はるばるお越しいただき感謝いたします。お若いとは聞いていたが随分と……いや失礼。一国の外交使節の代表に対して失礼にあたる言葉でした」
「いえ、構いません。実際陛下とは親子ほどの年の差です。教えを請うことも多いと思います。今後とも宜しくお願いいたします」
フレデリックは面前で礼儀を尽くし、挨拶を交わした。
セバスティアンはフレデリックの謙虚な態度に満足げにうなずき、謁見の間全体に響く声で発言する。
「皆も聞いたとおりだ。フレデリック殿は我々に敬意を払ってくださっている。ならば我々も、礼をもって応えねばなるまい。先月の我が国の視察団が、アムステルダムで示した態度は、友好国に対する非礼の極みであった。この場を借りて、ポルトガル国王としてオランダ総督殿に、改めて深く陳謝する」
セバスティアンはその直後に表情を引き締めた。
「さて、フレデリック殿。我が国の状況は貴殿もお聞きおよびでしょう」
「はい。陛下が英断を下され、教育改革に着手されたと伺っております」
この言葉を聞いた瞬間、保守派の重臣たちの間にざわめきが起こった。枢機卿の顔には明らかな不快感が浮かんでいる。
「英断……ですか」
枢機卿が立ち上がった。
「陛下、改めて申し上げます。異教徒の支援を受け、神聖な教育を世俗の手に委ねるなど、神への冒涜です」
フレデリックは内心でため息をついた。やっぱり来たか。この手の宗教的反発は予想していた。
セバスティアンの表情が険しくなった。
40年間、宗教問題に頭を悩ませてきたのである。
フランスのアンリ4世より早く、ナントの勅令同様に信教の自由を許可し、スペインや他のカトリック諸国からの難民の保護に力を入れてきたのだ。
「枢機卿よ、その話は終わったはずだ」
「終わっておりません!」
枢機卿の声は怒りに震えていた。
「陛下は異教徒の甘言に惑わされ、御乱心召されております!」
謁見の間が静まり返った。王を直接『乱心』と断じる発言は、明らかに一線を越えている。
セバスティアンは立ち上がり、枢機卿を見下ろした。
「乱心だと? ネーデルラントは同じ主を信じるキリスト教国だ。我が国が他国に後れをとった現実を認めるのが乱心だと言うのか」
セバスティアンは寛大だった。
臣下が王に対して『乱心』などとは、口が裂けても言ってはならない。
声は静かだったが、その中には王としての威厳が込められている。
「枢機卿よ、神は我々に理性を与えられた。その理性を用いて学び、発展するのを拒むのは、むしろ神の意志に反することではないのか」
枢機卿の顔が紅潮する。
「陛下! 異教徒の学問は悪魔の誘惑です! 千年にわたって教会が守り抜いてきた教育の権限を、世俗の手に委ねるなど——」
「異教徒?」
フレデリックが静かに立ち上がった。
「枢機卿、失礼ながら申し上げます。我々ネーデルラントもキリストを信じております。カトリックとプロテスタントの違いはあれど、同じ神を仰ぐ兄弟ではありませんか」
枢機卿は鋭い視線をフレデリックに向ける。
「プロテスタントなど、教会を分裂させた異端者に過ぎん! 真の信仰はローマ教皇の下にのみ存在する!」
この発言に謁見の間の空気が一気に緊張した。フレデリックは冷静さを保ちながら答える。
「枢機卿、我々は聖書に基づいて信仰を深めております。神の御言葉に従って生きるのが、真の信仰ではないでしょうか」
「その通りだ。フレデリック殿の仰るとおり、信仰の本質は神への愛と隣人への愛にあるのではないか」
セバスティアンは深くうなずいて枢機卿を見据え、続ける。
「枢機卿よ、我が国には長年にわたってユダヤ人やムーリ人(イスラム教徒)も住んでいる。彼らとも平和に共存してきたではないか。同じキリスト教徒同士で争うなど、愚の骨頂だ」
枢機卿は震えた声で反論する。
「陛下は宗教改革の毒に侵されております! このままでは我が国もドイツやフランスと同じく宗教戦争に巻き込まれます!」
「戦争? バカを申すな! 聞き捨てならん。先程から聞いていれば枢機卿、卿は余の治世を否定するのか? これを聞くのは2度目だ。3度目はないぞ」
明らかにセバスティアンの表情が厳しくなったのが分かる。
長い沈黙が謁見の間を覆った。
セバスティアン1世は深く息を吸い、決定的な宣言をする。
「枢機卿よ、そして列席の皆」
静かな声だったが、揺るぎない決意が込められていた。
「本日をもって、政治への宗教の立ち入りを一切禁ずる。教会は神学の教育にのみ専念し、世俗の政治には関与してはならない」
政教分離!
まじか!
フレデリックがそう思うと同時に、謁見の間が激しい衝撃に見舞われた。
ヨーロッパにおいて政教分離を明確に打ち出す行為は、当時としては極めて革新的な決断だったのである。
枢機卿の顔は真っ青になり、手は激しく震えていた。
千年にわたって築き上げられてきた教会の政治的権威が、一瞬にして否定されたのである。
「陛下……それは……」
枢機卿の声はかすれていた。
「神の神聖なる教えに背く行いです……教会なくして国家の統治などありえません」
「枢機卿よ」
セバスティアンは立ち上がり、威厳に満ちた声で続けた。
「本日より、と言ったのだぞ。用がなければ立ち去るのだ。神は愛であり、政治的権力ではない。教会は魂の救済に専念すべきであり、世俗の権力争いに関わるべきではない。これは神への冒涜ではなく、むしろ神への真の奉仕である」
フレデリックは、この歴史的瞬間を目の当たりにして深い感動を覚えていた。セバスティアン1世は、ヨーロッパの他の君主たちが何世紀もかけて到達した政教分離の理念を、一気に実現しようとしているのだ。
「陛下の英断、まことに時代を先取りしております。しかし陛下……」
フレデリックが許可を得てセバスティアンの近くに寄り、さらに許しを得て耳打ちをする。
(殺されますぞ。我が父マウリッツも狂信者によって殺されました……)
セバスティアンは無言でうなずき、大丈夫だ、と合図する。
「我がネーデルラントでも、宗教と政治の分離によって社会の安定と繁栄を実現いたしました。陛下の決断は、必ずやポルトガルに新たな黄金時代をもたらすでしょう」
王の最後の言葉は高い天井に吸い込まれ、絶対的な静寂だけが残った。
それは単なる脅しではない。
ポルトガル国王が、国内で最も強大な宗教的権威者である枢機卿に対し、王権の優位を確定的に宣言した瞬間であった。
枢機卿の顔から血の気が引き、唇が微かに動いた。王への恐怖と、それを上回る神への使命感が、彼の内で激しくせめぎ合っている。
この亀裂は一朝一夕に生じたのではない。
セバスティアンの治世は、常に教会との緊張関係の中にあった。若き王は、他国に先駆けて国内の非カトリック教徒に寛容な政策を採り、異端審問で追われるスペインの商人や職人たちを保護してきたのである。
それは国家の富を増大させ、リスボンに多様な文化をもたらしたが、同時にカトリックの純粋性を重んじる勢力との間に、決して埋まらない溝を作り続けてきたのである。
彼らにとって王の寛容政策は信仰の希薄化であり、国家の根幹を揺るがす危険な思想であった。
枢機卿の視点に立てば、今回の教育改革はその危険な思想の到達点に他ならない。
ポルトガルの栄光は、神の加護と、揺るぎないカトリック信仰によって築かれたのである。レコンキスタを成し遂げ、大航海時代を切り拓いた先人たちの偉業は、全て神と共にあったのだ。
その神聖な歴史を忘れ、民の魂を育む教育を、異端者や異教徒の助けを借りて世俗化するなど、国家の自殺行為に等しい。
彼の目には、未曾有の天変地異『火山の冬』すら、堕落した王への神の警告と映っていた。この国難は、安易な技術に頼るのではなく、より強固な信仰によってのみ乗り越えられるべき神の試練なのである。
「枢機卿、何度も言わせるでない。下がるのだ」
この40年、セバスティアンはいきなり改革を成し遂げたのではない。
徐々に、少しずつ改革をして、国民の生活レベルの向上があった。
他宗派との親和によるメリットを享受させ、今の状態となったのである。
今回の宣言は、先月布告された教育3か条と相まって、ポルトガル国内に風雲を巻き起こすのであった。
次回予告 第906話 (仮)『賢王の茨の道』

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