慶長六年(西暦1601年)十二月 ポルトガル王国・リスボン
リスボンの空は鉛色の雲に重く閉ざされていた。
本来であれば冬でも気温が高い地域だが、大西洋から吹く風は冷たく湿気を含んでおり、太陽の暖かさを感じられない港町は、北方の地域と同じく活気を失っている。
『火山の冬』は、西ヨーロッパ全土で飢饉と暴動を発生させていた。
フランスもイングランドも、神聖ローマ帝国も、全てが食糧不足に苦しんでいる。
だが、その中にあってポルトガル王国だけは、異常なほどの平穏を維持していた。
理由はただ一つ。
国王セバスティアン1世が、純正の警告を信じて食糧を備蓄していたからだ。
しかし、その平穏の裏で新たな問題が発生し始める。
リベイラ宮殿の謁見の間は、国王の安心感とは対照的に深刻な緊張状態にあった。
「陛下。日本の皇帝がもたらした恩恵は、計り知れません。しかし、その日本の特別な恩恵が、我々よりもネーデルラントへより厚く注がれております。この現状は看過できぬ問題かと存じます」
静寂を破ったのは王国宰相を務める枢機卿だった。
その声は国王への敬意を装いながらも、明らかに不満そうである。
「枢機卿、何が言いたいのだ?」
「我が国が日本より供与されたのは、断続的にしか動かない巨大なポンプに過ぎません。しかしネーデルラントでは、休まずに力を生み出し続ける、遥かに高性能な機関が運用されていると聞き及んでおります。この差は、一体何を意味するのでございましょうか」
セバスティアンは黙って枢機卿の言葉を聞いていたが、やがて聞き返した。
「つまり、日本は我が国には劣化した古い技術を供与し、ネーデルラントには最新技術を供与していると?」
「は」
「ははははは! そんな事があるはずないではないか。よいか枢機卿、例えば我が国の最先端の造船技術を、我が妻、カトリーヌの実家であるフランスに、やすやすと提供するか?」
枢機卿の顔が歪んだが、セバスティアンは続ける。
「いくら縁戚であろうと、国益を損なう真似はすまい。日本の皇帝も同じである。彼は優れた君主だ。自国の安全を脅かしかねない最新技術を、たとえ友好国であろうと、そう易々と渡すはずがない。ネーデルラントの件は何かの間違いか、あるいは商人が針小棒大に騒いでいるだけだろう」
彼は楽観的に笑い飛ばした。40年来の友人を疑うなどできなかったのである。
ただ、言っていることは間違ってはいない。
しかし、玉座の前の重臣たちは、誰一人として笑わなかった。
「陛下。恐れながら申し上げます。これは、間違いなどではございません。今回初めてご報告いたしますが、今や我が国の存亡に関わる、見過ごせぬ事態となっているのです」
海洋貿易大臣の声は震えていた。
「まず、ネーデルラントとの経済競争において、我々はすでに致命的に劣勢なのです」
「ほう?」
セバスティアンはそんなはずはないだろうと考えているが、例の蒸気船が頭から離れない。数回調査団を送っているが、まだ最終的な結果は出ていないのだ。
「例えば、交易にかかる時間です。我々のガレオン船が香料諸島との交易を一度往復するには、実に5年もの歳月を要します。しかし、ネーデルラントの蒸気船は、日本領のアフリカやインドで石炭補給をしながら、同じ航路をわずか20か月で往復するのです」
謁見の間に、どよめきが起こった。
5年対20か月。
その数字が意味する絶望的な効率の差を、理解できない者はいなかった。
「陛下、さらに深刻な事態がございます。ネーデルラントの商人たちは、危険を冒して我々が支配するモルッカ諸島には近づきません。彼らは安全な日本の港で、日本が独自に栽培した香料を、合法的に大量に買い付けているのです」
「な……なんだと……! ?」
セバスティアンは思わず玉座から身を乗り出した。
日本のプランテーションの報告は何年も前から聞いていたからである。
しかもそれ自体はポルトガルの貿易を直接害してはいない。
中国やインド、ホルムズにヨーロッパ。
販路は十分にあったからだ。
だが、それがオランダの手に渡って自国の経済を破壊している事実は、彼にとって全くの初耳である。
「陛下、お分かりになりましたか」
と大臣は続ける。
「我々が1度の交易で帰国する間に、ネーデルラントは3度の交易を完了しているのです。そして日本産香料でヨーロッパ市場を席巻している。もはや事実上、我が国に独占権はありません。このままでは数年で我が国の富は枯渇し、ネーデルラントに完全に追い抜かれます」
大臣の悲痛な報告はセバスティアン1世の心を激しく揺さぶった。
その動揺を枢機卿は見逃さない。
静かに、鋭く言葉を突き刺したのだ。
「陛下。これが現実でございます。我々は、日本の真意を確かめねばなりません。これは、友情を疑う行為ではございません。この友情と国交を続けるために、我々に課せられた最後の義務なのです」
もはや、逃げ道はなかった。
長い沈黙の後、セバスティアン1世は苦しげな声で言った。
「……枢機卿。大規模な視察団を、可及的速やかに編成せよ」
これまでの視察団とは比べ物にならない大規模な視察団の編成を命じたのだ。
「目的は真実の究明だ。ネーデルラントの地で何が起きているのかを解明せよ」
「ははっ!」
枢機卿は、床に膝をつき、深く頭を垂れた。
■慶長七年一月八日(西暦1602年3月2日) アムステルダム
冬の寒さの厳しさが残る中でも、アムステルダム港は活気に満ちていた。
沖合では木造帆船が何隻も並んで停泊している。蒸気船の煙突からは絶え間なく黒煙が立ちのぼり続けていた。
ポルトガル王国が威信をかけて編成した大規模視察団一行が、アムステルダムの造船所に足を踏み入れる。
オランダ総督名代のフレデリック・ヘンドリックに案内されたのだが、彼らは覚悟していた以上の光景を前に、思考を停止させてしまった。
「……なんだ、これは……魔法か?」
ポルトガル随一の造船技師であるロポ・デ・アルメイダの口から、乾いた声が漏れる。
「蒸気など、鉱山の排水ポンプをかろうじて動かす程度ではなかったのか……」
しかし目の前に広がる光景は、彼が知る物理法則を嘲笑う、まさに悪夢の現実化であった。
巨大な建屋の中では、唸りを上げて稼働する無数の機械が鋼鉄の部品を流れ作業で削り出している。
その全てがシャフトとベルトで連結され、1つの巨大な動力源によって動いていた。
彼らの足が巨大な鉄槌の前で止まり、案内役のフレデリックが誇らしげに説明する。
「蒸気を利用した鍛造機、『スチームハンマー』です」
巨大な鉄槌が蒸気の力だけで軽々と持ち上げられ、次の瞬間、灼熱の鉄の塊に向けて振り下ろされる。
轟音とともに火花が舞い、巨大な鋼塊は熱で柔らかくなって形を変えた。
「これは……人の手では不可能な作業が、目の前でいとも簡単に……」
アルメイダはその場に立ち尽くした。
技師としての全経験と知識をもってしても、目の前の光景を理解できずにいる。
「……あり得ん。これほどの質量をこれほどの速度で、寸分の狂いもなく打ち付けるだと……? 我々が水をくみ上げるので精一杯のあの『蒸気』の力で、彼らは鉄を自在に加工している……のか?」
その言葉は、神への祈りでも悪魔への恐怖でもなかった。
自らが信じてきた技術体系が根底から覆される音を聞いた、一人の技術者としての絶望的な問いだったのである。
一行は、建造中の巨大な木造船の内部を見学した。
巨大な竜骨を基礎に、寸分の狂いなく組み上げられた肋材。分厚いオーク材を何層にも重ねた、堅牢な船体。
その完璧な仕上がりは、ポルトガルの熟練職人でさえ到達できない工業的精度を物語っていた。
そして船底で静かにその巨体を横たえる巨大で複雑な蒸気機関。
蒸気で水を吸い上げる自国のポンプとは全く違う原理で作動しており、アルメイダには到底理解できない複雑な機械だった。
「……そんな、あり得ません。絶対にあり得ない」
視察団の一人、イエズス会の神父が真っ青な顔でつぶやいた。
彼は科学にも通じており、この視察の記録係を命じられていたのである。
その目は眼前の機械ではなく、その機械を生み出したであろう存在しないはずの『過程』を見ようとしていた。
「技術には順序があります。この槌を作るには、まずこの槌に耐えうる鉄を鍛えるための、別の道具が必要になる。その道具を作るには、さらに別の道具が」
さらに続ける。
「しかし、目の前にあるのはその連鎖の遥か先にある『結果』だけです。その過程……我々が知る人の世のいかなる工房にも存在しないはずの、無数の『過程』が、ここには完全に抜け落ちている」
彼の言葉は超自然的な恐怖ではなく、冷徹な分析に基づいていたからこそ、より深い戦慄を仲間たちに与えた。
「まるで……天から完成された知恵が降ってきたかのようです」
その凍てついた空気の中、案内役のフレデリックは涼しい顔で言い放った。
「全ては、我々オランダ人の創意工夫と努力の賜物ですよ。必要は発明の母、と申しましょうか」
あまりに堂々としており、視察団の耳には白々しい嘘としか聞こえなかった。
しかし、物的証拠などない。
反論できないのだ。
■最終日 アムステルダム港
視察の最終日、港で最終的な質疑応答が行われた。
アルメイダは、この数日間で蓄積した全ての疑問と屈辱を胸に、震える声でフレデリックに問いかける。
「……1つだけ聞かせてください。なぜこの技術を秘密にしていたのですか。同盟国の日本が、我々には簡単な技術だけを教え、あなた方には最高の技術を渡したのはなぜですか」
アルメイダの悲痛な問いに対し、フレデリックは表情1つ変えずに静かに首を振った。
「アルメイダ殿、それは誤解です。これまでも申し上げてきたとおり、我々が日本から直接的な技術提供を受けた事実は一切ございません」
「な……しかし、ではこの力はどこから……!」
フレデリックはアルメイダを制して言葉を続ける。
その口調はあくまで穏やかだが、内容はポルトガル側にとって残酷な事実の再確認でしかなかった。
「一昨年にインドのチャウルで始まった『世界技術協力機構』では、お互いの技術を開示し、学び合いましたよね。それは昨年も同様です。我が国も、そして貴国も、あの場で同じ情報に触れ、同じ設計図を目にしたはずです。我々が何かを隠した事実はございません」
アルメイダはぐうの音も出なかった。
フレデリックの言葉は公式には紛れもない事実なのである。だからこそその事実はより深刻で、より残酷な意味を帯びていた。
同じ情報に触れ、同じ機会を与えられた。
しかし、結果は全く違う。
フレデリックの言葉は直接的な侮辱ではない。
単なる能力不足ではないか?
それは『赤子扱い』されるよりも、遥かに耐え難い究極の屈辱である。
視察団が持ち帰ったのは共謀の証拠ではなく、絶望的な現実だった。
ポルトガルは日本やオランダと同じ土俵にすら立てない――。
このまま劣等を認めれば、ポルトガルの誇りは崩壊する。
自己崩壊から逃れるため、彼の心は1つの結論に逃避した。
「我々は劣っているのではない。彼らが我々を陥れようとしているのだ」
その瞬間、畏怖と屈辱は明確な敵意へと変わった。
彼らの報告書が、国王セバスティアン1世の理性に最後の試練を課すのである。
次回予告 第904話 (仮)『セバスティアン1世という男』

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