西暦257年3月下旬 対蘇国国境地帯
険しい山々の間から、空の一部分だけが見える。木々の間を吹き抜ける風はまだ冷たく、兵士たちの呼気を白く染めた。
「敵の動きはどうだ?」
崖の上の持ち場で、ミユマは静かに傍らの兵士に確認した。
「はっ。まだ見えません。ですが鳥の飛び方が妙です。森の奥に相当な数の何かが潜んでいるかと」
弥馬壱国の軍議から10日が経過していた。
ミユマが率いる精鋭5千は、天然の要害に布陣を完了している。
尊の助言に従い、敵の進軍経路となりうる隘路《あいろ》には、先端を鋭く尖らせた杭を無数に打ち込んだ逆茂木を仕掛けた。
「弓兵たちの配置は?」
「滞りなく。見通しの良い高台に弓兵、そして我らが切り札である連弩隊を配置済みです。兵たちの士気も高く……」
「うむ」
部下の報告に静かにうなずきながらも、ミユマの心は晴れなかった。決戦を前にした静かな緊張が、陣営全体を支配している。
兵士の顔には覚悟が見えるが、未知の敵との戦いがいつまで続くか分からない。
均衡は風が凪いだ昼過ぎに破られた――。
谷の入り口を見渡せる最も高い場所にある見張り台から、けたたましい銅鑼の音が鳴り響いたのである。
敵襲の合図だ。
すぐに伝令兵が息を切らせて崖の上の本陣にいるミユマのもとへ駆け込んできた。
「申し上げます! 見張り台より報告! 狗奴国軍、谷へ向かって進軍中との事!」
「数は? !」
ミユマが冷静に聞くと伝令兵はごくりと唾を飲み込み、震える声で報告を続けた。
「お、おおよそ1万! 我らの倍はおります!」
その報告に、本陣に詰めていた兵士たちが動揺し、不吉なざわめきが広がった。
しかしミユマの表情は変わらない。驚きはなく、予想通りの事実に冷静な理解を示していた。
(最悪の想定通りか……)
ミユマは内心でつぶやいた。
都を発つ前から、彼は狗奴国が単なる国境紛争ではなく、弥馬壱国の息の根を止めるための総力戦を仕掛けてくる可能性を読んでいたのである。
全兵力1万3千のうち大半を戦線に投入してくる可能性も、想定すべき選択肢として計算に含めていた。
狗奴国は国運を賭けている。
本国の守りを2~3千にまで減らす危険を冒してでも、この戦いに全てを注ぎ込んできたのだ。
「騒ぐな!」
ミユマの一喝が兵士たちの動揺を切り裂く。
「敵の数の倍など、初めからわかっていた事だ! だからこそ我らはこの地を選んだ! 地の利は我にあり! ここが奴らの墓場よ!」
力強い声を聞いて、兵士たちの表情にわずかながら決意が現れた。
そうだ、この地には地の利がある。
ミユマは、予断を許さない厳しい戦いになると改めて痛感しつつも、将としての冷静さを失ってはいなかった。
やがて谷底から地響きが伝わり始め、兵士たちは眼下の隘路を睨みつける。
ミユマの視線の先、谷の向こうから現れた敵の前衛部隊の異様な姿が、彼の警戒心を最大限に引き上げた。
「あれが……馬か」
誰かがごくりと喉を鳴らす。
人がまたがれるほど巨大な四つ足の獣。その背に乗る兵士たちは、まるで天から遣わされた鬼神のようだった。
大地を揺るがし腹の底に響く不気味な|蹄《ひづめ》の音は、兵士たちの士気を内側から削いでいく。
「怯むな! 尊殿の策の通りだ! 引きつけて撃つぞ!」
ミユマが大声で檄を飛ばす。
しばらくして騎馬隊が鬨の声を上げて突撃を開始し、地響きを立てながら隘路へと殺到した。その速さは、人の走る速さとは比べ物にならない。
砂塵を巻き上げながら迫りくる様は、まさに土砂崩れのようだった。
「まだだ! まだ引きつけよ!」
ミユマは、敵が逆茂木の陣に突っ込んで勢いが殺がれる寸前まで辛抱強く待った。
兵士たちの間には、圧倒的な速度への恐怖から動揺が広がりかけている。
「今だ! 放てっ!」
ミユマの号令が谷間にこだました。
崖の上から空を黒く染めるほどの矢が降り注ぐ。特に連弩隊による2度の一斉射撃は凄まじく、狗奴国の騎馬隊と前方部隊に壊滅的な打撃を与えたのである。
しかし狗奴国の抵抗も凄まじかった。
兵士たちは分厚い木の盾を頭上に掲げて密集し、矢を防ぎながら前進する。
先頭の者が倒れれば、後ろの者が死体を乗り越えて進んでくるのだ。その恐るべき突進力は、こちらの矢の消耗を加速させていく。
「申し上げます! 連弩隊の矢が、全て尽きました!」
伝令兵の悲痛な報告がミユマの心臓を締め付けた。
(切り札を全て使っても、止めきれんかったか……!)
ミユマは苦々しく唇を噛んだ。
初戦で狗奴国の騎馬隊を無力化し、歩兵にも2千以上の損害を与えている。だが、それでもまだ7千以上も残っていた。
弥馬壱国軍の切り札はもうない。
「全軍に伝えよ! これより先、射撃は合図があるまで禁ずる! 敵を引きつけ、最小限の矢で最大限の効果を狙う。投石隊は休まず石を落とし続けよ!」
ミユマは即座に戦術を切り替えた。
これからの戦いは壮絶になる。
相手の軍が逆茂木の処理に手間どっている隙を狙い、弓兵が数本の矢を射かけてはすぐに身を隠した。
小規模な部隊を囮にして相手の兵を誘い込み、崖の上から集中的に石を落とす。
夜になれば少数の決死隊が相手陣地へ忍び込み、食糧や武具に火を放って撹乱したのだ。
それはもはや会戦ではなく、ゲリラ戦であり遅滞戦術である。
都から補給される乏しい矢を節約して使いながら、ひたすら時間を稼ぐ。狗奴国軍の進撃を1日遅らせるために、兵士が何人も命を落としていった。
■西暦257年4月5日 南海部郡への道中
資源調査隊が出立してから、1か月以上が経過していた。
香春岳での銅鉱脈発見後も青銅の製造に不可欠な錫を求めて、彼らはさらに南下を続けていたのである。
しかし絶望的に遅かった。
険しい山々を越えて渡れぬ川を迂回し、深い森を切り拓きながらの行軍は、1日に数キロ進むのがやっとだったのである。
直線距離では大したことのない道のりも、実際に目的地へ向かうには数倍の距離を歩かねばならない。
一行の疲労は限界に達していた。
「くそっ、また行き止まりか! これじゃ日が暮れちまう!」
先頭で藪をかき分けていた槍太が悪態をついた。目の前には人が通った形跡がまったくない深い谷が、行く手を遮って横たわっている。
十分に準備した食糧も残り少なくなってきた。
現地調達しながらの移動である。
「これでは鉱石を見つけたところで都まで運べませんね。滑車や索道を設計しても、設置する場所も動かす人間を運ぶ道すらない」
地質学者の佐伯が、背嚢を地面に下ろしてつぶやく。
美保が地形図と植生から有望な場所をいくつか絞り込み、千尋が持ち込んだ工具と現地の材料で、より効率的な採掘道具の設計図を描いてはいた。
しかし、全ては机上の空論である。
その時だった。
「敵襲!」
後方を警戒していたSPRO隊主任の近藤が、短く鋭い声を発した。
声が終わるか終わらないかのうちに、周囲の茂みが一斉に揺れ、十数人の男たちが野蛮な鬨の声を上げて飛び出してくる。
獣の皮をまとい、骨で作った槍や黒曜石の石斧を握っていた。
「応戦! 円陣を!」
近藤の指示にSPROの隊員たちが即座に反応した。
修一たちを守るために中央において円陣を敷き、構えた自動小銃が乾いた音を立てて火を噴くのが、ほぼ同時だった。
けたたましい銃声が静かな森に響き渡り、茂みから飛び出してきた先頭の数人が、驚きに目を見開いたまま血しぶきを上げて倒れる。
しかし、敵は怯まなかった。
銃の存在を知らないからか、あるいは仲間が倒れて逆上したのか、残りの者たちが雄叫びを上げて木々の陰から一斉に突っ込んでくる。
「くそっ、散開してやがる! 茂みが邪魔で全員は捉えきれん!」
見通しの悪い場所では自動小銃の利点を活かせない。
「深追いは危険だ! 弾を無駄にするな! 撤退するぞ!」
近藤は即座に状況を判断し、的確な指示を飛ばした。彼らの目的は敵の殲滅ではない。護衛対象の安全な離脱だ。
SPRO隊員が敵の前進を阻むために威嚇を込めた短い射撃を繰り返す。
その隙に修一は学生たちを促して、崖を滑り降りる形で川辺へと退避した。
足を滑らせた千尋を槍太がとっさに庇い、2人して泥まみれになる。
辛うじて命は拾ったが、修一は膝に手をつき、荒い息を繰り返した。
知識と資源で弥馬壱国は救われる。その考えが、あまりに楽観的だったと思い知らされたのであった。
■西暦257年6月2日 弥馬壱国 都
都の工房には、帰還した修一たちと壱与たちが集まっていた。雰囲気は前線の状況を反映して重く沈んでいる。
「ミユマ将軍は、地の利を活かして3か月近くも敵の進撃を食い止めています。でも『善戦』と言うにはあまりに厳しい状況です」
尊が南部の戦況を報告すると、場の誰もが唇を噛んだ。
「報告では緒戦で連弩の矢は使い果たして、その後は都からの補給を頼りに、なんとか戦線を維持している状態です。でも今の生産能力じゃ、まったく足りない。兵の疲弊も限界に近いし、前線が崩壊するのは、時間の問題だと思う」
「オレたちも同じだ」
修一が疲れた顔で応じた。
足元に置いてあった麻袋から、鈍く赤黒い光を放つ石を1つ取り出してゴトリと机に置く。
「オレたちも、香春岳で銅の鉱脈は発見したんだよ。だけど問題はそこからなんだ。錫の鉱脈を探す途中で道が険しくなって、撤退せざるを得なくなった。結果、見ての通り持ち帰れたのは標本だけだ」
槍太や千尋が悔しそうに顔を伏せる。
21世紀の工学技術も、資源と加工する場所がなければ宝の持ち腐れなのである。修一は机の上の鉱石を力なく指さした。
「道がなかったら、たとえ山が丸ごと銅でできていたって、ただの岩山に過ぎないんだよ。鉱石を都まで運ぶ手段が、今のオレたちにはないんだ」
「鉄も同じです」
尊が修一の発言を受けて答えた
「ミユマ将軍が困ってるのは、鉄が足りないからじゃない。褐鉄鉱はかなりあるけど、問題なのは矢尻に加工する技術力や生産体制が整ってないって事なんです」
尊は工房の隅にあるタタラ場を指さした。
数人の職人が汗だくになりながらフイゴを踏み、炉に風を送り続けている。
「最初の戦闘報告によれば、たった1日で数千本の矢が使われたみたいです。多分前線では、今も同じくらいの早さで矢がなくなり続けてると思います」
さらに尊は続けた。
「でも1日で1割しか作れないんですよ。原料の鉄はあるのに、燃料の木炭がまったく足りない。森の木を伐採すればハゲ山になるし。生産が全然追いついてないっていうか、許容範囲を完全に超えてる状況なんですよね」
「それから、もっと深刻な問題があります」
今度は備蓄物資の管理をしていた比古那が、厳しい表情で帳簿を指し示した。
「SPROから持ち込んだ石炭の備蓄なんだけど、今のままなら、あとひと月もたない。だから緊急時以外の機械の稼働は停止しています」
「前線に送るための薬や清潔な布を作るのにも、支障が出ています」
咲耶が付け加え、現実の厳しさに拍車をかけた。
彼女と比古那は、都の工房で前線へ送るための医療物資の生産を指揮している。
薬草を効率良く煎じ、大量の布を生産して煮沸消毒する工程には、SPROが持ち込んだ蒸気機関を利用した装置が不可欠だったのである。
「煮沸消毒一つとっても、今は必要なときしか機械を動かせない状況です。これじゃあ、前線の兵士たちを傷口からの病で死なせてしまう……」
咲耶の顔が悲痛に歪んだ。
石炭が尽きれば医薬品の生産は滞り、前線の兵士の生存率は著しく低下する。
彼女たちの活動は、兵站の最前線であり、兵士たちの命の最前線だった。
その稼働すら制限しなければならないほど状況は切迫している。石炭が尽きる日を1日でも先に延ばすための、苦肉の策であった。
原料はあるのに、生産が追いつかない。
輸送手段がないから、新たな資源も活用できない。
そして、全てを支えるエネルギーも、尽きかけようとしている。
八方塞がりの状況に、誰もが言葉を失った。
仮に現代からガソリンや灯油を持ってきていたとしても、いつかはなくなる。
1トン? 10トン? 1万トン?
この時代にどれだけ滞在するのかが不明なのだから、不確定要素でしかないのだ。
「鉄も石炭も、見つけるだけでは意味がない。都に運んで無駄なく加工して初めて力になる……」
壱与が苦しげに声を振り絞った。
女王の瞳には焦りが見えたが、それでもなお強い意志を失っていない。
工房の壁に広げられた地図を睨んでいた修一が、決然とした声で言った。
「……問題は2つ。生産と輸送の問題を同時に解決しなければならない」
修一は炭を手に取り、地図の上に力強く3本の線を引いた。
1本は香春岳へ、もう1本はまだ見ぬ錫の産地へ。そして、最も重要な3本目の線を、北へ向かって伸ばした。
「オレたちの次の目標は、これだ。『資源の道』をオレたちの手で造る」
その線の先にあるのは、筑豊の地。
記憶が正しければ、そこには「燃える石」――石炭が、露天掘りで採掘できるほどの浅い地層に眠っているはずだった。
「まず、輸送の問題を解決するのが『道』だ。道さえあれば銅も錫も、そして何より石炭が都まで運べるようになる」
彼は次に、都が描かれた場所を炭で黒く塗りつぶした。
「そして生産の問題。これを解決するのが石炭だ」
修一は、工房の隅にあるタタラ場に目を向ける。
「尊の言うとおり、今の製鉄法では木炭をいくら使っても生産量は頭打ちだ。だけど石炭を使えば、炉の温度を桁違いに上げられる」
修一はさらに、鉄の生産効率を向上させるための高炉の建造にも触れたのだ。
道を造り、エネルギーを確保して生産技術を革新する。
それは人力で山を切り崩し、谷に橋を架け、獣道すらない荒野に文明の礎を築く途方もない計画の始まりだった。
「あまりにも、壮大すぎる話だな……」
「でも、やるしかないだろう」
比古名の言葉を受けて槍太が呆然とつぶやくと、修一は仲間たちの顔を一人一人見回した。
道がなければ、オレたちは滅びる。
ふと、修一はそう思った。
なぜそう思ったのか自分でもわからない。
死ぬのは怖い。
しかし、自分のせいで、教え子たちまで巻き込んでしまったのではないか?
親御さんになんと説明すればいいのか?
その思いが同時に湧き上がってきたのだ。
オレが弱気になってどうする!
次回予告 第56話 (仮)『筑豊への道』

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