第900話 『黄金の国の飢餓』

 慶長五年(1600年)十一月 新生インカ帝国首都 クスコ

「……まだ、来ないのか」

 絞り出すような声が、がらんとしたクスコの玉座の間に響いた。

 皇帝トゥパク・アマルの言葉は、問いかける相手もいないまま、高く冷たい石の天井に吸い込まれて消える。

 彼の視線は窓の外に広がる色彩を失った世界に注がれていた。

 どこまでも続く、灰色の空と灰色の街。

 側近の将軍が、一歩進み出て力なく頭を下げる。

「陛下。プーノ県より、ようやく使者が一人、命からがら辿り着きました。かの地を発って以降、後続の連絡は完全に途絶えております」

「……様子は」

「は……。報告によりますと、備蓄は完全に尽き、人々は食料を求めてチチカカ湖畔を彷徨っている、と。しかも湖の水も灰で汚染され、魚は浮き、それを食した者も病に倒れているそうです」

 また同じ報告か、とトゥパク・アマルは思った。

 地名と、僅かな状況の違いがあるだけだ。

 かつてインカの血脈であった全ての土地から、同じような絶望が届けられ、あるいは連絡の途絶そのものが、最悪の報告となっていた。

 つい数か月前まで、この場所は歓喜に満ちていた。

 異国の神を祀るサント・ドミンゴ教会の頂から、侵略者の象徴であった十字架が引きずり下ろされる。

 その場所に太陽神インティをかたどった黄金の円盤が再び掲げられた時の、地を揺るがすほどの歓声。

「インカは蘇った!」

 誰もがそう叫び、涙を流した。

 ビルカバンバからリマへ攻め込み、外港カヤオを得て、67年ぶりに父祖の都クスコを奪還したのである。

 栄光の瞬間だった。

 しかし、その黄金の円盤がクスコの空に輝いたのは、あまりにも短い間だった。

 歓喜はアンデスの山々にこだまする間もなく、南の空から静かに降り注ぐ、終わりの見えない灰色の雪によって完全に飲み込まれてしまった。

「殿下(小佐々純正)は、我々を見捨てたのか」

 疑念が悪夢のようにトゥパク・アマルの心を苛む。

 大日本帝国皇帝、小佐々純正。共にスペインと戦い、このクスコ奪還を成し遂げさせてくれた、唯一無二の友。

 彼がこのような状況を見過ごすはずがない。

 そう信じたい自分と、日に日に深まる絶望的な現実との間で、皇帝の心は引き裂かれそうになっていた。

 ■クスコ市街地

 かつて活気に満ちていた広場は、今は静まり返っている。

 わずかに開いている食糧の配給所に、力なく座り込む人々の長い列が蛇行しているだけだった。風が吹くと、地面の灰が舞い上がり、人々は咳き込みながら身を固くする。

 列に並ぶ男が、隣の男に話しかけた。

「おい、聞いたか。ワマンガじゃ、ついに人が人を食らうようになったらしい」

 ワマンガは現在のアヤクーチョで、クスコより西へ約500kmの距離にある。飢餓による極限状態のため、人肉を食う人が出たようなのだ。

 真偽の程は不明だが、まさに生きるか死ぬかの状態であり、他人事ではない。

「……ここでは、まだ起きていないだけだ。この粥がいつまで続くか」

 彼らの視線の先では、大きな鍋から一人ずつ、灰色のキヌア粥が分け与えられていた。命を繋ぐための、水のように薄い粥だ。

 家の軒下でうずくまる老婆が、空腹で泣く力もない孫の体をさすりながら、虚ろに呟く。

「スペイン人がいた頃の方が、まだましだった……あの頃は、腹は減っても、太陽は昇っていたからねぇ」

 それはインカの民にとって最大の侮辱であり、同時に、抗いようのない真実の声でもあった。

 しかし、火山の噴火によるこの惨状はスペインがどうの、の問題ではない。

 自然現象であるから、当然スペイン統治下でも起こっていたはずだ。

 人々の視線が、時折、丘の上にそびえるサント・ドミンゴ教会の頂に向けられる。

 そこには、灰に汚れて鈍色に淀んだ黄金の円盤があった。

 再興の象徴であったはずのそれは、今や天に見放された民の、叶わなかった希望の墓標のように見えた。

 法と秩序は、皇帝トゥパク・アマルの威光と、彼が必死に訴えかける『東の友からの救助は必ず来る』という言葉によって、かろうじて保たれていた。

 しかし、その言葉を信じる力も、人々の腹が空になるにつれて、急速に失われつつあったのである。

 ■北米大陸西岸、カリフォルニア

 インカの絶望的な静寂とは全く対照的に、帝国が築いた前線基地は、巨大な国家事業の現場そのものの熱気に満ちていた。

 深く掘られた軍港の桟橋には、日の丸と小佐々家の家紋である七つ割平四つ目を掲げた大型輸送船が、絶え間なく接岸している。

 帝国が『安津』と名付けたこのサンフランシスコ湾岸の巨大な基地では、旧来の人力や荷馬車とは比較にならない荷役能力が実現されていた。

 船倉から運び出されるのは、主に南半球のサフル大陸から、ハワイ総督府を経由して運ばれてきた小麦や芋といった、今や世界で最も価値のある物資だ。

 それらは埠頭に敷設された短距離の臨港鉄道によって、東へ数キロ離れた巨大な備蓄倉庫群へと、よどみなく運ばれていく。

 蒸気機関車の短い汽笛、クレーンが軋む金属音、そして様々な言語で飛び交う号令。

 ここには、インカの絶望的な静寂とは全く対照的な、生命と秩序を維持しようとする人間の、力強い意志の音が満ち溢れていた。

 インカ・アステカ緊急救援本部の庁舎は、その熱気の中心にあった。

 野戦司令部さながらの緊張感の中、壁に掛けられた巨大な南北アメリカ大陸の地図の前で、作戦会議が開かれている。

「インカのカヤオ港に控えさせし高速艇がもたらした新しき報せにございます」

 通信担当の士官が、そう前置きをして報告を続けた。

「トゥパク・アマル陛下は、辛うじて都を統べておられる。然りながら民の不満は限りにいと近し。兵糧の蓄えは半月ほどかと。我らの助けを最後の頼みと待ち望んでいらっしゃる有り様にございます」

 その公式報告を引き継ぐように、情報分析専門の別の参謀が重い口を開いた。

 伝令艇がもたらした公式情報に、諜報員が収集したより生々しい情報を加えたものである。

「地方の有り様は甚だしく酷きものにて、ワマンガ周辺では、ついに人肉を食らう者共も出ておると聞き及びまする」

「なんと……」

 誰もが、インカ帝国が直面する絶望的な状況の深刻さを理解していた。

 やがて本部長の視線が、アステカ方面を担当する参謀へと向けられる。

 その参謀は、インカの報告とは対照的に冷静な口調で口を開いた。彼の背後には、帝国の頭脳である科学技術院から派遣された、気象観測部門の主任研究員の姿もある。

「アステカ方面に就いては、インカの如く直なる害はございません。然れど……」

 参謀が隣に立つ主任研究員に目配せすると、主任は数枚の資料を手に一歩前へ進み出る。

「本部長。これは、ワイナプチナ噴火に関する、我ら科学技術省・気象観測部門の緊急報告です」

 彼の声は学者のそれらしく淡々としていたが、その内容は衝撃的だった。

「殿下が日頃より我らに調べよと仰せになっておりました、『大きなる山の噴火が、この世の気候に及ぼす影響』の儀にございまする。此度の噴火は、我らが見聞きした中でも類い稀なる大きさでございます。観測の記録と過去の例を照らし合わせて考えまするに、天高く舞い上がった大量の灰塵は、風の流れに乗り、幾月かのうちに北の国々一帯を覆い尽くす恐れが甚だ高いと存じまする」

 主任研究員は、息をのみ見守る幕僚たちを前に地球儀を指し示した。
  
 彼と事前に話を聞いていたアステカ担当者以外は、専門用語にきょとんとしている。

「枢機(要点)を申し上げます。これにより来る年より先、世界の北半分は甚だ陽の光の届く刻短く、甚だ涼しき夏に見舞われます。すなわち世界において未曾有の飢饉となるは、もはや避けられません」

 科学的な根拠に基づいたその断言に、室内の空気が凍り付く。

 それは純正が発した漠然とした警告が、帝国の科学者たち自身の研究によって、揺るぎない事実として証明された瞬間だった。

 アステカ担当の参謀が、その重い空気の中で再び口を開く。

「主任の報告の通りです。都を奪い返したばかりの新生アステカ王国はまだ礎が弱く、来たるべき飢饉は、必ずや地方の不満の輩を利して謀反の火種となりましょう。彼の者ら自らが備えを固め、危機を乗り切るための支援を、今このとき行うべきかと存じます。インカへの支援が治療であるならば、アステカへの支援は予防にございます」

「グアダラハラのヌエバ・エスパーニャの動きは如何か?」

 本部長が短く質問した。

「未だこの天災の全てを掴めておらぬ様子。然れど来たるべき混乱に乗じて、新生アステカ王国への揺さぶりをかけてくるは必定。我らが先んじてアステカの礎を固めることは、イスパニアの野心を未然に挫くことにも繋がります」

「然り。殿下のご慧眼、加えてそれを裏付けた科技省の働き、見事である。……インカには急ぎの助けを。アステカには未来への備えを。何れも帝国にとって、等しく重き任である」


 本部長は地図を見つめたまま静かに続ける。

「この災いの前では、誰もが無力だ。然れど我らは違う。我らには、この危機を乗り越える力がある。然りとて力には責任が伴う」

 彼は居並ぶ幕僚たちを見渡した。その眼は、一人一人の覚悟を確かめるように鋭い。

 厳しい表情で部下たちを見回すと、声を低めて語り始める。

 両国の情勢が帝国全体に与える影響について、冷静に分析していたのだ。

 数年をかけて築き上げてきた太平洋の安定が、今まさに崩壊の危機に瀕している。もしインカとアステカが倒れれば、スペインが再び侵攻し、海賊が跋扈する無秩序な海域となるだろう。

 その言葉に、室内の空気が引き締まった。

「はっ。農業指導団の第一陣が、無事到着いたしました。食糧ではなく、この危機を乗り越えるための『種』を携えてきております。火山灰土壌や冷害に強い、改良されたジャガイモやサツマイモの種芋にございます」

 農政担当の文官が一歩進み出た。

 つい先ほど、日本本土からの直航便で到着したばかりだった。

 その報告に室内の雰囲気がわずかに明るくなる。目先の飢えを凌ぐ食糧だけでなく、未来を育む希望がもたらされたからだった。

 続いて、兵站を統括する武官が力強く報告する。

「疫病と戦う医師や薬師の集まり、加えて此度の策の要となる、兵站部隊も備えが整っております」

 本部長の問いかけるような視線に、武官は言葉を続けた。

「彼の者らの務めは、届けた食糧が一粒たりとも不正に失われず、最も飢えたる民の口にまで確と行き渡るための、公平な仕組みを現地政府と共に設ける事にございます」

「見事である」

 本部長は満足げにうなずいた。これで全ての駒は揃った。彼は地図の前に立ち、そこにいる全員に聞こえるよう決然と命じる。

「全計画を最終の段階に移行いたす。サフル大陸よりハワイ経由にて集積せし糧秣と、本土より輸送せし技と人材を、両国への最も良きかたちで組み直すのじゃ。輸送船団を二隊に分かつべし」

 地図上の2つの港を、力強く指し示した。

「第一救援船団、目標はインカの外港、カヤオ。第二救援船団、目標はアステカの生命線、アカプルコ。出航は四十八時間後。護衛艦隊との最終打ち合わせを急がせよ」

「はっ!」

 号令一下、作戦室は再び活気を取り戻し、人々はそれぞれの持ち場へと散っていく。命令は下された。あとは、それを完璧に実行するだけだ。

 次回予告 第901話 (仮)『フレデリックのオランダと、セバスティアン一世のポルトガル』

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