1591年5月3日(天正19年3月10日) ライデン大学 天文台
「完成しました!」
ウィルは興奮した声で父ルドルフを呼んだ。
「フレデリックとアドリアンさんの拡大観察装置の技術を応用し、約20倍の倍率を実現できました。レンズの組み合わせと焦点距離の調整で、観察装置よりも遠距離に特化した設計にしたのです」
「これは素晴らしい…」
ルドルフは望遠鏡を覗き込み、目を丸くした。
「昼間でも月のクレーターがはっきりと見えます! 夜の観測では、木星の衛星も明瞭に確認できるでしょう」
「これは航海術に革命をもたらすぞ」
父の言葉にウィルはうなずいた。
「それ以上に、天文学の基礎理論を覆す可能性があります。コペルニクスの地動説を裏付ける証拠にもなり得る」
ルドルフは息子に警告的な視線を向けた。
「その話題は慎重にな。特に教会関係者の前では」
オットーの魔女裁判だけではない。
科学のない時代。
この時代はまだ、学問よりも協会権力の方が強く、異端審問として数えきれない犠牲者が出ていたのだ。
「わかっています。まずは実用的な側面、特に航海への応用を強調します。それに精密で正確な観測記録から導き出される結論は、地動説しかありません」
ウィルはポケットからフレデリックの手紙を取り出した。
「オラニエアカデミーの設立が決まりました。私は天文・測量部門を担当します。それから、フランクフルトのジョルダーノ・ブルーノ氏を招聘しようかと考えています」
「そうか。マウリッツ公が個人的に後援するという噂は本当だったのだな……。まあ、真実の追究は悪ではない。ただ、十分な確証、つまり天動説の学者を黙らせるだけの記録がないうちは、公には発言するでないぞ」
「はい。アカデミーも、協会や保守的な勢力の敵にまわさないよう、公式にはオラニエ家の私的研究機関として設立されます」
ルドルフは複雑な表情で息子を見つめた。
有能な息子を誇らしく思うと同時に、心配が入り混じっている。
「お前は11歳だ。しかし私の目から見ても、お前の知識は既に多くの学者を凌駕している。どこでそのような知識を……」
「父上、いつかきちんとお話しします。ただ、今はまだ…」
言葉を濁すウィルに、ルドルフはゆっくりと頷いた。
「わかった。無理に聞くことはしない。ただ、危険なことはするなよ。私も、いや、父にも協力させてほしい」
「もちろんです! 父上と一緒だとどれだけ心強いか!」
二人は再び望遠鏡に向かい、その精度の向上に没頭した。
■1591年5月20日(天正19年3月27日) オラニエアカデミー建設地
アカデミーの建設は驚くほど速いペースで進行していた。
わずか1か月で、中央管理棟の骨組みが立ち上がり、周囲では工房や実験室の基礎工事が行われている。
敷地内の建物以外のスペースは、ほとんどが農地だ。
フレデリックは建築図面を手に、現場監督と話し合っている。
「この実験室には水を引き込む必要があります」
「殿下、そのような細工は通常の建物ではしません」
「しかし、これは通常の建物ではない。実験には水が不可欠です」
監督は渋々了解し、指示を出すために去っていった。フレデリックは満足げに頷き、次の計画を進めようとした時、見慣れない馬車が敷地に入ってきた。
「フレデリック殿下!」
馬車から降りたのは見知らぬ男性だった。40代前半、がっしりした体格に鋭い目をした人物だ。
「どちらさまでしょうか?」
「私はハインリヒ・ベッサーと申します」
男はフレデリックに深く頭を下げた。
「ドイツのヴォルムスから参りました。鉄鋼技術の研究をしております」
フレデリックは興味を持って男を観察した。
「鉄鋼技術? それは興味深い。どのような研究を?」
「高炉の設計と操業法の改良です。具体的には鋳鉄と錬鉄の製造方法と、鋼の均質化について…」
話を聞くにつれ、フレデリックの目は輝きを増した。この男の知識は明らかに当時のヨーロッパの水準を超えていた。
「あの、もしや…」
フレデリックは周囲を見回し、護衛しかいないのを確認して、声を潜めて言った。
「21世紀からいらっしゃいましたか?」
ハインリヒの目が大きく見開かれた。
「な、なぜそれを! ?」
「私も同じなのです。54歳の外交官でした」
「!」
二人の間に沈黙が流れ、ハインリヒはホッとして息を吐く。
「やはり……私は42歳の冶金技術者でした。約15年前に突然、27歳の鍛冶職人としてドイツで目覚めたのです」
「そうでしたか! 実は私たちのような転生者は他にもいます。このアカデミーは、私を含めた転生者たちが中心となって設立するものなのです」
「それは……素晴らしい! 私は一人だけだと思っていました。何か役に立てることがあれば」
「しぃっ!」
ハインリヒの顔に驚きと希望の表情が広がった直後、フレデリックは人差し指を立てて口を塞ぐジェスチャーをした。
「転生者の件は当然極秘事項です。相手が転生者以外、絶対に話さないように」
ハインリヒはぶんぶんと頭を縦に振り、しばらくしてフレデリックは話を続ける。
大人が子供に何をしているのだ?
端から見れば不思議で珍妙な光景である。
「鉄鋼技術は私たちの計画の根幹です。材料がなければ、機械も作れません」
フレデリックはハインリヒを案内しながら、アカデミーの構想を説明した。
それは単なる学校ではなく、産業革命を数百年早める壮大な計画だったのである。
■1591年6月10日(天正19年4月19日) オラニエアカデミー
開所式の日、アカデミーの正門前には多くの人々が集まっていた。
マウリッツ公を中心に、ライデン大学の教授陣、アムステルダムの有力商人たち、そして遠くから来た見物人まで、様々な人々が新しい研究機関の門出を見守っていた。
中央にはフレデリック、オットー、ウィル、シャルル、シャルロットの五人が立ち、その後ろにはハインリヒを含む新たに集った転生者たちの姿もあった。
「本日ここに、オラニエアカデミーの開所を宣言します」
マウリッツの声は広場に響き渡った。
「この施設は、実用的な科学と技術の研究を通じて、ネーデルランド連邦共和国の発展に寄与することを目的としています」
彼はさらに続けた。
「特筆すべきは、この施設が若き才能の育成にも力を入れることです。フレデリック、ウィレブロルド、オットー、そしてシャルロットのような子供たちの驚くべき才能を、国の財産として育てていきたい」
聴衆からは拍手が起こる。
年配の学者たちの間には懐疑的な表情もあり、とりあえずオラニエ公の手前出席している者も多いが、若い学徒や技術者たちの目は輝いていた。
マウリッツはハサミを使って赤いリボンを切り、公式に施設を開所した。見学者たちは案内係の誘導に従って、各部門の展示を見て回り始める。
「さて、私たちの計画も本格的に始動だな」
シャルルが小声で言った。
5人は一般の見学者から離れた中央棟の会議室に集まっている。
「今日現在、私たちのほかに3人の転生者がアカデミーに所属している」
フレデリックが3人を紹介した。
「冶金技術者のハインリヒ・ベッサー。機械技術者のクリストフ・バウアー。そしてヨハン・ヴェルデン、化学者だ」
年齢はすでに、関係なくなっている。
「3人とも重要な基幹技術の専門家ね」
シャルロットが頷いた。
「うれしいことに、投資計画が予想を上回っているわ。初回募集で8,500ギルダーの出資が確保できたけど、残念ながら肥前国の技術レベルを考えると、このペースでは到底追いつけない」
シャルロットは手元の投資記録を指でなぞりながら語った。
商人たちの反応は確かに良好だったが、それでも肥前国の圧倒的な技術力を前にしては雀の涙に等しい。
「現在の投資調達ペースでは年間2万ギルダーが限界。でも10年で産業革命を実現し肥前国に追いつくには、最終的に年間数千万ギルダー規模の収益を上げなきゃならないわ」
シャルロットは数字の間違いがないよう、帳簿を確認しながら続ける。
「段階的に言えば、3年後に年間100万ギルダー、5年後に500万ギルダー、最終的には5,000万ギルダーの収益が必要」
会議室の空気が重くなった。
転生者たちは皆、その途方もない金額と現在の収益とのギャップを理解していた。まさに天と地ほどの差があった。
「5,000万ギルダーの収益?」
ウィルが息を呑んだ。
「そのためには、投資家に圧倒的な利益の可能性を示さないといけない」
シャルロットは他の転生者たちの顔を順に見つめる。
前世で数々の大型プロジェクトを成功させてきた銀行家として、技術者たちの知識こそが、この不可能を可能に変える唯一の鍵だと確信していたのだ。
「例えば蒸気機関の初歩的なもの、ハインリヒさんの知識を活用した画期的な製鉄技術……何か投資家に『これなら巨万の富を生む』と確信させる実演ができないかな?」
フレデリックは机に肘をつき、こめかみを押さえた。
頭の中では無数の技術的可能性が渦巻いているが、それらを短期間で実現可能な形にまとめ上げるのは容易ではない。
メートル原器や光学機器では学者は驚嘆するが、商人の財布を開かせるには力不足だった。
「蒸気力によるポンプなら……例えばゲーリケの真空実験やパパンの圧力鍋、そこからセイヴァリの初期の蒸気機関なら、現在の製鉄・加工技術でも製作可能だよ」
ハインリヒは前世での豊富な経験を基に、理想と現実のギャップを正確に把握しながら答えた。
当然、セイヴァリ機関に現代(21世紀)の知識と技術を加えて、パワーアップしたものを見せるのだ。事故を起こさないのも大事である。
そうやって、『すごい!』『金になる!』を実演すればいい。
「10人の労働者の仕事を木炭や泥炭で代替できれば、労働コストの劇的削減を実演できる。ただし設計から完成まで最低でも半年は必要だろうな」
「! ちょっと待って。木炭と泥炭? 森林資源は? 泥炭にしても燃焼効率が悪いんじゃないの?」
ハインリヒの言葉にヨハンが反応した。
「確かに。ただ石炭は……オランダにあったか?」
「……いや、確か……リンブルフのブルンスム! 20世紀だけど、あそこに炭鉱があるはず!」
フレデリックが断言した。
「おー! さっすが外交官。オランダの資源に関しては詳しいな」
実際には過去の、資源である。この時代では未来であるが、フレデリックが働いていた21世紀には閉山しているのだ。
「じゃあ……炭鉱を探して採掘して、同時に半年間の資金繋ぎが課題だね」
シャルロットは素早く頭の中で計算した。
半年という期間は投資家の関心を繋ぎ止めるには長すぎる。その間に資金が枯渇すれば、すべてが水の泡と化してしまう。
「それまでの間、どうやって投資家の関心と信頼を維持するか」
「塩事業の拡大が現実的だろうな」
シャルルは既に実績のある事業に目を向けた。ギルドとの協力体制も確立されており、生産量の増加は技術的にも政治的にも困難ではない。
「石けんの医学的効果は実証されつつあるけど、事業化にはまだ時間がいるぜ」
オットーは医学部での研究進捗を冷静に評価する。
衛生概念の普及という長期的な価値は認識しているが、短期的な収益源としては期待できない。
「確実な収益源である塩事業の拡大で投資家の信頼を構築して、その間に革新的な蒸気技術を完成させる。そして大規模実演で一気に投資を拡大する戦略で進める。そうするわ」
シャルロットの提案は、リスク管理と成長戦略を巧妙に組み合わせたものだった。
フレデリックは窓から、アカデミーの敷地を見渡した。
中央の管理棟を囲むように、各種工房や実験室、そして小規模ながらも農場と実験農地が広がっている。その周囲には、さらなる拡張のための空き地もあった。
建設中の蒸気実験棟では、既に基礎工事が始まっており、近い将来ここで産業革命の火蓋が切られることになる。(ゲーリケ・パパン・セイヴァリ等々)
「肝心なのは時間との勝負だ。技術的には可能、資金調達の道筋も見えた。残るは実行速度だけだ」
8人は互いに目を交わし、決意を新たにした。
それぞれの専門分野で蓄積してきた成果が、今ようやく一つの大きな目標に向かって進み始めている。
外では、見学者たちがメートル原器や拡大観測装置などの展示に驚嘆の声を上げていた。
特に若い職人や学生たちは興味津々で、説明員に質問を投げかけている。中には『あの建設中の建物で何を作るのか』と蒸気実験棟に注目する者もいた。
「思った以上の反響だな」
マウリッツが傍らの側近に言った。
「はい。特に若い世代からの関心が高いようです。それと、商人たちも熱心に説明を聞いています」
「それは良い兆候だ」
マウリッツは微笑んだ。
弟のフレデリックがなぜこのような知識を持っているのか、今も謎である。しかし、その知識が国の発展に貢献するなら、余計な詮索は不要だと考えていた。
遠くにはギルド長ヤン・ファン・ライスウェイクの姿もあり、複雑な表情でアカデミーを観察している。
技術独占がギルドの利益になると理解しつつも、変化の速さに戸惑いを隠せない。
私的アカデミーとは言え、事実上は公式である。
その公式の保護を受けた機関に対して、公然と反対することはできないが、内心では若手職人たちの『裏切り』への不満もあった。
さらに離れた場所では、一人の見知らぬ男が注意深くメモを取っている。
どの国の工作員かは不明だが、アカデミー設立に各国が関心を寄せていることは明らかである。
オラニエアカデミーの誕生は、様々な波紋を広げ始めていた。産業革命への歯車は、ゆっくりとだが確実に回り始めたのだ。
次回予告 第28話 (仮)『蒸気の実演』

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