第26話 『オラニエアカデミーの誕生』

 1591年4月15日(天正19年2月22日) オランダ ライデン~アムステルダム間

 春の陽光が低地を照らす午後、馬車が土ぼこりを上げながらライデン市を出て北東へと進んでいた。馬車の中にはフレデリックとマウリッツの姿があった。

「この辺りがいいだろう」

 マウリッツは窓から広がる平原を指さした。

 ライデンとアムステルダムの間、運河に面した一画は、かつてウィレム公が領地として保有していた土地だ。平らに開けており、両都市からの往来にも便利な位置にある。

「すばらしいところだね」

 フレデリックは目を輝かせて外を眺めた。

 運河を利用した物資輸送も可能で、広さも十分にある。頭の中にはすでに建物の配置や施設の設計図が浮かんでいた。

「正確には何ヘクタールあるのですか?」

「ヘクタール? 約30モルヘン(約25ヘクタール)だ。中心に管理棟と研究棟、周囲に工房や農地を配置できるだろう」

 マウリッツは得意げに答えた。フレデリックの顔を見て、彼はほほ笑む。

「弟ながら、お前の構想力には感心するよ。まだ7歳だというのに」

 フレデリックは口元に小さな笑みを浮かべた。

 マウリッツは彼の異常な知識や能力に関して、突っ込んで聞いたりはしない。それは兄弟間の暗黙の了解だった。

「では早速、設計に取りかかります。コンパスのみんなと相談して」

「コンパス? ああ、お前の秘密結社か」

 マウリッツはからかうように言った。

「秘密結社じゃありません! 科学者の集まりです」

 フレデリックは子供らしくほおを膨らませた。そんな姿をマウリッツは久しぶりに見た気がして、思わず声を上げて笑う。

 頭の中はおっさんなんだが、なんだか転生してから、知識は残っていても、それ以外は子供に近づいている気がする。子供が出たり、大人が出たりしているのだ。

「しかし、名称はどうする?」

「オラニエアカデミーです」

 フレデリックはすぐに答えた。すでに考えていたようだ。

「ふむ、悪くない。セバスチャン・セルリオの建築様式を取り入れると良いかもしれん」

「いえ、もっと実用的な設計が望ましいです。装飾よりも機能性を重視した建築を」

 マウリッツは驚いてわずかに目を見開いた。

 やはり普通の子供とは違うな……。

 そう思って弟の頭を優しくなでたのである。

「アカデミーの設立には、議会や各州の承認も必要になるだろう。ライデン大学との連携も、慎重に進めなければならない。特に、神学部からの反発は大きいだろうからな」

 マウリッツは、政治家としての現実的な懸念を口にする。

 ネーデルラント連邦共和国は各州の主権が強く、中央政府の権力は限定的だ。新しい機関の設立には、多くの根回しと合意形成が必要となる。

 だからこそ、私的なアカデミーなのだ。

「大学にはオットーとウィルのお父様が、それぞれ教授として在籍しています。協力を得られれば、アカデミーに対する学術界からの反発を抑えられるかもしれません」

 フレデリックは、コンパスの仲間たちの存在を思い出した。

 全員がそれぞれの分野で、保守的な勢力と戦っている。その戦いをより公的な場で進められれば、事態は大きく前進するはずだ。

「うむ。それは心強いな。ヤンには、アカデミー設立に向けた根回しを始めさせよう。必要な予算に関しても、シャルロットの商会と相談しながら、具体的な計画を立てる必要があるな」

 新しい技術と知識が生まれ、それがこの国を変えていく。そんな未来の光景が、ありありと目に浮かぶようだった。


 数日後、ライデンの廃屋に、5人の転生者が集まった。議題は、オラニエアカデミーの設立と、それぞれの担当分野での進捗報告である。

「アカデミーの場所は、兄上がライデンとアムステルダムの中間に決めてくれた。広さは約25ヘクタールだ。これから具体的な設計に入る」

 フレデリックがうれしそうに報告した。

 他の四人も、そのニュースに顔を輝かせる。アカデミーは、彼らの活動を公的なものとし、資金や人材の確保を容易にするだろう。

「すばらしい! これで、オレたちの研究も格段に進めやすくなる」

 オットーが興奮気味に言った。

「医学部だけでなく、化学や生物学の研究室も作れる。公衆衛生の研究も、アカデミーを拠点に進められるかな」

「農業部門も設立されるなら、私の研究も加速できる」

 シャルルがうなずいた。

 カルロス・クルシウスも協力してくれるだろう。

 現在進行形でジャガイモをはじめとした新種の農作物の研究を手伝ってくれている。彼にとってシャルルの知識は革命的らしい。

「モデル農場でのデータ収集と分析も、アカデミーの設備を使えれば、より効率的になる。品種改良や土壌改良の研究も、本格的に始められるだろう」

「私たち『暁の方舟商会』も、アカデミー設立に必要な資金の調達に全力を尽くすわ」

 私たち、とシャルロットは言ったが、実際はフレデリックが立ち上げた商会である。

 しかし、それはどうでもいい。

 事実、実際の運営はシャルロットが取り仕切っているのだから。

 名目上は父のシャルルが会長である。

 彼女は小さな体ながらも、頼もしい言葉を口にした。

「塩事業の収益は順調だし、砂糖事業も品種改良が進めば、さらに大きな収益が見込める。ヒマワリの油や石けん、ロウソクへの転用や、トウモロコシのお酒もある。アカデミーへの投資は、長期的に見れば必ず大きなリターンを生むはずよ」

「私の天文学と測量の研究も、アカデミーの天文台があれば、飛躍的に進むだろう」

 ウィルが続けた。

「精密な観測機器の製造も、アカデミーの工房を使えれば、より効率的に行える。新しい星図の作成や、航海術の向上にも、アカデミーが大きな役割を果たすはずだ」

 五人の転生者は、それぞれの専門分野で、アカデミーの設立に大きな期待を寄せていた。

 アカデミーは、彼らの知識と技術を結集し、このネーデルラントを、やがては世界を変えるための強力な拠点となるだろう。


 ■1591年4月25日(天正19年3月2日) モンモランシー領

「シャルル様、発芽しました!」

 若い農民のマティアスが興奮した声で叫んだ。シャルルは急いで畑に向かい、膝をつけて新しく芽を出したジャガイモの苗を観察する。

「見事だ……予想より早い」

 シャルルは満足げにうなずいた。横にはメモ帳を持った少女の姿がある。シャルロットだ。

「このペースなら、テストプロットも2週間で発芽するわね」

 シャルロットは冷静に記録を取りながら言った。

 シャルルは娘を見てほほ笑む。彼女の中に、61歳の銀行家の魂があるのを知っているのは、転生者である自分だけなのだ。

「ギルバート老はどう反応している?」

「相変わらず『悪魔の植物』と言って近づこうとしません。でも、若い農夫たちはこっそり見に来ています」

 シャルルの質問にマティアスが周囲を見回しながら答えた。確かに、遠くからは数人の若者たちが様子をうかがっている。

「彼らの関心が高まっているのは良い兆候だ」

 シャルルは立ち上がり、ポケットから手紙を取り出す。

「フレデリックから連絡が来た。オラニエアカデミーの設立が決まったようだ。私たちの農業実験も、そこで正式に行えるぞ」

 シャルロットは目を輝かせた。

「すごい! 投資計画も修正しなければ!」

 シャルルはそのままだが、年齢差のある転生者は言葉がギクシャクしている。

「マウリッツ公からの公式の保護があれば、ギルドからの干渉も少なくなるだろうな」

 経済的な利権を活用してうまく取り込み、そしてマウリッツの公的権力による呼びかけである。

 もっとも、マウリッツは封建君主ではない。

 ネーデルラントは各州の発言力が強く、なかでもホラント州は北部7州の税収の半数近くを担っていた。その支配下にある各種ギルドも同様なのである。

 各州と彼ら(ギルド等)を無視しては物事は進められない。

 シャルルは畑全体を見渡した。

 ジャガイモだけでなく、テンサイ、ヒマワリの苗床も準備されている。さらに奥では、新たな輪作システムの実験区画が広がっていた。

「農学部門の構想を練っておこう。組織図、人員配置、研究テーマ……」

「私たちだけでは足りないわ。他の転生者も探さないと」

 シャルロットの言葉に、シャルルはうなずいた。

「まあそうだな。ただ、呼びかけてもすぐに集まるわけじゃないだろう。気長に待つしかない」


 ■1591年4月29日(天正19年3月6日) ライデン大学 医学部

「これが証明です!」

 オットーは興奮した様子で、父であるヨハネスに実験結果を示した。
 
「3か月にわたる比較実験で、石けんで手を洗った外科医が担当した患者42例のうち、術後感染は3例。一方、通常の方法の医師が担当した患者40例では、術後感染が15例発生しています」

「これは……確かに顕著な差だな」

 ヨハネスは数字を見つめて言った。

 彼自身、息子の提案を最初は疑っていたが、結果は明白だったのである。

「父上、これはオラニエアカデミーでより大規模に研究すべきです」

「あのアカデミーか……うわさには聞いていたが」

 ヨハネスは息子の顔を見つめた。オットーは真剣な表情で続ける。

「フレデリックから正式な設立通知が来ました。医学と衛生学の部門を任されています」

「お前はまだ13歳だ。医学部の学生としてすら若すぎるのに、部門の責任者には……」

 オットーは言葉に詰まった。

 この時代の常識では確かにあり得ない。しかし、彼の中に宿る36歳の外科医の魂は、そんな常識に縛られてはいられなかった。

「名目上は父上を責任者として、私はその補佐の立場です」

 ヨハネスは深いため息をつく。

「息子よ……お前はいつから、こんな風に大人の考えができたのだ?」

 オットーは父の手を握った。

「それをお話しするには長い時間が必要です。ですが、私を信じてください。私たちがやろうとしていることは、多くの命を救うのです」

 ヨハネスは黙って息子を見つめたあと、ゆっくりとうなずいた。

「分かった。お前を信じよう。ただし、私も一緒にその研究を見届けたい」

「ありがとうございます、父上」

 オットーは安心した表情を見せ、実験台の上の拡大観察装置を指さした。

「これを使えば、傷口の治癒過程をより詳細に観察できます。そして、石けんがなぜ効果があるのかを解明する手がかりにもなるでしょう」

 ヨハネスは珍しい装置をのぞき込み、息をのんだ。

 彼の目の前には、肉眼では決して見えない微細な世界が広がっていたのである。


 次回予告 第27話 (仮)『オラニエアカデミーの誕生-その2-』

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