慶応三年五月七日(1867年6月9日) エコール・ポリテクニーク
フランスのパリ近郊、エソンヌ県パレゾーにそれはあった。
軍事省管轄の公立高等教育研究機関であり、フランスの技術の粋が集約されている。
「さて、君の見解はどうかな。日本、いや、大村藩の潜水艦と水雷艇。これ以外にも、我々の知らない技術を今回の万博で披露する可能性が高い」
海軍大佐のシメオン・ブルジョワは、潜水艦プロンジュールの共同設計者でもある一等技術者のシャルル・ブルンに問いかけている。
「どうでしょうね。私も、陛下の諮問会議の際は半信半疑でしたが、ローム氏やベルタンの発言が、まさか本当に実現しているとは。驚きです」
実際に技術の違いを目の当たりにし、その一部でも自らの物にしたい二人であったが、厳重な警戒の中、軽はずみな行動はとれなかったのだ。
「お二人とも、ここにいらっしゃったんですか。やっと見つけましたよ」
声をかけてきたのは造船技師のアンリ・デュピュイ・ド・ロームだ。例によって弟子のルイ=エミール・ベルタンを伴っている。
「ああ、これはムッシュ・ローム。どうしたんですか?」
四人のうち三人は、若干の年齢差はあるが同世代で、ベルタンのみ27歳であった。
「ええ、ちょっとうわさというか、内務省の警察治安部隊からの情報なんですが、日本の使節団一行に随行しているフランス人がいるらしいんです」
「何ですって?」
「……なるほど、それは気になりますね。一体誰なんです? 初耳です」
ブルンの驚きの声とほぼ同時にブルジョワも発言し、眉をひそめた。
「ええ、その少年なのですが、聞くところによると、相当な科学技術の知識を持っているみたいなんですよ。名前はジャン・フィリップ・デュポン。14歳の少年が、日本の使節団と行動を共にしているんです」
「信じられん……。あれだけ厳重に技術提示を拒んだムッシュ・オオタワが、なぜ子供を?」
ブルジョワの問いに対して、ロームはある可能性を提示する。
「なぜか、は分かりませんが、もう少し探ってみると、日本側の技術を垣間見られるかもしれませんよ」
「……そうですね。では、治安部隊の知人に話を通しておきましょう」
どんな手段を使っても大村藩の技術の一部でも知りたいフランスの技術者たちであった。
■翌日 万博会場
万博会場のシャン・ド・マルスでは、日本パビリオンの設営が最終段階を迎えていた。
ル・アーヴルから馬車隊によって運び込まれた展示物が次々と配置され、精密機器の調整が進められていたのだ。
パビリオンのおおよその準備は、お里をはじめとした先遣隊によって終了しており、現在は幕府と各藩、そして大村藩のブースに分かれている。
大村藩のブースは最も広く、軍事分野や技術分野、医療分野と細分化されていた。
幕府のブースより広かったが、それでも頭に『日本大君政府内大村太守政府』と掲げていたので全く問題はない。
あくまでも次郎は、日本国内の大村太守政府の体を崩さなかったのである。
各藩もそれに倣っている。
「兄上、円盤式蓄音機の設置が完了しました」
隼人の報告に、次郎は満足げにうなずく。
蓄音機の隣には、カメラと写真展示のコーナー、そしてガソリン自動車のモデルが配置されていた。グライダーも展示されていたが、それは模型である。
実演のためには広い場所が必要であった。
「兄上、グライダーの展示場所についてですが」
隼人が図面を広げながら次郎に報告する。
「そうか。静態展示はパビリオン内で問題ないが、実演となると会場内では不可能だったな」
グライダーの飛行実演は、日本の航空技術を示す重要な展示だが、シャン・ド・マルスは建物で埋め尽くされている。
「ブローニュの森では、予定どおり会場の整備をしております」
と廉之助が続いて報告した。
「パリ西部の広大な旧王室狩猟地で、ナポレオン三世陛下が整備した場所です。開けた空間があり、すでにフランス側からも実演場所として提案がありました」
いくつかの提案があったのだが、最終的にブローニュの森に決定した。
大村藩のグライダーは、信之介が設計した革新的な機体である。
単なるケイリー式グライダーの模倣ではなく、今後20~30年の航空技術の発展を先取りした構造を持っているのだ。
「他のグライダーにはない特徴が我々の強みなんだろう?」
次郎は展示説明用のパネルを確認しながら廉之助と隼人に言った。
「はい」
「そうか」
隼人と廉之助の報告に、次郎は満足げにうなずいた。
パビリオン内の特設スペースには、すでに大村藩のグライダーが部分的に展示されている。
■翌々日
「来場者の反応はどうだ?」
次郎が尋ねると、廉之助が熱心に説明を始めた。
「エコール・ポリテクニークの学生と関係技術者たちが特に関心を示しています。彼らによれば、我々の複葉構造は現在のヨーロッパにはないアプローチだそうです」
隼人が技術面を補足した。
「我々のグライダーは単なるケイリー式の模倣ではなく、三面制御方式を採用しています。特殊処理した竹と絹を組み合わせた骨組みは、欧州の木材とキャンバス構造より軽量でありながら強度も確保。また、翼断面の形状も特殊な曲線を採用し、より効率的な揚力を生み出します」
「お、おう……然様か」
次郎は専門的な説明には立ち入らず、展示の全体像の把握に専念している。
「我々の実験では、高さ8メートルの発進台からの滑空で、通常条件下では約100メートルの距離を飛行できます」
「風の条件によって飛行特性は大きく変わります」
廉之助、隼人、廉之助と順に説明していった。
こいつら、歳とっても変わらんな。
次郎の率直な感想である。
「グライダーにとって重要なのは、空気の流れに対する翼の動きです。微風または軽い向かい風は発進時の安定性を高めますが、強い向かい風では前進距離が短くなります。斜面上昇気流による滞空時間の延長がすでに実証されました」
「だから、分かりやすく説明してくれ」
隼人は模型を手に取り、『鳥が飛ぶときを思い浮かべてください』と始めた。
「鳥は風の流れを利用して効率的に飛行します。我々のグライダーも同様に、風の特性を理解し活用したおかげで、より良い飛行が可能になりました。実演では、安全に飛行できる最適な風条件を選びます」
ジャンは熱心に聞いていた。
「風が飛行を助けるんですね!」
「そのとおり」
と廉之助はほほ笑んだ。
「ブローニュの森での実演では、最も安定した飛行が期待できる朝の時間帯を選びました。それまでの気象観測データから、この時間帯は穏やかで安定した風の条件が期待できます」
「……え? ん、ああ。安全を最優先に」
次郎は念を押した。
すごいのは分かったのだが、二人でこうなのだから、もし信之介がいたら止まらないだろう。
これも、次郎の本音だ。
「無論です」
隼人が答えた。
「機体の強度については十分な試験を重ねており、操縦者の安全を確保しています。また、実演当日の風速が5メートルを超える場合は中止する規定も設けました」
いよいよ、明日から全てのブースで本格展示となる。
次回予告 第399話 (仮)『展示初日』

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