第397話 『パリへの道』

 慶応三年五月六日(1867年6月8日)フランス・セーヌ川・シュレーヌ

 ル・アーヴルから6月5日に出発した日本の遠征隊は、約340キロメートルのセーヌ川を遡上する航行の4日目を迎えていた。

 夜間の航行は危険なため、日の出から日没までの約12時間、平均4〜5ノット(約7.4〜9.3 km/h)で進んだのだ。

 夜は川岸に停泊して旅を続けている。

 最終日となる今日、彼らはパリ郊外のシュレーヌに停泊していた。




「おい」

「は」

「おい!」

「はっ」

「おいっ!」

「ははっ!」

「何でこの子がここにいるんだ?」

 少年とは、そう、先日『大鯨』を見学した少年である。

 4日目の朝、次郎たちは朝食をとるために付近のレストランに入っていたのだ。

 次郎と同席しているのは、お里と少年、隼人と彦次郎、そして廉之助。

「いいじゃないジロちゃん、ジャン君のおかげで安くておいしいお店で食べられたでしょ?」

 次郎は慣れていない訳ではないが、高級店は苦手である。

 前世からの癖なのか、今世も郷村給人から家老に出世したので、どちらかと言えば苦手なのだ。

 堅苦しいのが嫌なのである。

 ジャン・フィリップ・デュポン。

 それが少年の名前であった。

「……あー! !」

 突然、次郎の声が響き渡った。

「ちょっとジロちゃん。大声出したら迷惑よ」

「いかがなされたのです、兄上」

「すまん、いや、前世の記憶が……」

「はい?」

 お里以外は固まっている。

「いや、何でもない。すまん」

 ジャンはお里に懐いていた。

 お里も自分の息子を見るようで、かわいいのだろう。小さい頃の廉之助や隼人を重ねているのかもしれない。

 何せ前世は別人なのだから、今世では弟で年齢が近くても、感覚では子供と同じなのだ。

 結局、ジャンは大村藩の展示の手伝いをする名目で、期間中の同行を許されたのである。

 ジャンにしてみれば未知との遭遇であり、大村藩側としてもフランスの意外な一面が探れるかもしれない。




 朝食を終えた次郎は、コーヒーを飲みながら宿の窓からセーヌ川に係留された『大鯨』と『神雷』を眺めていた。

 これから約10キロメートル、パリ市内を通ってシャン・ド・マルスの万博会場まで進む、最後の行程となる。

「兄上、今日の予定を確かめてくだされ」

 隼人が地図を広げながら報告を始める。

「シュレーヌからシャン・ド・マルスまでは約10キロメートル。通常なら2時間ほどで航行可能ですが、パリ市内の橋の通過と沿岸の観衆への対応を考えると、倍の時間を見ておくべきでしょう」

 次郎はうなずいた。

「9時の出航で良いだろう。正午前には到着できるはずだ。早すぎると向こうの準備も整っていないかもしれない」

『大鯨』と『神雷』の艦長から昨夜の点検結果の報告が来た。

 両艦とも状態は良好で、最終航行に問題はない。展示物を積んだ馬車隊も、すでに出発準備を整えていた。

「御家老様、出発の前にシュレーヌの町長がご挨拶したいそうです」

「うむ、そうか」

 廉之助が伝える。

 日本隊の案内と手伝い役になったジャンも、興奮した様子で物色しながら作業している。

 もっとも、作業しながら物色しているのか、定かではない。

 次郎は転生してからこれまで、必ず上役をたててきた。今回の万博への参加に際しても同じである。

 自分に挨拶に来た者には、必ず純武や慶勝への訪問の有無を確認し、まだ訪問していない者には会わなかった。

 大村藩の実質的な代表は次郎でも、あくまで純武が立場は上であり、幕府の代表は慶勝なのである。

 シュレーヌの町長との簡単な会談の後、遠征隊は最終準備に取りかかった。

 町長からの情報で判明したのであるが、セーヌ川はイエナ橋付近で潮の影響で水位が変動する。

 そのため次郎は、通過時間に注意するよう指示を出したのだ。

『大鯨』と『神雷』の艦長たちとも最終打ち合わせをしている。

「パリ市内の橋は高さに注意が必要だ。特に、イエナ橋は水位次第で喫水調整が必要かもしれない。全て艦長の判断に任せる」

 両艦長はうなずき、それぞれの艦に戻っていった。嵐を生き抜いた彼らは経験豊かな船乗りであり、こうした状況に対応する十分な能力を持っていた。




「9時ちょうどに出航します」

 予定どおり、『大鯨』と『神雷』はシュレーヌの岸を離れた。

 同時に、展示物を積んだ馬車隊もセーヌ川沿いの道路を進み始める。シュレーヌの住民たちは川岸から大きな声援を送り、中には日章旗を振る人々もいた。

「パリまでの最後の行程です。全員、細心の注意を払え」

 次郎の指示に、二隻と馬車隊は応えた。

 シュレーヌを出発した一行は、朝の光に照らされたセーヌ川を進んでいく。

 セーヌ川のこの区間では、パリ市内に近づくにつれて風景が大きく変わっていった。

 郊外の静かなたたずまいから、次第に都市の喧騒けんそうが増し、川にかかる橋も頻繁に現れてくる。

 二隻は橋の下を通過する際に速度を落とし、慎重に航行した。

 次郎は馬車からイエナ橋を通過する『大鯨』を見守り、艦長は事前の打ち合わせどおり、吃水線上きっすいせんじょうの高さを下げ、橋をくぐり抜ける。

 続く『神雷』はまったく問題ない。

 難所を克服し安全に通過した両艦を、次郎は安堵あんどの表情で見送った。




 市内に入ると、セーヌ川の両岸に住民が集まり始めていた。珍しい形の日本の艦船に、驚きと興奮の声が上がる。

 特に、船体が水に沈んでいる『大鯨』は多くのパリジャンの注目を集めた。プロンジュールは就役しているが、一般人はほとんど知らないのだ。

「Qu’est-ce que c’est que ce navire?」

(あの船は一体何だ?)

 歓声と好奇の声が入り混じる中、艦隊はゆっくりと進む。写生帳を持った画家たちも見られ、この珍しい光景を描き留めようとしていた。

「ジャン、あの丘の上の建物は何だ?」

 次郎がセーヌ川左岸に見える建物を指差すと、ジャンは得意げに説明を始める。

「あれはトロカデロ宮殿。その真向かいの右岸がシャン・ド・マルスで、そこが万博会場です。もうすぐ到着します」

 パリの西部を通過していく艦隊の周りには、次第に見物人の数が増えていった。

 トロカデロの丘からは多くの市民が川を見下ろし、珍しい艦船の通過を見守っている。警備のためフランスの憲兵隊も出動し、秩序を保っていたのだ。

「馬車隊からの連絡です。群衆のため少し遅れているようですが、間もなくシャン・ド・マルスに到着できそうです」

 隼人の報告に次郎はうなずき、万博会場に面した特設桟橋へと向かった。




 桟橋には開陽丸の乗組員や日本使節団員が出迎えに集まっており、日章旗が風にはためいていた。

「艦長からの報告です。接岸の準備が整いました」

 隼人の言葉に、次郎は満足げにうなずく。4日間の川の旅を経て、ついにパリ到着を果たしたのだ。

 桟橋に降り立った次郎を、先に到着していた幕府や各藩の代表者が出迎えている。

蔵人くろうど殿、お待ちしておりました。先行した開陽丸の乗組員はすでに到着し、展示場の準備を進めております」

「ご苦労様です。展示物はいつから設置できますか?」

「明日から本格的に始められます。特に、『大鯨』と『神雷』の見学路については、フランス側と最終調整中です」

 次郎は特設されたセーヌ川の桟橋から万博会場を見上げた。

 シャン・ド・マルスの広大な敷地には、世界各国のパビリオンが建ち並び、多くの来場者でにぎわっている。

 その一角に日本パビリオンがあり、これから彼らの技術が世界に披露されるのだ。

「皆、ご苦労であった。これから展示の支度と参ろうではないか。世界に日本の力を見せる時が来たのだ」

 次郎の言葉に、全員が気を引き締める。

 長い航海と川の旅を経て、いよいよ大村藩が世界の舞台に立つ瞬間が訪れようとしていた。




 次回予告 第398話(仮)『万博会場での驚き』

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