第860話 『反転攻勢』

 慶長三年十二月二十九日(西暦1599年1月25日) 遼東 三萬衛

「よし、攻めるぞ! この機を逃すな」

 霧に覆われた草原を、てつく風が吹き抜けていった。

 夜明け前の空は、まだ暗く沈んでいる。

 何もなければ年の瀬である。大みそかに向けて準備している頃だ。

 しかし、戦時はそれどころではない。

 ヌルハチは馬上から戦場となる草原を見渡した。昨夜の斥候からの報告で、モンゴル連合軍の動きは完全に把握できている。

 兵糧不足に苦しむモンゴル軍は屯田村落を襲撃したが、ほとんど収穫を得られなかった。焦りから統制を欠き、各部族がばらばらに行動している。

「兄上、敵は我々の予想どおりの動きです」

 ヌルハチの同父母弟であるシュルハチが馬を寄せて報告する。

 満足げにうなずくヌルハチであったが、シュルハチとは表向きは円満でも、心を許してはいなかったのだ。

 今日、女真族はマンジュ国(満州国)を建国しているが、その過程で海西女真を併合し、東海女真を組み込んだ。

 シュルハチはその際に、降伏して従属を願い出たウラ王家と深い婚姻関係を結んでいる。

 結果的に女真族の力を強めたのだが、それがかえってシュルハチの名声や勢力を高めてしまったのだ。

 太陽は二つ要らない。

 結束は重要だが、新たな勢力を作ってはならないのだ。

 婚姻に関してもヌルハチが許可を出したわけではない。

 事後承諾を黙認してきたのである。

「各部隊に伝えよ。右翼のエイドゥはチャハル部、左翼のフュンドンはオルドス部を攻めよ。中央軍は私が率い、トゥメト部に突撃する」

 将兵たちの目が鋭く光った。守りに徹していた間、彼らは反撃の機会を待ち望んでいたのだ。

 霧の向こうから、敵陣の火の明かりが揺らめいて見える。夜襲の疲れから警戒が緩んでいるのだろう、のんびりとした気配が漂ってきた。

 ヌルハチは腰の太刀に手を掛けた。まだ抜くには早い。

 角笛の合図まで、わずかな時を待つ必要があった。

「全軍に告げよ。敵は疲弊している。一気に叩き潰す」

 側近たちが馬を返し、各部隊へと伝令に向かう。

 その背中を見送りながら、ヌルハチは思案を巡らせた。

 今回の戦いに勝利すれば、北方からの脅威は一時的に消える。そうなれば、全精力を明との戦いに注げるのだ。

 ……が、ヌルハチの頭には別の考えもよぎっていた。




 東の空がわずかに白み始めたとき、ヌルハチは角笛を吹かせた。

 とどろくような音が霧の中に響き渡る。

「全軍突撃!」

 ヌルハチの雄たけびと共に、女真軍が一斉に動き出した。整然と進む騎馬の隊列が、地鳴りのようなごう音を立てて突進する。

 混乱する敵陣のただ中、ヌルハチの視界に、動きの鈍い右翼部隊が映った。

 シュルハチ率いる部隊が、命じられた位置に進出していない。

「あれは何事だ!」

 ヌルハチの怒声が響く。

 敵の包囲網に隙が生まれつつあったのだ。

 チャハル部の兵たちが、その隙をついて脱出を始める。本来なら右翼部隊がふさぐべき退路が、大きく開いていた。

「シュルハチめ……!」

 ヌルハチは歯がみをした。

 中央軍の突撃で崩れかけていた敵の陣形が、徐々に立て直されていく。味方の犠牲が増えるのは目に見えていた。

「中央軍、右に旋回! 退路をふさげ!」

 とっさの判断で陣形を変更したものの、既に多くの敵兵が包囲網をすり抜けていた。




 戦闘が終わった頃、ヌルハチの前にシュルハチが呼び出された。

「説明せよ。なぜ命じられた位置に進出しなかったのか」

「兄上、申し上げます。敵の伏兵の気配がありました。慎重に……」

「黙れ! 公の場で兄上などと言うな! 公私混同などもっての外! 弟だからとオレが許すと思うのか!」

 ヌルハチの怒声が、テントに響き渡る。

「お前の優柔不断な判断で、多くの将兵が命を落とした。伏兵だと? 無論、とっさの判断は必要である。しかし、この平原の、見晴らしの良い戦場のどこに伏兵の気配があったのだ?」

「……申し訳ございません」

 ようやくシュルハチは口を開いた。しかし、その言葉に具体的な根拠はなかった。ヌルハチは失望の色を隠せない。

 生死をかけた戦場において、慎重さは重要である。

 しかし、慎重と臆病は全く違うのだ。

「戦場において曖昧な予感だけで兵を止めれば、どれだけ危険に陥るのか理解できないのか?」

 シュルハチはうつむいたまま答えない。

 見晴らしが良いとは言っても、全く隠れるところがないとは言えない。

 可能性はゼロではないのだ。

 しかし、確かな根拠がなければ、軽々に作戦を変更すべきではない。

「お前はもはや部隊を率いる資格はない。今後は兵権を剥奪はくだつする」

 厳しい処分だった。

 しかし、ヌルハチの心は決まっていた。戦いでは一瞬の躊躇ちゅうちょも許されない。指揮官としてふさわしくない者には、部隊は任せられないのだ。

「甘さは許さん。我らはこれからも明と戦い続ける。このような失態があれば、全てを失うのだぞ」

 シュルハチはグッと手を握りしめ、黙ったまま、深々と頭を下げる。

 彼の判断には理由があった。だがそれは結果として、より大きな犠牲を生む原因となったのだ。

「ハーン、処分が重すぎるのでは……」

 ホホリが進言するが、ヌルハチは首を振った。

「永久に剥奪するわけではない。どうもシュルハチは慎重すぎるきらいがある。往々にしてそれは臆病となり、兵の命を無駄に危険にさらすのだ」

 ヌルハチの厳しい処分の背景には、来たるべき明との決戦への強い覚悟があった。

 そこにはためらう余地など微塵みじんもなかったのである。

「さて、ホホリよ。ようやくモンゴルの脅威も去った。お前は登州へ向かい、明との和平交渉をまとめてはくれぬか」

「え? ハーン、和平ですか? これから登州へ戻り、明軍と一戦交えて取り戻すのでは?」

「ホホリよ、状況が変わったのだ」

 幕舎の中にはヌルハチとホホリの二人しかいない。

 他の将軍は戦勝祝いで酒盛りをしているのだ。

 時にはこうやって憂さ晴らしをしなければ、命をかけた戦争などできない。

「と、おっしゃいますと?」

「モンゴルは各部族がばらばらで、統制が取れていない。チャハルのブイグがまとめ上げたのかと思ったが、烏合うごうの衆であった。この状態では、次に連合軍を組もうとしても、まとまるには相当の時間がかかるだろう」

 ヌルハチは立ち上がり、テントの外を見る。酒宴の騒がしさからはさっきまでの血生臭さは感じられない。

「しかしハーン、それならば、今こそ明への反撃の好機では?」

「いや、逆だ。今の我らには休養が必要であろう。兵も疲れている。それに……」

 ヌルハチは話をいったん止めて、再びホホリに向き直った。

「登州での戦いは、既に我らに不利となっている。明軍は民までもが立ち上がり、その数は日に日に増えているのだ。ここで無理に戦えば、せっかく築いた拠点も失ってしまう。それに、今や寧夏の軍もない。明は登州に集中できる。われらが不利なのだ」

「しかし……」

「今はいったん手を引くのだ。我らは最後に明を滅ぼせば良い。明と和平を結び、その間にモンゴルを平定する」




「!」




 ホホリは言葉が出ない。

「後ろを恐れていては全力で戦えぬからな。後顧の憂いを断つのだ。今は英気を養って、まずはハルハ部。そしてウリャンカイ部、最後にチャハル部だ。まとまりのない部族を各個で滅ぼせば良い」

 確かにモンゴルの各部族の結束は弱く、今回の戦いでその実態が明らかになった。

 一度に相手にするより、個別に対処する方が賢明である。

「ではハーン、明との和平交渉の条件は?」

「条件などない。悪くとも登州は譲るが、沙門島は保持する。そこを拠点に海上交易をすれば、戦費の補填にもなろう。何より、明との和平は時間稼ぎに過ぎぬのだ。モンゴルを平定し、軍を整えた暁には、必ず明を討つ。それまでの辛抱じゃ」

 その言葉には、父と祖父を殺された恨みが込められていた。しかし、今はその感情を抑え、冷静に次の一手を考える必要がある。

「承知いたしました。では、明との和平交渉に向かいましょう」




 次回予告 第861話 (仮)『登州会談』

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