慶長三年十二月二十六日(西暦1599年1月22日) 遼東 三萬衛
「ハーン、このままでは山東は明軍に奪い返されてしまいますぞ!」
「分かっておる! しかし、今はこれが最善の策なのだ! くそう、チャハルのブイグめ、この機に攻め寄せてくるとは、やはり信用できん」
ヌルハチ、後にクンドゥレン・ハーンと呼ばれる男も、後金国の建国前であり、今はただのハーンであった。
「登州の防衛には兵を割けなかったが、蓬莱で守りを固め、補給も海路で行えば、そう簡単には落ちん。我らがここを守り抜き、逆にモンゴルへ攻め入れば、仮に登州を奪われたとしても得るものもあろう」
くそう!
時期尚早だったのか?
いや、万全の準備をしたはずだ。
寧夏とともに攻めれば、登州どころか青州を越え、山東省をすべて我が手にできたものを!
なぜ、この段階でモンゴルが攻めてくるのだ?
チャハルとは敵対していたが、他の部族とはつかず離れずの関係を保っておったではないか。
ブイグ単独の考えか? 寧夏の入れ知恵か?
いや、寧夏ではないな。この機にわれらが退いても寧夏に利はない。
ならば誰だ?
まさか……。
いや、今それを考えても仕方ない。
そもそも、われらが明を滅ぼすと考えている以上、肥前国の純正とは相いれない。
今は従っているが、純正とて神ではない。
永遠に栄えるものなどないのだ。
……今は目の前のモンゴルに集中しよう。
「では、いかがなさいますか」
「……このまま待つ。モンゴルも兵糧がなくなりかけている頃だ。それを待ってたたくぞ」
「はっ」
■モンゴル連合軍 幕舎
「一体どうなっておるのだ! ブイグ・ハーンよ! チャハル部が女真攻めの先頭に立ち、今ならば略奪し放題、奪うだけ奪えると言ったから話にのったのだ。この様はなんだ!」
モンゴル連合軍は、六部族の連合体である。
・チャハル部のブイグ・ハーン
・オルドス部のジョリクトゥ・セチェン・ハーン
・トゥメト部のボヤン・ハーン
・ヨンシエブ部のエンケダラ・ダイチン・ハーン
・ハルハ部のアバタイ・ハーン
・ウリャンカイ部のバトゥ・トグス・ハーン
序列はない。
したがって、名目上のリーダーはチャハル部のブイグであったが、統率を要求される集団での戦闘で戦果を得ることは珍しかった。
奪ったもの勝ちの戦いならまだしも、いわゆる『オレに指図するな』現象が多発したのだ。
女真の本隊が戻ってきた今、兵糧も乏しくなってきた状態では士気も落ちる一方である。
ジョリクトゥの声が幕舎に響き、他の族長たちも苛立ちを隠さない。
「我らの兵糧は残りわずかだ。奪えばよいと踏んで進軍したが、女真の防衛線は予想以上に堅い。焦るなと言いたいが、悠長に構えていれば飢えるのは我らだ!」
トゥメト部のボヤンが拳を握りながら声をあげ、ブイグをにらみつけている。
「このままでは士気も下がる。戦果もなく、腹も満たせぬままでは、部族の若者たちが持たぬぞ」
ハルハ部のアバタイが吐き捨てるようにつぶやくと、ヨンシエブ部のエンケダラは冷静に今後の策を告げる。
「夜襲して女真をたたくか、それとも退却か。どちらにせよ、決断の時だ。何か策はあるのか?」
エンケダラはブイグに向かって言い放ち、部族長全員の顔を見渡したのである。
「山の獣も、食うものがなければ谷へ下りる。無理に留まれば、群れごと滅びる」
ウリャンカイ部のバトゥは目をつむり、静かに、落ち着いて短く言った。
ブイグは全員の視線を受け、しばらく沈黙した後、静かに口を開く。
「兵糧が尽きる前に、何か手を打たねばならん。三萬衛の外には女真の屯田村落が点在している。守りも薄い。夜明けとともに手勢を分けて村落を襲い、穀物と家畜を奪う。これしか道はない」
重苦しい空気の中で、誰もすぐには口を開かなかった。
やがて、ジョリクトゥが低くうなる。
「動きが読まれれば、包囲されるぞ」
それでも、他に策はない。
ボヤンは発言せず、アバタイはじっと机の上を見つめている。
エンケダラは目を伏せたまま、静かにうなずいた。
外から斥候の足音が近づく。
幕舎の幕がめくられ、短い報告がもたらされた。
「女真の騎兵、北の林に」
全員が一斉に立ち上がり、ブイグは短く命じた。
「準備を急げ。夜明けまでに決着をつける」
誰も異議を唱えなかった。
幕舎を出る足音だけが、冷えた夜気に響く。
夜が白み始めたころ、北の林に向かって六百の騎兵が駆け出した。こちらは|撹乱《かくらん》で、残りの兵は屯田村落を目指して南へ向かう。
「敵襲!」
女真軍かモンゴル軍か、どちらが先に声をあげたのかは分からない。
接敵した両軍は戦闘に入るが、女真軍は斥候のために兵数は少なかった。それが理由だろう。すぐに撤退し、大きな戦闘には発展しなかったのだ。
両軍とも被害はほぼない。
しかし、この状況はすぐさまヌルハチのもとへ知らせられ、連合軍に動きがあることが露見したのだ。
一方、南方の各屯田村落では――。
「急げ急げ急げ! 燃やせ燃やせ燃やせ! 奪って奪い尽くすのだ!」
それぞれの族長に命じられるまま、部隊長の怒号が飛び交い、略奪が行われていた。
馬の手綱を引きながら走る者、穀倉の扉を乱暴にこじ開ける者、家畜を棒で追い立てる者。諸部族は訓練された猟犬のように、寸分の無駄もなく動いている。
しかし、村の男たちも何もしなかったわけではない。
襲撃の気配をいち早く察知し、家畜の柵を外して裏山の林へと追い込んでいたのだ。穀物蔵の扉は堅く閉ざされ、斧で何度も打ち付けても、内部はほとんど空であった。
「遅すぎたか……」
誰かが、息をのむようにつぶやいた。
次の瞬間、松明が放たれ、乾いたわらと板壁がたちまち業火に包まれる。黒煙は夜明け前の空に真っすぐ昇り、空を焦がしていった。
「くそっ……急げ、女真(じょしん)の援軍が来るぞ!」
怒声が飛び交い、略奪者たちはわずかに手にした俵と数頭の牛、羊を引き連れ、四方へ散っていく。
「分散して退け。深入りはするな」
号令のもと、各部族は雪の平野を縦横に散開し、白き大地を蹴って駆け去った。
■三萬衛
「何? 屯田村落が襲われただと! ? ……よし、いよいよヤツらは兵糧切れだ。この機を逃すな!」
ヌルハチは全軍に指令を出し、モンゴル連合軍に総攻撃を仕掛けたのである。守勢から攻勢に転じる際は、タイミングが重要である。
ヌルハチは、機を見るに敏であった。
次回予告 第860話 (仮)『反転攻勢』

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