第859話 『ブイグ・ハーンと後のクンドゥレン・ハーン』

 慶長三年十二月二十六日(西暦1599年1月22日) 遼東 三萬衛

「ハーン、このままでは山東は明軍に奪い返されてしまいますぞ!」

「分かっておる! しかし、今はこれが最善の策なのだ! くそう、チャハルのブイグめ、この機に攻め寄せてくるとは、やはり信用できん」

 ヌルハチ、後にクンドゥレン・ハーンと呼ばれる男も、後金国の建国前であり、今はただのハーンであった。

「登州の防衛には兵を割けなかったが、蓬莱ほうらいで守りを固め、補給も海路で行えば、そう簡単には落ちん。我らがここを守り抜き、逆にモンゴルへ攻め入れば、仮に登州を奪われたとしても得るものもあろう」




 くそう!

 時期尚早だったのか?

 いや、万全の準備をしたはずだ。

 寧夏とともに攻めれば、登州どころか青州を越え、山東省をすべて我が手にできたものを!

 なぜ、この段階でモンゴルが攻めてくるのだ?

 チャハルとは敵対していたが、他の部族とはつかず離れずの関係を保っておったではないか。

 ブイグ単独の考えか? 寧夏の入れ知恵か?

 いや、寧夏ではないな。この機にわれらが退いても寧夏に利はない。

 ならば誰だ?

 まさか……。

 いや、今それを考えても仕方ない。

 そもそも、われらが明を滅ぼすと考えている以上、肥前国の純正とは相いれない。

 今は従っているが、純正とて神ではない。

 永遠に栄えるものなどないのだ。

 ……今は目の前のモンゴルに集中しよう。




「では、いかがなさいますか」

「……このまま待つ。モンゴルも兵糧がなくなりかけている頃だ。それを待ってたたくぞ」

「はっ」




 ■モンゴル連合軍 幕舎

「一体どうなっておるのだ! ブイグ・ハーンよ! チャハル部が女真攻めの先頭に立ち、今ならば略奪し放題、奪うだけ奪えると言ったから話にのったのだ。この様はなんだ!」

 モンゴル連合軍は、六部族の連合体である。




 ・チャハル部のブイグ・ハーン

 ・オルドス部のジョリクトゥ・セチェン・ハーン

 ・トゥメト部のボヤン・ハーン

 ・ヨンシエブ部のエンケダラ・ダイチン・ハーン

 ・ハルハ部のアバタイ・ハーン

 ・ウリャンカイ部のバトゥ・トグス・ハーン




 序列はない。

 したがって、名目上のリーダーはチャハル部のブイグであったが、統率を要求される集団での戦闘で戦果を得ることは珍しかった。

 奪ったもの勝ちの戦いならまだしも、いわゆる『オレに指図するな』現象が多発したのだ。

 女真の本隊が戻ってきた今、兵糧も乏しくなってきた状態では士気も落ちる一方である。

 ジョリクトゥの声が幕舎に響き、他の族長たちも苛立ちを隠さない。

「我らの兵糧は残りわずかだ。奪えばよいと踏んで進軍したが、女真の防衛線は予想以上に堅い。焦るなと言いたいが、悠長に構えていれば飢えるのは我らだ!」

 トゥメト部のボヤンが拳を握りながら声をあげ、ブイグをにらみつけている。

「このままでは士気も下がる。戦果もなく、腹も満たせぬままでは、部族の若者たちが持たぬぞ」

 ハルハ部のアバタイが吐き捨てるようにつぶやくと、ヨンシエブ部のエンケダラは冷静に今後の策を告げる。

「夜襲して女真をたたくか、それとも退却か。どちらにせよ、決断の時だ。何か策はあるのか?」

 エンケダラはブイグに向かって言い放ち、部族長全員の顔を見渡したのである。

「山の獣も、食うものがなければ谷へ下りる。無理に留まれば、群れごと滅びる」

 ウリャンカイ部のバトゥは目をつむり、静かに、落ち着いて短く言った。

 ブイグは全員の視線を受け、しばらく沈黙した後、静かに口を開く。

「兵糧が尽きる前に、何か手を打たねばならん。三萬衛の外には女真の屯田村落が点在している。守りも薄い。夜明けとともに手勢を分けて村落を襲い、穀物と家畜を奪う。これしか道はない」

 重苦しい空気の中で、誰もすぐには口を開かなかった。

 やがて、ジョリクトゥが低くうなる。

「動きが読まれれば、包囲されるぞ」

 それでも、他に策はない。

 ボヤンは発言せず、アバタイはじっと机の上を見つめている。

 エンケダラは目を伏せたまま、静かにうなずいた。

 外から斥候の足音が近づく。

 幕舎の幕がめくられ、短い報告がもたらされた。

「女真の騎兵、北の林に」

 全員が一斉に立ち上がり、ブイグは短く命じた。

「準備を急げ。夜明けまでに決着をつける」

 誰も異議を唱えなかった。

 幕舎を出る足音だけが、冷えた夜気に響く。




 夜が白み始めたころ、北の林に向かって六百の騎兵が駆け出した。こちらは|撹乱《かくらん》で、残りの兵は屯田村落を目指して南へ向かう。

「敵襲!」

 女真軍かモンゴル軍か、どちらが先に声をあげたのかは分からない。

 接敵した両軍は戦闘に入るが、女真軍は斥候のために兵数は少なかった。それが理由だろう。すぐに撤退し、大きな戦闘には発展しなかったのだ。

 両軍とも被害はほぼない。

 しかし、この状況はすぐさまヌルハチのもとへ知らせられ、連合軍に動きがあることが露見したのだ。




 一方、南方の各屯田村落では――。

「急げ急げ急げ! 燃やせ燃やせ燃やせ! 奪って奪い尽くすのだ!」

 それぞれの族長に命じられるまま、部隊長の怒号が飛び交い、略奪が行われていた。

 馬の手綱を引きながら走る者、穀倉の扉を乱暴にこじ開ける者、家畜を棒で追い立てる者。諸部族は訓練された猟犬のように、寸分の無駄もなく動いている。

 しかし、村の男たちも何もしなかったわけではない。

 襲撃の気配をいち早く察知し、家畜の柵を外して裏山の林へと追い込んでいたのだ。穀物蔵の扉は堅く閉ざされ、斧で何度も打ち付けても、内部はほとんど空であった。

「遅すぎたか……」

 誰かが、息をのむようにつぶやいた。

 次の瞬間、松明たいまつが放たれ、乾いたわらと板壁がたちまち業火に包まれる。黒煙は夜明け前の空に真っすぐ昇り、空を焦がしていった。

「くそっ……急げ、女真(じょしん)の援軍が来るぞ!」

 怒声が飛び交い、略奪者たちはわずかに手にした俵と数頭の牛、羊を引き連れ、四方へ散っていく。

「分散して退け。深入りはするな」

 号令のもと、各部族は雪の平野を縦横に散開し、白き大地を蹴って駆け去った。




 ■三萬衛

「何? 屯田村落が襲われただと! ? ……よし、いよいよヤツらは兵糧切れだ。この機を逃すな!」

 ヌルハチは全軍に指令を出し、モンゴル連合軍に総攻撃を仕掛けたのである。守勢から攻勢に転じる際は、タイミングが重要である。

 ヌルハチは、機を見るに敏であった。




 次回予告 第860話 (仮)『反転攻勢』

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