第930話 『偽りの炭売り』

 慶長九年二月二十四日(1604年3月24日) ポルトガル王国 リスボン

 宰相クリストヴァン・デ・モウラによる強引な尋問は、3日目を迎えていた。

「閣下、これ以上の続行は困難です。皆、同じことしかしゃべりません」

 衛兵長が彼のそばに立ち、低い声で報告した。

 連れてこられた者たちは床に座り込み、疲れ切っていた。クリストヴァン自身も、ほとんど眠らずに尋問を続けていたが、得られたものは何もなかった。

 誰もが『知らない』『見ていない』と繰り返すばかりである。

 彼らは末端の人間であり、計画の中枢に関わっているはずがない。

 クリストヴァンも理解しているが、他に打つ手がなかった。尋問は犯人を特定するよりも、敵を揺さぶって何らかの綻びを生じさせるための賭けなのである。

 彼は壁に背を預け、静かに目を閉じた。

 視線の先では侍従の一人が小さく震えている。これ以上続けても、得られる答えはないだろう。恐怖は真実を語らせず、ただ沈黙を深くするだけだ。

「尋問は一旦打ち切る。全員をそれぞれの部屋に戻せ。ただし監視は怠るな。何者との接触も許さん」

 衛兵長は無言でうなずき、部下たちに指示を飛ばした。

 クリストヴァンは解放された者たちに背を向けて石の階段へ向かうが、疲労感は否めない。

 衛兵長が彼の背中に声をかける。

「閣下。この処置は、必ずや保守派の者たちに口実を与えましょう」

 宰相の強引な手法が敵を利するのを彼は恐れていた。

 クリストヴァンは足を止め、振り返らずに答える。

「構わん。くれてやれ。どのみち奴らは動く」

 彼はそのまま階段を上っていった。




 同じ頃、西棟にある国王の寝室は、外の騒がしさが届かない静寂に包まれていた。

 オットーとアエリウスは、セバスティアン1世の治療を続けている。国王の容態に大きな変化は見られない。アエリウスは海藻を煎じた薬湯を、スプーンで慎重に国王の口元へ運んだ。

 治療の合間に、オットーが低い声で話しかける。

「宰相のやり方は、ちょっと乱暴じゃないのか」

 アエリウスは国王の寝具を整えながら、静かに答えた。

「追い詰められているんだろう。我々が証拠を見つけられない限り、彼はああするしかない」

 宮殿の壁一枚を隔てた外の世界は、何も知らずに朝を迎えていた。

「でもあれじゃあ敵に内乱の口実を与えるだけだ。現に宮殿の空気は最悪になっている」

 オットーは言った。

 その言葉通り、改革派は政治的に確実に不利な状況へと追い込まれている。

 アエリウスは黙ってうなずいた。

「ええ。それに、我々の行動で敵は計画の露見を知った。必ず次の手を打ってくるだろうね」

「それに関しては何も言えないなあ。敵の証拠隠滅を防ぐために万全を期してもらって、あとはオレたち自身も身を守る。それだけだな」

 アエリウスは静かに首を縦に振った。




 ■慶長九年二月二十五日(1604年3月25日)

 宰相の執務室は重い沈黙に支配されていた。

 尋問打ち切りから1日が経過したが、事態は好転しない。打つ手もなく机上の空白の報告書を眺めていたその時、衛兵長が慌ただしく入室した。

「閣下、ご報告があります。監視下の侍従の一人が、新たな証言を」

 クリストヴァンは顔を上げた。

「何だ、申してみよ」

「薪を納入した炭売りの男の話し方が、妙に印象に残っていると。この辺りの者ではないなまりがあり、荷を降ろす間、ずっと小声で何かをつぶやいていたそうです」

 クリストヴァンの目に、久しく失われていた光が戻った。

 行き詰まった状況で得たあまりに些細な情報だが、今の彼には一筋の光明に思える。

 ワラにもすがる思いが、彼の判断を突き動かした。

「すぐにその炭売りの人相書きを作らせろ。市内の衛兵を総動員して該当する男を一人残らず探し出せ」

 宰相の命令に衛兵長は緊張した面持ちで敬礼し、素早く部屋を退出した。




 その報は、西棟で治療を続けるオットーたちの耳にも届いた。

 オットーは腕を組んで顔をしかめる。

「炭売りだって? なんで今ごろそんな都合の良い証言が出てくるんだ?」

 その疑問にアエリウスも静かに同意した。

「確かにタイミングが良すぎるな」

 アエリウスは国王の脈を確認しながら、慎重に言葉を選んで続ける。

「恐怖で口を閉ざしていたやつらが、急に重要な情報を思い出すとは考えにくい。むしろ、誰かに吹き込まれた可能性が高いんじゃないか」

「ああ、敵の罠かもしれないな。宰相が人手を割いて炭売りを探している間に、保守派は別の準備を進める。時間稼ぎの策略だ」

 オットーは窓の外を見つめているが、その推測は的を射ていた。

「宰相に伝えるべきか?」

「いや……伝えた方がいいと思うけど、聞き入れるかはわかんないな。ワラをもつかむって言うだろ?」

 オットーは振り返り、寝台の国王を見つめた。

「オレたちは治療に専念するしかない。陛下の回復こそが、この混乱を収める唯一の道だ」

「そうだな」




 医師の2人はやるべきことを続ける。




 一方、リスボンの市街地では、宰相の命令を受けた衛兵たちが慌ただしく動き回っていた。

 炭売りの人相書きを手にした兵士たちが、商店や市場を片っ端から回る。

 しかし、該当する人物の手がかりは一向に見つからない。

 市場の一角で、年老いた商人が衛兵に声をかけられた。

「この男を知らないか? 訛りのある炭売りだ」

 商人は人相書きを眺めながら首を振る。

「いや、知らないな。この辺りの炭売りは皆顔見知りだが、こんな男は知らん」

 同じ光景が市内各所で繰り返された。

 衛兵たちの捜索は徒労に終わり、日が傾く頃には疲労の色が濃くなっていく。宰相が期待した成果は得られず、貴重な人手と時間だけが消費されていった。




 ■慶長九年二月二十四日(1604年3月24日) 20:00 侍医長フォンセカの屋敷

 保守派の貴族たちが集まり、宰相の強引な捜査を糾弾する声が響く。

「クリストヴァンの暴挙は度を越している。無実の者を拘束して、今度は市中を騒がせて炭売りを探すとは」

 フォンセカは満足げにうなずく。

「まさに我らが待ち望んだ機会だ。宰相は自ら墓穴を掘っている」

 彼は声をひそめて続けた。

「地方の諸侯への密使は既に発った。宰相の暴政を知らせ、国王陛下をお救いするための義兵を求めている。必ずや我らに味方するはずだ」

「しかし、もし炭売りが見つかったら」

 貴族の一人が不安げに口を開いたが、フォンセカは冷笑を浮かべる。

「見つかるはずがない。存在しない男を探しているのだからな」

 その言葉に集まった貴族たちは安心した表情を浮かべた。

 フォンセカは立ち上がり、集まった全員を見渡す。

「宰相は必死に幻を追いかけている。その間に我らは着実に準備を進めるのだ」

 彼は振り返ると、声に確信を込めて続けた。

「地方の諸侯たちは必ず応じる。宰相の暴政に憤りを感じない者はいまい。数日のうちに各地から決起の知らせが届くはずだ」

 貴族の一人が身を乗り出す。

「では、我らはいつ動くのか?」

「焦らなくても、敵が自滅するのを待てばよいのだ」

 フォンセカは冷静に答えた。

 宮殿では宰相が空振りを続け、市中では衛兵たちが無駄な捜索に時間を費やしている。

 保守派にとってこれほど都合の良い展開はない。




 密会は深夜まで続き、参加者たちは満足げに屋敷を後にした。




 ■慶長九年二月二十六日(1604年3月26日) 夕刻 フォンセカの屋敷

 屋敷には、地方から戻った密使たちが次々と到着していた。

 最初に戻ったのは、北部の有力諸侯に派遣された密使である。

「ブラガンサ公爵家からの返答です。宰相の暴政に憤りを感じており、義兵1,000名の派遣を約束されました」

 フォンセカは満足げにうなずく。

「良い知らせだ。他はどうか」

「コインブラの領主も同様に500の兵を準備中です。ポルト近郊の3つの領主も、それぞれ200から300の兵を集めると」

 続いて南部からの密使も報告を始めた。

「エヴォラ地方の諸侯も呼応しております。特にベジャ公は宰相の強引な捜査を『王権への冒とく』と激しく非難し、800の精兵を率いてリスボンへ向かう準備を進めています」

 集まった保守派貴族たちの表情が明るくなる。予想以上の反応に、彼らの自信は確固たるものとなった。

「総勢はどの程度になる?」

 フォンセカが尋ねると、密使の1人が計算を始めた。
「現在確約を得た兵力は約3,000。まだ返答待ちの領主が十数名おりますので、最終的には5,000を超える可能性があります」

「素晴らしい。宰相の手勢など問題にならん」

 フォンセカは立ち上がり、窓の外のリスボンの街を見つめた。

「各領主には、1週間以内にリスボン近郊への集結を要請せよ。名目は『国王陛下の救出』だ。宰相の暴政から陛下をお守りする大義名分があれば、民衆も我らに味方するだろう」

 密使たちは再び各地へ向けて出発の準備を始めた。

 ポルトガル全土で、保守派による反乱の炎が静かに燃え上がろうとしていた。




 次回予告 第931話 『義兵5,000の結集』

 宰相クリストヴァンは3日間の尋問を打ち切るが、監視下の侍従から『訛りのある炭売り』の証言を得て市中捜索を命じる。

 オットーたちはこれを敵の時間稼ぎの罠と推測。

 一方、保守派は地方諸侯へ密使を派遣し、各地から総勢5,000を超える義兵の結集約束を取り付け、反乱準備を着実に進める。

 次回、反乱軍の行方と改革派の対処は? 日本とポルトガルはどうする?

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