慶応四年九月四日 夜半 京都 京都守護職屋敷
「……近藤、土方をここへ」
執務室の静寂を破ったのは、松平容保の低くしぼり出すような声だった。
近習が息をのんで退出すると、部屋は再び沈黙に包まれる。燭台の炎が揺れ、机の前に座っている容保の顔に深い影を落とした。
昼間の二条城での出来事が、何度も脳裏をよぎる。
純顕の穏やかだが揺るぎない声。
『議会の定めし儀は絵に描いた餅となり、その権威、失墜なさるは必定』
その指摘は、容保の胸の最も痛い部分を的確にえぐっていた。
忠義のあまり、足元が見えていなかったのではないか。
自責の念が容保の表情を硬くさせる。
やがて、廊下に2つの足音が響いた。
新選組局長・近藤勇と副長・土方歳三である。
2人とも用件はおおよそ見当がついた。
2人は容保の声に応じて部屋に入り、平伏して待つ。
「面を上げよ」
2人が恐る恐る顔を上げると、容保は責めるでもなく、ただ静かな、どこか悲しんだ眼差しで彼らを見つめていた。
「此度の事、お主たちの徳川家と余に対する忠義の心から出たものであると分かっている。その忠義、嬉しく思うぞ」
予期せぬ言葉に近藤は思わず声を震わせた。
「はっ……もったいのうございます」
|叱責《しっせき》を覚悟していた身に主君からの労いの言葉は、凍てついた心を溶かす温水のように染み渡ったのだ。
「然れど、忠義の使い道を違えたな」
声の調子は変わらないが、切れ味の鋭い刀のような厳しさがある。
「議会での決定を無体(無視)とし、力で押さえつけようとした事。果てには(結果的に)徳川の権を傷つける行いである。お主たちが望んだ事ではあるまい」
「……面目もございません」
近藤が声をしぼり出した。
容保は2人から視線を外してふうっと息を吐く。自らを省みるための深い呼吸のようだ。
「いや……お主たちだけを責めるのは酷やもしれぬ。余自身が、徳川宗家への忠義に心を奪われるあまり、視野が狭くなっていた。守護職として京の安寧を守る務めよりも、目の前の不逞の輩を断罪する事に心が囚われていたのだ。それではならぬ」
主君が家臣の前で自身の不明を吐露する。
その清廉さに近藤と土方は衝撃を受けた。
過ちを認めて己を省みる。これこそが自分たちが命を賭して仕えるべき主君の姿であった。2人の胸に改めて熱い忠誠の念がこみ上げてくる。
「今後は、軽挙妄動は慎む。お主たちも余の真意をくんでくれるか」
「ははっ!」
2人は再び畳に額をこすりつけんばかりに頭を下げた。命令への服従ではない。心からの敬服と忠誠の証であった。
彼らが退出した後、容保は筆を取り、迷いなく書状をしたためる。
為すべきことは今や明確だった。
「この文面を、直ちに屋敷の門前と藩邸、および京の主なる辻に掲げて示せ。夜明けを待たなくともよい。すぐにかかれ」
その夜のうちに京の市中各所に高札が立てられた。
『言路洞開』
計らずも22年前、純顕が藩主になって掲げた政策と同じであり、容保が己の信条と責任の全てを賭けた、誠実さの表明であった。
■翌慶応四年九月五日 夕刻 長州藩邸
「……守護職も存外に人が良いのか、あるいは我らの想像を超える策士なのか。分かりませんな」
藩邸の一室で久坂玄瑞が杯を傾けながら、複雑な表情を浮かべてつぶやいた。
早朝には布告通りに解放された藩士たちが続々と帰還し、藩邸内は昨日までの重苦しい空気が嘘のように、安堵と驚きの声に満ちている。
「いずれにせよ、これで若者たちの暴発は防げた。丹後守様(純顕)には、返せぬほどの大きな借りができたな」
周布政之助はそう言って杯を干したが、眉間のシワは消えない。
彼は縁側から外の様子をうかがった。
解放感に駆られた数名の若い藩士たちが、『今宵は祝い酒だ』と息巻いて、連れ立って藩邸の門を出ていくのが見える。
「おい、お主たち。あまり羽目を外すでないぞ」
「ははっ」
返事は聞こえたが、藩士たちがしっかりと理解しているかは分からない。
その背中を見送りながら、久坂は言いようのない不安を感じていた。
京の街にはまだ憎悪の火種がくすぶっている。あまりに無防備な彼らが、その火種に触れてしまわないだろうか。
悪い予感だけが酒の味を苦くしていた。
■同日の夜 三条小橋 料亭『升屋』
料亭『升屋』の2階奥の間は、熱気に満ちていた。
長州藩士たちの座敷からは、昨日までの鬱憤を晴らす高らかな笑い声が響き渡る。
「それにしても、まさか生きて酒が飲めるとは思うとらなんだ! 地獄から生き還った気分じゃ!」
「聞いたか、守護職が『言いたい事がある者は直に来い』だとよ。はっ、丹後守様に灸を据えられて、急に日和見しおって!」
「まあ、堅い話は抜きじゃ! 今宵は飲もうぞ! 見廻組だか新選組だか知らんが、我らが長州の男の飲みっぷりを見せてやろうぞ!」
「おのれ、言わせておけば……」
一方で、廊下を挟んだ表の間は、対照的に陰鬱な空気に支配されていた。非番の京都見廻組の隊士たちが苦々しい顔で酒を飲んでいたのである。
「止めておけ! 守護職様からの厳命ぞ。軽挙妄動は厳に慎めとのお達しではないか」
「ぐ……。然れど……」
口々に不満を吐きながらのやけ酒である。
最初は静かに飲んでいた見廻組の隊士たちだが、長州藩士のどんちゃん騒ぎには我慢ができない。
やがて1人の隊士がすっと立ち上がり、奥の間へ行こうとした。
「おい、何処へ行くのだ?」
「厠だ」
「厠? 厠はそこの階段を降りた中庭ではないか」
「ふん、まあ、階段は奥の間にもあるだろう? 犬どもの馬鹿面を拝んで小便でもしようかと思ってな」
「然様か。ではオレも行こう」
隊士が表の間から奥の間への廊下を渡り、騒いでいる長州藩士たちを|一瞥《いちべつ》する。
「ふん」
そこへ2人の長州藩士(らしき男たち)が姿を現した。
わざとらしくよろめいて、刀の鞘を見廻組隊士の鞘に強く当ててきたのである。
「無礼者!」
鞘を当てられた隊士が怒鳴った。
「おっと、これは失敬。道が狭いものでな」
男らは悪びれもせず、挑発的に笑う。
「貴様、長州の犬か! その言い方は何だ!」
「ほう、犬に鞘を当てられた気分は如何だ?」
侮辱的な言葉に見廻組の隊士は完全に理性を失った。
「抜刀しろ! ここで死ね!」
見廻組の男が先に刀を抜いた。
それを見て、相手は待っていましたとばかりに刀を抜き放つ。
「やむを得んな!」
長州藩士(らしき者)は防戦を装いながら2~3合派手に斬り結び、そのたびに甲高い金属音が店内に響き渡った。他の客が悲鳴を上げる。
「何事だ!」
「如何した!」
酒を飲んで盛り上がってはいたが、長州藩士も見廻組も斬りあいの音に気づかないわけがない。
「覚えておれよ!」
騒ぎが大きくなったのを見計らって、1人が見廻組の腕を浅く切りつけて血を流させた。捨て台詞を残し、2人は店の裏口から夜の闇へと逃げようとする。
「逃がすか!」
激高した他の見廻組の隊士たちも血相を変えて後を追う。料亭の階段を駆け下りて表に飛び出した、まさにその時だった。
角を曲がった先から、酒で顔を赤らめた別の長州藩士の一団が千鳥足で歩いてきたのである。
正面から衝突した。
「うおっ! 危ないではないか!」
ぶつかった衝撃でよろめいた長州藩士が、悪態をついた。
見廻組の隊士たちは、逃げた浪人たちの仲間が目の前に現れたと完全に誤認したのだ。怒りの矛先は即座に彼らに向けられる。
「……いたぞ! こいつらも仲間だ!」
「何の事だ?」
きょとんとする長州藩士たちに、見廻組の隊士の口から決定的な一言が放たれた。
「けっ! 田舎侍が!」
その言葉は、長州藩士たちの心の奥底にある触れてはならない琴線に触れた。
「……何だと! ?」
「仲間を斬りつけて逃げた上、しらばっくれる気か! 身の程知らずの田舎侍どもが!」
次の瞬間、両者の刀が交わる音はほぼ同時だった。
「貴様らこそ!」
「ここで会ったが百年目!」
もはや、誰にも止められない。料亭の玄関先で始まった斬り合いは、またたく間に双方の仲間を巻き込み、血で血を洗う惨劇へと発展した。
「大変です! 三条の升屋で、長州と見廻組が斬り合いを!」
「何! ?」
土方率いる一隊が付近を巡回中だったのが幸いした。
新選組の屯所のある西本願寺までは約3.6km。
料亭の給仕が走って知らせに行ったのだが、もし屯所にいたのなら、少なくとも20~30分はかかっただろう。
歩くと1時間弱の距離なのだ。
そこから現場に急行するまでに同じ時間がかかるとして、到着したときにはすでに終わっていたかもしれない。
報告を聞いた土方歳三は、昨夜の容保の顔を思い出しながら厳しい声で命じた。
「総員走れ! 急ぐのだ!」
現場に急行した土方は、血の匂いが充満する惨状を前に感情を押し殺して叫んだ。
「そこまでだ! 動くな!」
「浪人どもが何の用だ!」
見廻組からの反発にも土方は冷静に対応する。
「守護職様からの命によりこの場を鎮める。我らに他意はない。もちろん、含むところもな」
「寝ぼけた事を申すな! 我らが何ゆえお主らの指図を受けねばならんのだ!」
同じ守護職下の警察組織でも、新選組と見廻組の仲は良好とは言いがたかった。
「馬鹿か! 当人(当事者)が如何にして当人を裁くのだ! 他意も含むところもないと申しておろうが!」
私情を挟まぬ土方の宣言に、双方とも刀を収めるしかなかった。
新選組は驚くほど公平に双方を取り押さえ、負傷者を大村藩京都病院へと搬送させたのである。
「なんと言う事だ……」
周布と久坂の2人は言葉を失った。
次回予告 第450話 (仮)『沙汰と黒幕』

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