慶応四年四月十七日(1868年5月9日)夜 御所内 小御所
慶喜が提示した石高に応じた票数配分案は、小御所内の空気を再び動かした。
親藩・譜代と外様の票数が拮抗し、公家衆が加わる。
一見すると数の不公平を解消する現実的な妥協案に見えたが、諸藩の代表たちは、それぞれの胸中で即座に計算を始めたのである。
「中納言様の御考え、一見公平に聞こえまするが、然りとて高(石高)は、真に藩の力を示しているのでしょうか」
異を唱えたのは、久光ではなく忠義であった。
久光は言いたいことが山程あったが、それよりも彼に向けられる静かなる蔑視に耐えられなかったのである。
久光は前藩主の斉彬の弟として鹿児島で生まれ育った。
そのためにかなり強い鹿児島訛りがある。
コンプレックスを感じていたのだ。
次郎はもちろん純顕も、同じ九州で肥前なのだから久光の気持ちは理解できる。しかし次郎は転生した現代人であり、強い長崎弁は出ない。
また純顕も幼少期から江戸住まいが長かったために、さほど訛りがなかった。
忠義は単なる票の数ではなく、基準となっている石高そのものに視線を向けている。
薩摩藩は琉球との密貿易や砂糖の専売によって、表高以上の実収を得ていた。
実態が石高制では正当に評価されないことへの不満が、彼の言葉の根底にはあるのだろう。しかし、密貿易の実態など公表できるわけがない。
「ほう、薩摩殿は、高での割り振りに異があると仰せか。然らば何をもって国の力と計るのが公平なりや」
慶喜は忠義の問いかけを待っていたのか、穏やかに問い返す。
議論の主導権を握りながら、相手に具体的な対案を求める。それが彼の戦術であった。忠義は、具体的な算出方法までは持ち合わせておらず、言葉に詰まる。
その時、これまで静観を守っていた純顕が再び口を開いた。
「中納言様。薩摩殿の仰る事、それがしにも思うところがございます」
一同の視線が純顕に集まる。純顕は慶喜の顔をまっすぐに見据えて続けた。
「高は、確かにこれまで国の礎となってまいりました。然れど、それは米を第一とする世のならい。今の日の本を動かしておりますは、米に非ずして金ではございませんか」
純顕の言葉は、その場にいた者たちに新しい視点を与えた。
諸外国との交易と軍艦や兵器の購入、そして国内のインフラ整備。全てが、米ではなく金によって動いている。
それは誰もが肌で感じている事実であった。
「すなわち、高に加え各藩が産する鉄や銅、あるいは異国との商いによって得る富。然様な経済の規模こそ、今の藩の力を示す、今一つの物差しとなるのではないでしょうか」
経済規模。
その言葉は藩の力を示す新たな基準として、抗いがたい説得力を持っていた。
この基準を加味すれば、商業や工業に力を入れている藩の発言力は増す。薩摩や長州も、そして何より大村藩もその恩恵を大きく受けるのだ。
慶喜の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。これもまた、彼の想定の範囲内であった。
「なるほど、経済規模とな。丹後守殿の仰せの儀は、理に適っておる。然れどその経済規模、如何にして正しく計るのか。各藩が己に利するよう、偽りの報せを出すやもしれぬ。然すればかえって公平に非ずして、混乱を招くのではないか」
慶喜の指摘はもっともであった。
各藩の歳入を正確に、そして公平に監査する仕組みなど、今の日本には存在しない。煩雑さと不正のリスクを考えれば、即座に導入するのは非現実的であった。
「仰せの通りにございます。正しき算出には、多くの時を要しましょう。不正を防ぐ仕組みも要るゆえ、今すぐ致すは難し事。故にまずは中納言様の考えにて貴族院を立ち上げ、その上で時をかけ、皆が得心する形で議席の数を考える。これではいかがでしょうか」
純顕の提案は、慶喜の現実論を受け入れつつ、自らの主張を将来的な約束として確保する巧みな妥協案であった。
これには、慶喜も正面から反対する理由がない。
議会の設立そのものには、もはや誰もが賛成している。まずは始めることが重要であった。
「……よろしかろう。丹後守殿の案、理がある。まずは高によって票を分けた貴族院を設け、経済規模については、今後議会で議論していく事と致そうぞ」
慶喜はそう宣言した。
王政復古はそもそも論であるし、大政奉還は幕府に非がない限り苦しい理論である。
いずれにしても政治の空白を生んでしまうのだ。
議会の基本的な枠組みが、この場でようやく合意に至ったのである。
だが、純顕はさらに一歩踏み込んだ提案をした。新しい議会をどう機能させるかという、本質的な問いである。
「中納言様、議会の形は定まりました。然れど、このままでは二百七十余の意見が乱立するばかり。そこで、今一つ案がございます。議会の中で考えを同じくする者たちが集い、『政党』なるものを結成しては如何でしょう」
「政党?」
聞き慣れない言葉に、慶喜が問い返す。
「は。例えば、幕府の政に同じる(同意する)方々が集い『幕府党』を名乗る。あるいは、薩摩の考えに|与《くみ》する者たちが『薩摩党』を名乗る。それぞれの党が、目指す国の形、すなわち『党是』を天下に明らかにするのです」
純顕の構想は、議会内の意思決定を円滑にするための、近代的な仕組みであった。
「党是に同ずる藩が党に所属し、議案は党として発議致します。所属議員は原則その決定に従いますが、離党や入党、党に入らずとも良しとします。これにより各藩の考えが明らかとなり、議会の議論もまとまりやすくなる故、真の公平に繋がる道と考えます」
この提案は、慶喜にとっても魅力的であった。
親藩・譜代をまとめ上げ、強力な『公儀党』を結成すれば良いのである。
議会の主導権を確実に握れるのだ。
薩長も自らの党を組織し、政策を競うだろう。
それは武力ではなく、言論による健全な政争の始まりを意味していた。
「では……」
慶喜が提案を受け入れようと口を開きかけた、その瞬間だった。
「申し上げます! 申し上げます!」
小御所の障子の向こうから切迫した声が響いた。
許しを待たずに転がり込んできたのは、京都市中を預かる所司代配下の武士であった。顔は蒼白で、息は激しく乱れている。
「何事であらしゃいますか、ふたふたしい(騒々しい)!」
関白・二条斉敬が咎めるが、武士は構わず叫んだ。
「い、一大事にございます! ただ今、洛中各所にて火の手が上がりました!」
その一報に、場にいた全員が息をのんだ。
「何! ? 真か? 火元は何処か!」
慶喜が鋭く問う。
「それが……一所ではございませぬ! 禁裏御守衛総督府の屯所、会津様、桑名様の藩邸近く、さらには薩摩様、長州様の藩邸からも火の手が! 加えて、中川宮様、三条様の御屋敷も……!」
報告された火元は、あまりに意図的であった。
佐幕派、尊皇派、その両方の拠点を狙った、同時多発的な放火である。
小御所会議を|嘲笑《あざ》い、京を混乱の渦に陥れようとする、何者かの明確な意志の表れなのだろうか。
「狼藉者の仕業か! 総督府ならびに守護職、所司代の全てに伝えよ! 全力を以て即刻消火に当たり、下手人を探すのだ!」
慶喜は禁裏御守衛総督として即座に指示を飛ばす。対応は迅速であった。
しかし同時に、薩摩や長州、そして公家たちの間に疑念の空気が広がるのは止められない。
なぜ、このタイミングで?
なぜ、自分たちの屋敷が狙われるのか?
これは、京の警備を担う幕府の失態ではないのか?
あるいは、自分たちを陥れるための幕府の策謀ではないのか?
小御所会議でようやく見えかけた新しい国の形は、洛中に立ち上る黒煙のごとく、不吉で、不確かなものへと変わっていった。
次回予告 第435話 (仮)『黒煙の都』

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