慶長四年七月二十五日(西暦1599年9月14日)
「暑い、暑い……今年は残暑が厳しいのではないか」
大陸では女真とモンゴルの争いが激化するなか、純正は諫早城の居室で、うちわをあおぎながら愚痴を言っていた。
それでも、諫早城内では各所に蒸気機関を動力とした冷風機を複数設置している。
氷を置いた大きな木おけの前に、蒸気機関で駆動する扇風機を配置した装置が涼風を送っていたのだ。
「早く忠右衛門と源五郎の発電機が完成してほしいな。そうすれば蒸気機関のように場所をとらないし、もっと涼しくなる」
「殿下、ネーデルラント・イギリス・フランスに派遣した使節が帰ってきたよしにございます」
「うむ、通せ」
オランダ・イギリス・フランスの3国の使者は、4年前の文禄四年にほぼ同時に来日し、純正に謁見して国交を申し出ていたのだ。
純正にとっては断る理由もなく、特に気にもせずに歓待した。
肥前国の技術を披露したうえで、国交を許可したのである。
その後、各国の使者はそれぞれの国に帰って報告をしたに違いない。
純正は日程を調整して約1年後に正式な使節を3か国に派遣した。
各国に滞在して、十分に国情を把握した後、同時期に戻るよう命じていたのである。
ポルトガルはオランダやイギリス、フランスの航行に協力したのだろうか?
内政干渉になるので、純正からはあえてセバスティアン1世に知らせていない。肥前国領土での補給には協力しているはずだが、ポルトガルも同様に協力したのだろうか。
しばらくして、それぞれの国に派遣した正使の3名が居室に通される。
「よくぞ戻った。大儀である。それぞれの旅路、大変であったろう」
純正が座るよう促すと、3人の使者はそろって深々と頭を下げた。
「はい、殿下。無事に戻りました」
純正の目の前には中浦ジュリアン(小佐々甚吾・ネーデルラント)と伊東マンショ(フランス)、千々石ミゲル(イギリス)である。
ジュリアンの横には補佐で同行した原マルチノもいた。
彼らはそれぞれに旅装を解き、勧められるままに席に着いた。冷たい麦茶が出されると、3人は渇いた喉を潤し、一気に飲み干す。
「して、それぞれの国情、いかがであった?」
純正は扇子を手に持ち、静かに問いかけた。
「ネーデルラントにおいては、イスパニアとの間で休戦協定が結ばれております。イスパニアは認めておりませぬが、実のところは、独立を勝ち取ったと言えるでしょう。また、その過程で、一時は分裂の危機にあったネーデルラントですが、南北十七州が連邦をなしております」
「何?」
これまでも純正は、情報省からの報告と駐ポルトガル大使の松浦親の報告により、オランダの情報を得ていた。
そこでもオランダの事実上の独立と、南北十七州の統一の報告があったのである。
「ふむ……。フランスはいかがだ?」
純正はネーデルラントの事実上の独立と、南北十七州の統一の報告に驚きを隠せなかった。
それは、彼の知る歴史とは異なる展開だったからである。
明の弱体化や、自身の技術革新による世界の変容は予期していたが、ヨーロッパにも影響が出ているとは。
「フランスは、ユグノー戦争を経て、アンリ四世陛下のもと、国内の安定が進んでおります。プロテスタントへの親和政策により、かつての混乱はほぼ沈静化しております」
マンショは穏やかな口調で、フランスの状況を説明した。
報告によると、10年も前にフランス王位をアンリ4世が継ぎ、ナントの勅令を発してスペインに宣戦布告しているという……。
純正が知っている歴史では、スペインへの宣戦布告が4年前の1595年であり、昨年の1598年のナントの勅令で、終戦となるのだ。
やはり、もう1人の転生者の影響があるのだろうか?
「ジュリアン、いや、甚吾よ。ネーデルラントにフレデリックという人物はいたか?」
いるのは当然だが、純正はあえて聞いたのだ。
「フレデリック、でございますか?」
ジュリアンは首をかしげる。
「ネーデルラントの総督、マウリッツ殿下の弟君にございますが、何か?」
純正の問いかけに、ジュリアンは不思議そうな顔をする。知っている人物だが、純正がなぜその名を出すのか、その意図が読めない。
「やはり」
純正は安心とも驚きともつかない表情を浮かべたが、そのまま続ける。
「そのフレデリック殿下は、いかなる御仁であった? 何か変わったところは?」
ジュリアンの報告によると、フレデリックは聡明らしい。
同世代の若者とは一線を画した行動が多いようで、外交分野で突出した提案をしていたようである。
しかし、純正が知りたいのはそこではない。
「変わったところでございますか……。確か……外交だけでなく、精密機械工学・理工学分野にたけていたようです」
ジュリアンは記憶をたどりながら話し始めた。
「特に、物事を数値で捉え、その標準化に強き関心をお持ちのようでした。長さや重さ、時間の単位などを統一しようと、熱心に研究されておられたようです。しかし、これは数年前。10年近く前のことでございます」
10年前?
純正が目を大きく見開いた。メートル法とクロノメーターの開発。やはり間違いない。
「それだけではございません。奇妙な機械の絵図面を片手に、熱心に実験を繰り返している話も聞き及んでおります」
「奇妙な機械とは?」
「はい。金属の棒と線を使って、なんでも、遠く離れた場所に時を経ずして言葉を伝えるそうでございます……」
ジュリアンの言葉を聞きながら、純正は思わず拳を握りしめた。
電信である。
彼もまた、電信の研究をしていたのか。
まさか、自分以外にも前世の知識を持つ者がいるとは。しかも、それがヨーロッパの有力な貴族なんて……。
純正の頭の中で、さまざまな可能性が駆け巡る。脅威か? 味方か? あるいは、共存か?
「他の者はどうであった? 何か変わった人物はいたか?」
純正は他の伊東マンショ(フランス)と千々石ミゲル(イギリス)にも尋ねたが、少し考えたあとに首を横にふる。
「そう言えば、そのフレデリック殿下の周りには異能の集団ともいえる存在があるようです」
「何? 何だそれは?」
「はい、オラニエアカデミーなる存在で、多種多様な学問を研さんしている学校のようなのですが」
「オラニエアカデミー……」
純正は眉をひそめた。
名称からして学術機関なのだろうが、16世紀末のヨーロッパに、大学以外により実用的な研究をする学術機関が存在していたのだろうか。
「甚吾、そのアカデミーについて、もう少し詳しく聞かせてくれ」
「はい。表向きは学問所でございますが、実際にはさまざまな技術開発を行っているようです。公式にはオラニエ公マウリッツ殿下が設立されたとされていますが、実はフレデリック殿下です」
ジュリアンは続けた。
「単なる兵学や航海術だけでなく、天文学、地理学、数学、物理学、化学、医学、語学など、幅広い分野を教えていると聞きました。そして……」
ジュリアンは一瞬言葉を詰まらせた。
「そして?」
「軍事技術にも関わっているとのうわさがございます。火薬の改良や、新しい大砲の設計など……」
純正は嫌な予感が背筋をはい上がった。
もし、本当にもう一人の転生者がいるとすれば、その者は軍事技術の革新にも関与しているのだろう。
「その学校には、いかなる人物が集まっているのだ?」
「多くは若い学者や技術者でございますが、そのほとんどが、ネーデルラント国内から招かれています。もちろん、職人たちは国外からも来ているようですが、おおもとの研究者は全てネーデルラント人です。分野ごとに、今までにない考えをもつ指導者がいるようです」
ジュリアンは考え込んだ。
自分は聖職者として、また、外交官としてオランダに向かったのである。科学者や技術者ではないので詳しくは知らないのだ。
「では、知りうる範囲で申し上げまする」
純正とジュリアンは、名前のとおり近い親類である。しかし、ここは公の場。公私混同してはいけないのだ。
「うむ」
「まずは医学ですが、溺れて呼吸のない患者を生き返らせたとか。ここ十年で他の国ではペストによる死者が多かったが、ネーデルラントとポルトガルにおいては極端に少なかったようです」
ポルトガルは分かる。
特に、医学に関しては国境はないとして、全面的に技術支援を行っている。そのため、ポルトガルも肥前国ほどではないが、医学は発展していたのだ。
だが、オランダも?
「その他にも農業では畑で砂糖を作り、ジャガイモ・ヒマワリ・トウモロコシなど、多種多様な作物をつくり、塩は我が国と同じ術にて作っております」
畑で砂糖……テンサイか?
間違いない。
もう、間違いなく転生者が導く国があり、それがオランダだと判明した。
敵か味方か? 友好か対立か?
オレは30年かけてやっと作り上げたのに、それをわずか10年で、だと?
オレは転生者だが、技術者ではない。
だからポルトガルへ使節を送って国交を結びつつ、最新の学問や技術を学び、同時に学校をつくって学術的な素地を底上げしてきたのだ。
そして、ようやく今がある。
それを10年で?
異常なる天才か、それとも複数の、数十人のブレーンがいるのか?
スタート地点が違うと言えば、オレは納得できるか?
すでに学問的な素地があったヨーロッパに、現代の科学者が転生し、導いて成し遂げた?
それとも、複数の転生者がいるのだろうか?
「申し上げます殿下! 諫早の湊に蒸気で動く汽帆船。我が国の船ではなく、横に上から赤、白、青の三色の旗を掲げています!」
次回予告 第872話 (仮)『オラニエ公マウリッツからの使者』

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