第30話 『夜襲』

 王国暦1047年12月10日(月)09:30=地球暦2025年09月07日(土)23:26:42.5 王都中央市場 <エリカ・ハーブマン>

 朝の市場は、まるで祭りのようににぎわっていた。

 商人たちが大声で客を呼び込み、荷車の車輪が石畳をきしませながら行き交う。

 魚の匂いと香辛料の香りが混じり合い、鼻をくすぐる。




 今日はいよいよ石けん販売の初日だ。

「エリカさん……本当に売れるんでしょうか」

 レイナが不安げに声を落とす。

「大丈夫、きっと売れるわ」

 答えながら私は自分に言い聞かせていた。

 でも心の中じゃ、確信なんて全くない。

 石けんは贅沢品。庶民には手が届かない金額なんだよね。

 でも、やるしかない。売れなきゃ計画は振り出しに戻る。




「石けんはいかがですか! お肌がつるつるになりますよ!」

「清潔で健康的です! 嫌な臭いもありません!」

 2人で声を張り上げても、通りの人々は足を止めてもすぐに去っていく。

 値段を聞いては、首を横に振るばかり。

「1個で大銅貨一枚なのに……」

 レイナが小さくため息をつく。

 銀換算で0.35グラム。卵10個分くらいだ。

 現代の感覚で言えば300~400円――高い。

 ビールなら4リットル、日当が銀2.5グラムの大工なら7個が限度。

 どう計算しても、庶民には高すぎる。




 やばい……売れる気がしない。

 マルクスもケントも「絶対いける」と言ってたけど、どこが?




 その時、前方で子供の泣き声がした。

「お母さん、いたいよ……」

 膝から血をにじませた少年が母親にしがみついている。

 私は反射的に駆け寄った。

「すみません、私は治療師です。見せてもらえますか?」

 母親が戸惑いながらもうなずく。

 私は清潔な布と水を取り出して、石けんで周囲を優しく洗った。

「石けんで傷口の周りの汚れを落とすと、みにくくなります」

 母親が息をのむ。周囲の人々も足を止めて見守った。

 でも魔法と違って治るわけじゃない。

 それだけじゃ『効果』を信じてもらえない。

「お母さん、この石けんをお渡しします。これで手と傷の周りを毎日洗ってください。膿まずに治ります」

 母親はまだ半信半疑の表情をしている。

 私は周囲に向かって声を張った。

「私は明日も無料の治療をします。石けんの効果を見てください!」

 ざわめきが広がる。

 無料治療なんて初めて聞いたんだろうな。

 でも足りない。待っているだけじゃ広がらないんだ。

「テントを畳んで」

「えっ?」

「これから怪我人を探しに行くの。現場で証明するのよ」

 私は石けんと治療道具をカバンに詰め込んだ。

 工事現場なら怪我人が必ずいる。背に腹は代えられない。

「本気ですか?」

「やるしかないわ」

 市場を後にして、王都の建設地区へ向かった。




 ■建設現場

 石を運ぶ作業員たちの怒号と掛け声が響く中、突然の悲鳴。

 男が腕を押さえて膝をついている。石の角で切ったようだ。

「すみません、治療師です! 手当てをします!」

 私が駆け寄ると、別の作業員が怒鳴った。

「女が出しゃばるんじゃねえ!」

「じゃあどうするの? 医者を呼ぶ? お金は? そのままにしたら膿んで働けなくなるだけよ!」

 思わず言い返すと周囲がざわつく。

 日雇い人夫に医者を呼ぶ金などあるはずもない。

「……お願いします、治療師様」

 男が頭を下げた。

 私は手際よく石けんで傷の周りを洗い、子供と同じように傷口は水で洗って清潔な布で押さえた。

「これで汚れは落ちました。膿みませんよ」

 周囲の作業員が息をのむ。

「すげえ……血がとまってキレイになったぞ」

 女が! と叫んだ男が感嘆の声をもらした。

「でも、これからが肝心です」

 私は石けんを差し出した。

「毎日洗って清潔に保ってください。これを差し上げます。1週間後にまた見せてください」

「1週間後……来てくれるんですか?」

「もちろん。お金はいりません。効果を確かめたいんです」

 その後も、新しく見つけた怪我をしたホームレスの手当てをして、膿んだ傷を洗い流しては同じことを伝える。

 小さな輪が、確実に広がっていく手応えを感じた。




 ■王国暦1047年12月10日(月)18:30=地球暦2025年09月07日(土)23:30:27.5 自宅兼工房 <田中健太>

 オレとマルクスは工房で蒸留装置の設計をしていた。

 旋盤の調整と並行で、化学関連はルナに頼っている。

「エリカたち、売れたかな」

 マルクスの問いにオレは苦笑する。

「どうだろうな。正直、初日は厳しいと思う。でも、売れ始めたら早いんじゃない?」

 ――その時、扉が開いた。

 エリカとレイナが戻ってきたようだ。

「ただいま……」

 エリカはカバンを床に落としてため息をつく。

「……1個も、売れなかったわ」

 室内の空気が少し沈む。

「まあ、初日なんてそんなもんさ」

 オレが慰めると、エリカが顔を上げた。

「でも、ただじゃ帰ってこなかったわよ」

 そう言って、彼女は市場での出来事を語った。

 負傷者の治療を通じて石けんの効果を広める作戦に切り替えたという。

「つまり、1週間後に結果を見るってことだな」

「ええ。時間はかかるけど、必ず広めてみせる」

 彼女の瞳に迷いはなかった。

 オレはその強さを感じ取ってうなずいた。

 きっと、成功する。




 ――夜更け。

 オレは工房のモニターの前に座っていた。

 周囲に仕掛けた赤外線センサーの映像を監視している。

 魔法省の連中に嗅ぎつけられないよう、24時間体制だ。

 電源は持ち込みのポータブル水力発電機と自作の発電機で何とかまかなっている。

 不意にモニターの一点が赤く点滅した。

 裏の茂みとの境界線に熱源を感知。

 暗視映像を拡大すると、7つの人影が浮かび上がった。

「……来たか」

 オレは舌打ちして急いでマルクスの部屋をノックした。

「敵だ。7人。裏から向かってくる」

 マルクスの表情が一瞬で変わった。

「みんなを避難させよう。オレはサーチライトを準備するから、お前は屋根でLRADの準備をしてくれ」

「了解」

 いつの間にか慣れてきたようだ。

 ゴブリン、野盗、魔法省……。

 オレは寝室のドアを叩いた。

「レイナ、エリカ、起きろ。緊急事態だ」

「敵?」

「そうだ。オレとマルクスが対応する。みんなは避難を」

 レイナとエリカは即座にうなずき、ルナとトムたちを連れて避難した。




 2度目の魔術師部隊との戦いが、始まる。




 次回予告 第31話 『科学兵器の洗礼』

 市場での石けん販売に乗り出したエリカとレイナ。

 しかし、高価なため全く売れず、戦略転換を余儀なくされる。

 エリカは医師としての知識を活かし、怪我人を無料で治療することで石けんの「衛生的価値」を実演し、民衆の信頼を得ようと動き出す。

 その一方、深夜の工房に魔法省の魔の手が迫る。ケントが仕掛けた監視システムが侵入者を捉え、静かな夜の工房が戦場と化す。

 しかし、マグナスはまだ知らない。

 魔法の常識がまったく通じない、耳をつんざく「音の槍」と目を焼く「光のかべ」が待ち受けていることを。

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