慶長九年二月二十一日(1604年3月21日) 23時 ポルトガル王国 リスボン
国王は厳重な警戒の中、西棟の新たな部屋へと移され、一連の作業は深夜まで続いた。
ようやく全ての処置が終わった頃、オットーとアエリウスは宰相と共に静まり返った廊下を歩いている。ひとまず毒の供給源を断てた安心感と、これから始まるであろう困難な戦いへの予感が、3人の間に重く漂っていた。
クリストヴァンは立ち止まり、2人のオランダ人医師に向き直る。
「2人の診立てを重んじよう。いや、それよりほかに道はあるまい。だが、事は容易ではあるまいぞ。物的証拠は何もない。薪を調べたところで得られるものはないだろう。宮中の者たちがこの一件をどう受け止めるか――それが問題だ」
オランダから蒸留瓶やフラスコ、試験管などの検査器具を取り寄せて調べる必要がある。
ただ……検出したとしても、侍医たちが信じるかは別問題だ。
アエリウスが静かに答える。
「承知しております、宰相閣下。我々の主張は荒唐無稽でしょう。しかし、本国に検出器具を要請いたします。また国王陛下のお体が回復に向かえば、それが何よりの証明になります。甲状腺ホルモンの分泌を促すため、ヨウ素を豊富に含む海藻などを食事に加えます。数週間、あるいは数か月で、ゆっくりとですが快方へ向かうはずです」
「数か月、か」
クリストヴァンは短くつぶやき、深くため息をついた。
その時間こそが、今の宮殿で最も得難いものだった。彼の脳裏には、好機とばかりに勢いづく保守派貴族たちの顔が浮かぶ。敵は、それほど悠長に待ってはくれない。
オットーは、壁に背を預けながら厳しい表情で口を挟む。
「だけど、敵はオレたちが動いたと気づいたはずだ。自分たちの計画が露見したと知れば、必ず次の手を打ってくる。オレたちを排除しにかかるぞ」
彼らの行動は見えざる敵を刺激したに過ぎなかった。
クリストヴァンはオットーの言葉の重さを噛み締めている。
その通りだ。
ただ国王の回復を待つだけでは、2人の身が危うい。
最悪の場合は暗殺される。
敵は必ず動く。
彼は廊下の冷たい石の壁に背を預けてしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
その目に迷いはない。
「ただ守るばかりでは、向こうの術中にはまる。先手を打つ」
宰相の決意に満ちた声が響いた。
待つのではない。
敵が次の罠を仕掛けてくる前に、こちらから動いて宮殿の闇を暴き出す。覚悟は決まった。
宰相は2人を鋭く見据える。
「敵の狙いは君ら医師たちと、陛下の回復を切に願う我ら改革派だ。そうであれば、誰が一番利益を得るかを考えれば、顔ぶれは自然に見えてくる」
彼の言葉に、オットーが即座に答える。
「侍医長フォンセカと、彼に連なる保守派が怪しい。今は証拠がないが、証拠がなくても動く。薪の管理に関わった者を、一人残らず洗い出せ。そこからだ」
クリストヴァンは近くに控えていた衛兵に、有無を言わさぬ力強さで命じた。
「衛兵長を呼べ。関係者全員の身柄を確保せよ。尋問は私が直々に行う――慎重に、しかし確実にな」
宰相の電光石火の決断に宮殿の空気が再び張り詰めた。反撃の狼煙は上がったのである。
衛兵長の到着は早かった。
彼は宰相の険しい表情とただならぬ雰囲気から全てを察し、無言で深くうなずくとすぐに背を向けて去っていく。
深夜の静寂を破り、衛兵たちの鎧が擦れる音と硬い靴音が廊下に響き渡った。
薪部屋の管理記録を元に、夜勤の侍従や下男たちが何事かと騒ぐ間もなく、一人、また一人と別室へと連行されていく。
オットーとアエリウスは、その光景を息をのんで見守っていた。
宰相の覚悟は、宮殿の闇を力ずくでこじ開けようとしている。
「始まったな……」
オットーが低くつぶやいた。
本人の意思とは関係なく、宮殿の権力闘争の渦中に彼らは立っていたのである。
アエリウスはその光景から目をそらさなかった。
冷静な彼の目にも、目の前で起きている事態の異常さは焼き付いている。
「宰相閣下は、自らの全てを賭けていらっしゃる。我々も、腹をくくらなければならないな」
その声は、隣に立つオットーだけに聞こえるほど小さかった。
連行されていく者たちの中には怖がる者、無実を叫ぶ者、ただぼう然とする者が入り混じる。宮殿の日常は完全に崩壊した。オットーとアエリウスは、宰相が尋問のため、衛兵たちの後を追って廊下の闇へと消えていくのを見送った。
「ああ。でもオレたちの戦場はここじゃない。陛下のお側だ。行こう」
オットーはそう言うと、国王のいる西棟へと歩き出した。
西棟の国王の寝室は、外の騒音がウソみたいに静まり返っている。
近衛兵が入り口を固め、許可のない者は誰も近づけない。
部屋に入ると、衰弱したセバスティアン一世が静かに寝台で息をしていた。その顔色は依然として悪く、生気は感じられない。
アエリウスは、すでに準備してあった薬湯を手に取った。
これは、今日(21日)の昼間に宰相に頼んで調達してもらった海藻を煎じたものである。国王が西棟に移されてからすぐに、彼は治療計画の第一歩に着手していたのだ。
「オットー、少し手伝ってくれ。体を支える」
「ああ」
2人は協力してぐったりした国王をわずかに起こす。
アエリウスはサジを使って注意深く国王の口元に薬湯を運んだ。
「よし……。これを続けていこう。少しでも甲状腺が刺激されればいいんだが」
もちろん、継続して治療しなければならない。
アエリウスはホッと息をついた。
「ああ。気長に待つしかないよ。それより、宰相の尋問の方はうまくいくと思うか?」
オットーの言葉に、アエリウスは国王の寝具を整えながら静かに答える。
「難しいだろうな。末端の人間は何も知らされていないはずだ。それに、恐怖で口を閉ざすに決まっている。だけど宰相は揺さぶりをかけている。誰かが自白するのを待っているんだ」
彼は続けた。
「今は陛下を安全な部屋に移してるが、これも応急処置に過ぎない。真犯人が見つかって脅威が完全になくなるまで、安心はできないんだ」
オットーは黙ってうなずいた。
東の空がわずかに白み始めている。長い夜が明けようとしていた。
■慶長九年二月二十二日(1604年3月22日) 05時
宮殿の地下にある一室は、様相を異にしていた。
宰相クリストヴァンは、連行してきた者たちを前に自ら尋問を続けている。
衛兵長が脇を固めているが、暴力的な雰囲気はない。宰相は、恐怖に震える若い侍従の前に椅子を置き、静かに語りかけた。
「怖がらなくてもよい。真実を話してほしいのだ。何か変わったことはなかったか」
侍従は青ざめた顔で首を横に振るばかりだった。尋問は遅々として進まない。
誰もが口を固く閉ざし、あるいは『何も知らない』の一点張りだった。
彼らにとって目の前の宰相も保守派貴族も、どちらも変わらない。
等しく恐ろしい権力者なのだ。
下手に口を開けば、どちらか一方から確実に報復される。沈黙こそが、彼らのような弱者が生き延びるための唯一の知恵なのだ。
クリストヴァンは焦りを抑えて一人一人に根気強く問いかけるが、成果は上がらない。
彼は一旦尋問を打ち切り、衛兵長に命じた。
敵は末端の者には何も知らせず、計画を実行に移したに違いない。
「引き続き監視を怠るでないぞ。何か動きがあればすぐに知らせよ」
地下室を出ると朝日が窓から差し込み、宰相は厳しい表情のまま次の手を考えていた。
■慶長九年二月二十三日(1604年3月23日)
宰相の強引な捜査はすぐに宮殿中に知れ渡った。
それは恐怖と共に、残された保守派の者たちに絶好の口実を与えたのである。
侍医長フォンセカの屋敷には、拘束を免れた貴族たちが密かに集まっていた。
「聞いたか! クリストヴァンめ、狂気の沙汰だ! 罪もない者たちを捕らえ、拷問まがいの尋問をしているらしい!」
「もはや暴君だ! あれは陛下を救うための行いではない。自らの権力に異を唱える者を粛清するための口実に過ぎん!」
フォンセカは、集まった貴族たちの言動に満足げにうなずいた。
その背後には、駐リスボン・スペイン大使館の武官の影がちらついている。
「皆の言うとおりだ。宰相は陛下のご病気を良いことに、国を私物化しようとしている。我々が今立ち上がらねば、ポルトガルは異国の者たちと宰相に乗っ取られてしまうぞ」
彼は声を潜めて、確信を込めて言った。
「地方の有力な領主たちに、この惨状を伝える密使を送る。宰相の暴政を糾弾し、国王陛下を救い出すための義兵を挙げるよう、要請するのだ。『国王陛下をお救いし、国を正す』。この大義を旗頭とすれば、地方の諸侯も必ずや我らに味方する!」
その言葉に貴族たちの目に決意の光が宿った。
もはや単なる権力闘争ではない。
宰相の強権発動は、皮肉にも敵に内乱を起こす大義名分を与えてしまったのだ。
――発 駐ポルトガル日本大使館 宛 殿下
国王陛下の病名判明せり。
甲状腺異常との診立てにて、ヨウ素なるもの投与せり。
国内不穏にて御助勢願いたく存じ候。――
――発 オットー・ヘウルニウス 宛 フレデリック殿下
国王陛下甲状腺異常にてヨウ素投与治療中。
物証確保のため別紙の通り分析機器のご用意を願います。
国内情勢不穏にて、派兵準備検討願います。――
慶長七年九月二十五日(西暦1602年10月11日)から敷設された電信はフランスの港からオランダまで開通しており、アフリカ西岸のラゴスまで、工事が進んでいた。
次回予告 第930話 『偽りの炭売り』
国王毒殺未遂を受け、宰相は関係者を拘束し強引な尋問を開始。
だが証拠は見つからず、この暴挙は保守派に内乱の大義名分を与えてしまう。
治療に時間がかかる中、改革派は焦り、保守派は地方諸侯への決起を促す。
ポルトガルは分裂の危機に直面していた。
次回、かろうじて見えてきた手がかりとは?

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