王国暦1047年11月20日(火)13:00=2025年9月7日(日) 20:10:15 ケントの自宅
「うーん、いい考えだと思うけど、ちょっと問題があるぞ」
ケントの指摘にエリカは少し眉をひそめる。
「問題って何? この世界の人たちの助けにもなる、素晴らしいアイデアじゃない」
「オレはエンジニアだから経済や営業のことは分からない。でもマーケティングや営業とも散々ケンカしてきたから、物を売って利益を出して、しかも事業として成立させるためには何が必要か。そのくらいは理解しているつもりだよ」
そう言って次郎は、石けんと消毒液の販売計画に対する問題点をあげていった。
ケントは地球で大型旅客ジェット機や戦闘機や爆撃機、そして個人用の小型のセスナ機の設計まで手掛けていたのだ。
「まず第一に、ターゲットが不明確だ」
ケントは指を1本立てて説明を始めた。
「エリカの計画では『この世界の人たちの助けになる』と言っているけど、具体的に誰をターゲットにするつもりなんだい? 貴族? それとも商人? 一般庶民か? それぞれで求められる品質も価格帯も全く違ってくるよ」
「それは……みんなに使ってもらいたいと思って」
「それが問題なんだよ」
全員をターゲットにした商品は結局『誰にも』刺さらない。現代でもマーケティングの基本中の基本である。
ケントは椅子に深く腰掛け直して続けた。
「第二に、この世界で石鹸や消毒液の需要がどの程度あるのかが分からない」
確かに衛生観念は現代より劣るかもしれないが、それが即座に『売れる理由』になるとは限らないのだ。
むしろ衛生に対する意識が低いなら、そもそも『清潔になりたい』ニーズ自体が顕在化していない可能性がある。
エリカは困惑した表情を浮かべた。
「でも、病気の予防になるし、実際に効果があるものなのよ?」
「効果があるのと売れるのは別問題だよ。第三の問題点がそこにある」
ケントは3本目の指を立てた。
「この世界の人々にとって、石鹸や消毒液は全く未知の概念だろう? つまり、商品の価値を理解してもらうための『教育コスト』が膨大にかかる」
「教育コスト?」
「そうだ。例えば現代でも、まったく新しい技術や概念を市場に浸透させるには時間と費用がかかる。ましてや中世レベルの技術水準の世界で、『目に見えない細菌』や『予防医学』の概念を説明するのは至難の業だ」
ケントは治癒魔法、と言いかけて止めた。
魔法は一般庶民には高価すぎるから参考にならない。
ケントの指摘にエリカは言葉を失った。
「第四に、製造コストと販売価格の問題がある」
石けんの原料の油脂やアルカリ性物質、消毒液に必要なアルコールをどうやって調達するのか?
調達できたとしてその費用と製造設備、品質管理は?
最も重要なのは売れてかつ利益が上がる価格設定である。
「それは……」
「最後に、一番重要な問題がある」
ケントは5本目の指を立てた。
「ギルドの存在だ。地球と違って販売、つまり商業ギルトに無許可で物を売れば、必ず圧力がかかる。しかも石けんはおそらく高級品だ。間違いなくきついクレームがくるぞ」
エリカは椅子に深く沈み込んだ。
「つまり……私のアイデアはダメだということ?」
「ダメじゃないよ」
ケントは首を振った。
「エリカのアイデアには可能性がある。問題は、それをどうやって『売れる商品』に変えるかだ。まずは小さく始めて、市場の反応を見ながら改良していく。それが現実的なアプローチだと思う」
結局、アイデア自体は素晴らしいが、ギルドに先に相談したほうがいいという結論にいたった。
■数日後
ケントの自宅の納屋は、新たな工房としての姿を現し始めていた。
しかし、その中央に置かれた一台の機械を前にして、マルクスは腕を組んで険しい顔でうなっている。
目の前には親方の工房から運び込まれた、この世界で唯一手に入る旋盤だった。
「ケント、これ見ろよ。……今までは仕方なく使っていたけど、話になんねーぞ」
マルクスは、旋盤の木製フレームを拳でこつんと叩いた。鈍い音が響く。
「フレームは木製で、乾燥や湿気で簡単に歪む。主軸もガタガタだ。これじゃ、せいぜい木を削って椀でも作るのが関の山だぜ。金属加工なんて夢のまた夢だ」
ケントもその横で、刃物を固定する部分を詳しく観察していた。
「ああ、分かっている。刃物も作業者が手で押さえる仕組みだ。これじゃあ熟練の職人でも0.1ミリの精度を出すのは至難の業だろう」
彼はマルクスに向き直り、厳しい表情で続けた。
最初に酒場で感じた感覚。
あれが蘇ってきたのだ。
「オレたちが作るシャープス銃の閉鎖ブロックには、最低でも100分の5ミリ単位の精度が必要だ。発射ガスを完全に密閉しないと危険だからな」
「100分の5ミリか……。途方もねえな」
マルクスは天を仰いだ。
その時、ケントが工具箱から銀色に光る道具を取り出す。
デジタル表示のついた最新式のノギスだ。
「測定は問題ない。こいつがあれば100分の1ミリ単位で測れる」
ケントはノギスのスライダーを滑らせて、滑らかな動きをマルクスに見せた。
「おおお! 流石だケント! ……でも」
マルクスはノギスを手に取って感心したように眺めた直後、厳しい現実に顔を戻した。
「測る道具があっても、削る道具がこれじゃ意味ないよ。正確な物差し持ってても、手ぇ震えてたら線もまともに引けないのと同じ」
「その通りだ」
ケントは力強くうなずいた。
「だから、オレたちは銃を作る前に、まず銃を作れるだけの精密な『工作機械』を、この手でゼロから作り出す。それが最優先だ」
2人のエンジニアの目には、絶望ではなく確かな決意が宿っていた。
困難を前にしても、前へ進む意志を失わない。
そこへ、地下の実験室からルナが顔を出した。
「2人とも準備ができたよ。地球から持ってきた材料で、これから硝石の合成を始める」
「よし、すぐに取り掛かってくれ。地下の実験室は安全対策もしてある。ああそうだ、木炭はあるのか?」
ケントの問いに、そばで作業を手伝っていたレイナが答えた。
「あなた。当面必要な分は私が市場で買ってきました。品の良い樫の木炭よ」
彼女は小さな革袋から銅貨を数枚取り出して見せた。
「1KPf(カイザープフント=kg)で銅貨2枚だったわ。ひとまず10キログラムほど確保しています」
「さすが! 愛する妻よ」
ケントは思わずレイナの額にキスをした。
「……」
「……」
顔を赤くするレイナ。
ケントは思考を切り替えて、マルクスに向き直った。
「マルクス、オレたちは旋盤の設計を詰めるぞ。まずはフレームの構造からだ」
「オッケー。やる事が山積みだな」
火薬の合成と工作機械の開発。
2つの計画がそれぞれの課題を抱えながら、今まさに同時に動き出そうとしていた。
■王国暦 1047年12月02日(日)13:00 = 2025年09月07日 22:08:10 ケントの自宅
ケントの自宅の納屋は、もはや単なる物置ではなかった。
中央には解体されて改良を待つ旋盤の残骸が横たわり、壁にはケントが描いた新しい旋盤の設計図が何枚も貼り付けられている。
この世界に産業革命の灯をともすための、最初の設計図だ。
「ケント、主軸を支える軸受の構造なんだけどさ、滑り軸受じゃなくて、簡易的なボールベアリングって自作できないかな。真球を作るのはめちゃくちゃ難しいけど、円筒ころ軸受なら、今のオレたちの技術でも何とかなるんじゃないか?」
マルクスが油と汗にまみれた顔で設計図を指さしながら言った。
「良いアイデアだね。ころの材質は、最適な熱処理を施した鋼を使おう。摩擦を極限まで減らせれば、回転精度は飛躍的に上がるはずだ」
ケントもチョークを手に取って設計図に新たな機構を書き加えていく。
2人の間には、言葉にしなくても通じ合う技術者としての深い信頼関係があった。
銃ではなく、銃を作るための機械を作る。
弟子のトムも頭をパンパンにしながら手伝っていた。
――トントントン。
「突然の訪問、失礼する。ケント・ターナー殿のお宅でお間違いないかな」
不意にノックの音がした。
「誰だ?」
「客らしい」
作業の手を止めたケントは、マルクスと顔を見合わせた。
アルからの連絡はいつも使いの者を通じて事前に知らされる。
約束もなく訪ねてくる相手に心当たりはなかった。
「誰だ……あー! お前は!」
扉を開けたケントは、そこに立つ男の顔を見て息をのんだ。
見覚えがある。
工房が魔法省の連中に破壊されたあの日、ケントたちを助けた謎の魔法省の人間だ。
「お前は! あの時の……魔法省の奴だな!」
助けてもらったのは事実だが、味方ではない。
「僕はアポロ・ルミナス。魔導研究院長を務めている者だ。そう警戒しないでほしい。君たちの技術に純粋な興味があってね。少し話がしたいだけだ」
次回 第27話 『魔法(ハッタリ)は鋼(リアル)に勝てず』
銃製造計画を始動させたケントたちだが、この世界の旋盤の圧倒的な精度不足という壁に直面。
銃を作るための精密な工作機械をゼロから自作する必要に迫られる。
並行してルナが持ち込んだ材料で火薬合成に着手する中、突如現れたのは魔法省襲撃時にいた謎の男、魔導研究院長アポロ。
敵か味方か、彼の訪問の目的とは一体?
黒色火薬が完成して第一歩を踏み出すが、雷汞の製造には危険が伴い……。
さらに金策の活路を求め商人ギルドの門を叩く彼らを、新たな出会いと試練が待ち受ける!

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