慶長九年二月二十日(1604年3月20日) ポルトガル王国 リスボン
リベイラ宮殿の一室では、オランダから急派された2人の医師、オットー・ヘウルニウス(救急科・脳神経外科)とアエリウス・ヴォルスティウス(総合診療・内科)が、山積みの資料を前に何日も眠れぬ夜を過ごしている。
彼らが到着してから、すでに数週間が経過していた。
セバスティアン一世の容態は、好転の兆しを見せるどころか、日に日に悪化の一途をたどっている。
内科医で総合診療医のアエリウスは、国王の症状を改めて整理していた。
「徐脈、低体温、非圧痕性浮腫、意識レベルの低下、皮膚の乾燥、眉毛の薄化、便秘、記憶力低下……」
症状を書き出しながら、彼の脳裏に1つの診断名が浮かんだ。
これらのパターンは、現代医学では典型的な疾患を示している。
「甲状腺機能低下症だ。重篤な粘液水腫こん睡の前駆状態に違いない」
彼は確信を込めてつぶやいた。
総合診療と内科の専門性を持つ彼にとって、この症状群は明確な診断を示している。
正確には血液検査が必要だが、この時代にはまだ確立されていない。
一方、オットーは腕を組み、壁に寄りかかって一点を見つめていた。
彼の専門は救急科と脳神経外科である。
内科的な診断はアエリウスに任せ、自身は別の角度からこの不可解な事態を分析していた。
「オレは専門外です。アエリウス先生が甲状腺機能低下症と診断したのなら、間違いないでしょう。しかし問題は別にある」
オットーは静かに口を開いた。
「病気の『経過』が異常なんです。健康だった人間が、これほど急速に甲状腺機能を失っていく。自然経過ではありえないのではないでしょうか まるで、毎日少しずつ甲状腺を破壊する何かにさらされているようだ」
「確かに、橋本病による自己免疫的破壊にしては進行が早すぎます」
アエリウスはうなずいた。
「もしそうなら、外的要因による甲状腺機能阻害を考えなければなりませんね。しかし、飲食物の管理は完璧です。どこから毒物が侵入しているのか……」
アエリウスの言葉にオットーの表情が変わった。
救急医として中毒学の基礎知識を持つ彼は、毒物の侵入経路を系統的に考えていたのだ。
「食べ物、飲み物、皮膚接触……全部厳重に管理されている。残るは……」
オットーは部屋を出て、国王の寝室へと向かった。
アエリウスがそれに続く。
寝室は相変わらず薄暗く、暖炉の火だけがぱちぱちと音を立てていた。
3月のリスボンは温暖だが、甲状腺機能低下症による体温調節機能の低下で、国王は常に寒がっている。侍医たちが、体温の低い国王のためにと、一日中火を絶やさないようにしていた。
その光景を目にした瞬間、オットーの中で全ての点がつながる。
「……呼吸だ!」
彼の声が、静かな室内に響いた。
「犯人は薪に毒を仕込んでいる。陛下は毒を吸い込んでいるんだ!」
「何を馬鹿なことを。薪を燃やした煙で人を害するなど……」
近くにいた侍医が、いぶかしげな顔でオットーを見た。
「……いや、確かにある種のアンチモン化合物は、甲状腺ホルモンの生成を強力に阻害する作用を持ちます」
アエリウスが説明を続ける。
「それを薪に染み込ませて燃やせば、発生する無味無臭の有毒な微粒子を、国王陛下は毎日吸い込み続けることになる。甲状腺機能が徐々に破壊されて今の症状に至ったと考えれば、つじつまが合う!」
「そうだ!」
オットーが大きくうなずいた。
「経口、経皮、吸入のうち、管理の盲点となっていたのは吸入経路だ。完璧な計画犯罪だ」
この時代の科学では決して証明できない犯罪計画であった。
誰かが、誰も知らない方法で国王を暗殺しようとしている。
しかし今は物的証拠が何もないのだ。
薪を調べて仕込まれた化合物を検出するには時間がかかる。
大掛かりではないが、ガラス瓶や加熱装置が必要なので、オランダから取り寄せる必要があった。
「今すぐ暖炉の火を消せ」
オットーは全員に命じた。
「運び込まれている薪を全て没収して、国王陛下を別の部屋へ移すのだ。一刻の猶予もない」
あまりに唐突で荒唐無稽な指示に、侍医たちは戸惑い、動こうとしない。
理解できないのだ。
彼らの目には、他国の医師が錯乱したように映ったかもしれない。
だが2人とも引かなかった。
現代医学知識だけを頼りに、見えない敵から王の命を守るための戦いである。
「聞こえないのか! 毒だと言っている!」
オットーの絶望的な叫びが、王の寝室にこだました。
その気迫に一瞬たじろぎながらも、ポルトガルの侍医長は侮辱されたと感じ、顔を赤くして反論する。
「証拠もなく、そのような妄言を信じろと申すのか。国王陛下のお体を冷やすことなど、断じてできぬ!」
侍医たちもそれにうなずき、異国の医師たちへ不信の目を向けた。
彼らの医学常識からすれば、オットーの主張は悪質な冗談か、あるいは狂人の戯言にしか聞こえない。
ブチ切れそうになるオットーを、アエリウスがそっと手で制した。年齢は一回り上である。
「先生、どうか合理的に考えていただきたい。もし我々が間違っていた場合のリスクは何ですか? 陛下は少し寒い思いをされるだけです。しかし、もし我々が正しく、あなた方が何もしなかった場合、陛下は確実に亡くなる。行動しないことのリスクの方が、遥かに致命的だ」
彼は冷静に、しかし切迫した声で侍医長に語りかけた。
論理的で否定しようのない言葉が、その場にいた者たちの心を揺さぶる。
特に、王の枕元に控えていた宰相のクリストヴァン・デ・モウラは改革派の重鎮であり、セバスティアンの腹心でもあった。
彼は衰弱しきった主君の顔と、真に迫るオランダ人医師たちの顔を交互に見比べる。
そして、腹を決めた。
「やれ」
大臣は低く、しかし有無を言わさぬ力強さで命じた。
「暖炉の火を消し、薪を全て運び出せ。陛下を西棟の部屋へお移しするのだ。直ちに!」
宰相の命令は絶対であった。
侍医たちのためらいは消え、控えていた宮殿の衛兵と召使いたちが慌ただしく動き始める。
ジュウウ……!
バケツの水が暖炉にかけられ、音と共に白い蒸気が立ち上った。
部屋に残っていた薪は一本残らず運び出され、衛兵によって厳重に保管される。
オットーとアエリウスは、その光景を厳しい表情で見守っていた。
ひとまず毒の供給源は断てたが、これで終わりではない。
見えざる敵は、自分たちの計画が露見した事実を知るだろう。
そして、次なる手を打ってくるに違いない。
宮殿の深い闇の中で、本当の戦いは今、始まったばかりであった。
――発 駐ポルトガル日本大使館 宛 殿下
国王陛下の病名判明せり
災いの元断ち切れども、余談をゆるさず。
毒殺未遂の恐れあり。――
次回予告 第929話 『証明なき告発』
原因不明の病に倒れたポルトガル国王セバスティアン。
転生者の医師アエリウスはその症状を『甲状腺機能低下症』と診断するも、異常な進行速度に人為的なものを疑う。
オットーは警備の盲点を突き、暖炉の薪に仕込まれた毒物を吸引し続けた『環境型毒殺』だと看破。
宰相の決断で毒の供給源は断たれたが、見えざる敵との本当の戦いは今、始まったばかりであった。
近代知識を武器に、彼らは「存在しないはずの犯罪」を証明し、保守派とスペインの陰謀を暴いてポルトガルを内乱から救えるのか――。

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