王国暦1047年10月10日(水)05:00 = 2025年9月6日(土)23:39:11<田中健太>
夜が明け、森の木々の隙間から朝日が差し込んできた時、オレたちの長い夜は終わりを告げた。
でも戦いが終わったわけではない。
むしろ、本当の戦いは始まったばかりだった。
「ケント、悪いけど少しだけ仮眠を取るわ」
疲れ切ったエリカが、ふらつきながら立ち上がる。無理もない。
何しろあの極限状況で手術を成功させたのだから。
馬車の荷台では、レイナが浅い呼吸を繰り返している。アンがその隣で、母親の手を握ったまま、こくりこくりと舟を漕いでいた。
オレたちの王都への帰路は、これ以上ないほど過酷なものとなった。
ガルドは馬を歩くよりも遅い速度で進ませて、地面のわずかな凹凸さえも避けるように御者が手綱をさばく。荷台が少しでも揺れるたびに、レイナが苦痛に顔を歪めるからだ。
「……う……」
「お母さん……?」
うめき声に、アンがはっと顔を上げる。その不安げな瞳に、オレは胸が締め付けられる思いだった。
エリカが仮眠に入る前、オレは彼女から電子体温計の使い方と、今後の対応について厳しく言いつけられていた。
――いい、ケント。私が眠っている間も、一時間おきに必ず熱を測って。もし39度を超えたら、躊躇なく、すぐに私を起こすのよ。それから、清潔な布を冷たい水で濡らして、彼女の額や首筋を冷やし続けて。いい、必ずよ――。
オレは恐る恐る体温計をレイナの脇に挟む。
「38度5分……。まだ、大丈夫か」
ホッと一安心だが、予断は許さない。
貴重な消毒液をガーゼに染み込ませて、教わった通りにレイナの傷を覆う包帯を慎重に交換していく。
3日目の昼過ぎ、レイナの容態が急変した。
「エリカ! レイナの様子が!」
ルナの悲鳴に緊張が走る。レイナはひどくうなされて呼吸が荒くなっていた。
「熱が……39度を超えている!」
体温計が示した数字に、エリカの顔色が変わる。これが感染症の恐怖か。オレの背筋を冷たい汗が伝う。
「ケント! 水! ルナ、冷たい布を用意して!」
エリカの指示が飛ぶが、やれることは限られている。
地球なら抗生物質を一錠飲ませれば済む話が、この世界では命取りになる。
オレたちはただ、レイナ自身の生命力を信じ、祈ることしかできなかった。
そして、悪夢のような旅路の果てに、ようやくオレたちは王都の高い城壁を視界に捉えた。
「着いた……王都だ!」
■王国暦1047年10月19日(金) 12:00= 2025年9月7日(日) 01:12:06<田中健太>
ガルドのその声は、安堵と疲労でかすれていた。
門をくぐり、久しぶりに浴びる街の喧騒が、今は何よりも心強く感じられた。
オレたちは脇目もふらず、エリカの治療院へと馬車を走らせた。
そこは、彼女がこの世界で築き上げた城だった。
決して広くはないが、清潔に整えられて、薬草棚や蒸留器、そしてこの世界基準での最新の医療器具が整然と並べられている。
「先生、お帰りなさい! ……まあ、大変!」
出迎えた助手らしき女性に、エリカは間髪入れずに指示を飛ばす。
「すぐにベッドの用意を! それから解熱効果のある薬草を煎じて! 今回は『感染症』の疑いが濃厚よ。私が教えた手順通り、関わった器具は全て、使用後に徹底的に煮沸消毒!」
「はい、承知しております! すぐに準備いたします!」
助手はエリカの言葉に一切動じることなく、テキパキと動き出した。『感染症』『煮沸消毒』――それらは、この治療院で働く者だけが知る、師の絶対的な教えであり、日々の常識らしい。
数時間後、エリカの懸命な処置のおかげで、レイナの熱は少しずつ下がり始めた。
荒かった呼吸も今は穏やかな寝息に変わっている。
「……峠は越した。あとは、このまま快方に向かってくれるのを待つだけね」
エリカの言葉に、アンがその場で泣き崩れた。
レイナの容態は心配だったが、そうも言ってられない。
安定したのを見届けて、オレはギルドへと向かった。
あとは頼む、エリカ。
終わったらすぐ戻るからな。
精密加工ギルド・ギルド長のマイスター・クロノス・ギアハートに、ドワーフの都イワオカで部品が完成したこと、そして帰路で野盗に襲われ、レイナが負傷したことを手短に報告する。
クロノスはオレの報告を聞く。
「そうか……大変だったな、ケント。こちらからも見舞いにいくよ。ただし、レイナ殿のことは気の毒だが、君は仕事を果たしてもらおう。部品は無事なのだな」
「ええ、それは問題ありません」
「よろしい。では早速工房で組み立て作業にかかってくれ。期待しているぞ」
クロノスはレイナの話を聞いて同情してくれたが、それはそれ。
ギルド長としての役割を果たさなくちゃいけない。
それが理解できるからこそ、オレは一礼してギルドを後にして、そのまま工房へ足を向けた。
それから数日は家と工房とエリカの治療院の往復が始まった。
やがてレイナが退院して全快したころ……。
ん? どうした?
なんだか人だかりができているぞ。
人だかりの中心では、12歳ほどの男の子が大柄な男ともめていた。
汚れた作業着を着て、顔には涙の跡がある。
大人の男は商人風の身なりで腹が出ていた。
「だから約束した給料をください! 朝から晩まで働いたんです!」
男の子は必死に訴えている。
声が震えているが、諦めていない。
「うるさい! 雇ってやっただけでもありがたいと思え!」
男は子供の頭を平手でたたいた。
子供はよろめいたが、男の服にしがみついて離れない。
「お願いします! お金が必要なんです!」
「知るか! ガキが生意気な口を利くな!」
男はその子を突き飛ばした。
男の子は地面に倒れたが、すぐに立ち上がる。
周りの大人たちは見て見ぬふりをしていた。
何だこりゃ?
児童虐待もはなはだしい。
労働基準法違反だぞ!
オレは胸が熱くなった。これは見過ごせない。
「ちょっと待ってください。約束した給料は払わないといけないと思いますよ」
オレは人だかりをかき分けて前に出たが、男はオレをにらみつけた。
「何だお前は? 関係ない奴は引っ込んでろ!」
うわ!
オレは胸を押されてよろめいてしまった。
相手は大男で体格差は歴然としている。でも、大人として子供は守らないといかん。
「関係なくはありません。約束は守るべきです」
「うるさい! ガキの味方をするなら、お前が金を出せ!」
なんてベタな。
異世界あるあるじゃねえか。
男が拳を振り上げてオレが身構えたその時――。
次回予告 第13話 『正義の代償と王族の後ろ盾~悪徳商人撃退す!~』
野盗の襲撃によって矢に倒れたレイナ。
一行は死闘の末に王都へ帰還する。エリカの治療院でレイナは一命を取り留め、ケントは印刷機の改良作業を再開。
平穏な日常が戻ったかに見えたが、街角で虐げられる少年を見過ごせず助けに入ったケントは、商人風の男に絡まれ窮地に陥ってしまう。
男が拳を振り上げたその時に、いったい何が起こった?

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