慶長八年九月十二日(西暦1603年10月16日) ケープタウン
黒田長政が父・官兵衛への返書を認めるために席を外した。
総督室には重苦しい沈黙が流れている。
純勝は海図上のマラッカを見つめているが、ジョホールとアチェの一連の動きが、巧妙に張り巡らされた罠のように思えたのだ。
「父上。彼の者らの訴えを捨て置けぬは道理にございます。マラッカの総督を呼び、三者で話し合いの場を設けるのも当然の御沙汰。さりながら我らがそのとりなし役を務めること自体、極めて難し舵取りを迫られるのではございませぬか」
純正はため息をついた。
「平十郎、こたびの話はさほどに難しか」
「はっ。ポルトガルは、我らがジョホール側の言い分を聞くこと自体を、裏切りと見なすやもしれませぬ。一方で、ジョホールとアチェは我らが軍事力でポルトガルを屈服させることを期待しているはず。マラッカ返還の果に至らねば、今度は我らに牙を剥きかねませぬ。いずれにしても禍根を残すことになりはしませぬか」
純勝の言葉は、若さゆえの直情ではない。
冷静な分析に基づいた懸念はもっともであった。
「言い分を聞くとは、話をきくということか、それとえも求めを叶えるということか、いずれなのだ」
純正は試すように純勝を見た。
「表向きは『話を聞く』にございましょう。されど、彼の者らは我らが協議の場を設けたことを『求めを叶える』兆しと捉え、大きく|期《ご》しましょう(期待しすぎるでしょう)。その思いと、我らが下すであろう沙汰の隔たりこそが、禍根の源となり得まする」
「ふん、なにごとかあらん(どうでもいい)。いずれにしても禍根となるのだ、ならばここで騒いでも是非もなし。セバスティアン王は然ほどに愚かではない。総督もまた同じであろう。それにオレの考えは決まっておる。ゆえにいずれの肩をもつか……平十郎、わかるか」
純勝は純正の真意を測るようにしばらく考えた、静かに口を開いた。
「いずれの肩も持ちませぬ。我らが持つべきは、帝国の理、すなわち『八紘一宇』の志にございます。ポルトガル、ジョホール、アチェ、そのいずれをも我らが示す道の上に立たせ、共に栄える筋書きを描く。それこそが父上のお考えと心得ます」
「……うむ。それでこそ我が息子よ……とでも言うと思うたか! このたわけが!」
純正は机を叩いて怒鳴り散らした。
何もわかっていない。
そう言いたげである。
「……いま一度よう考えてみよ。八紘一宇は確かにわが帝国の志。然れど皆が皆得心ゆく世の中のなんと難しことか。その上で聞く。いずれじゃ? こたびはさように難しく考えなくともよい」
純正の激昂に純勝の肩が震えた。
傍らの直茂も固唾をのんで二人を見守っている。理想を語れば良いという場ではない。建前ではなく現実の、初めの一手を問われているのだ。純勝は額に滲む汗をそのままに、必死で思考を巡らせた。
同盟、冊封、国益、信義。
絡み合う糸の中から、最初に掴むべき一本を探す。
やがて、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……ポルトガルにございます」
純正は何も言わない。ただ、続けよ、と目で促す。
「我らの力の源は、欧州にまで広がる信義と交易の網にございます。その要であるポルトガルとの血の同盟を揺るがせば、帝国の礎を危うくいたします。まず同盟の信義を貫く姿勢を内外に示し、その上で、我らの威光をもってジョホールとアチェを『説き伏せ』、我らが作る新たな仕組みに従わせるべきかと存じます」
純正の口元が、わずかに緩んだ。
「しかり。まあ半分正しく、もう半分は間違いじゃ」
彼は茶を飲んでゆっくりと話しを続けた。
怒ってはない。
難しくはなく、答えはすでに決まっているのだと諭すようであった。
「平十郎、お主は初めからポルトガルポルトガルと、声を大にしておったでははいか。話を聞いたとてポルトガルとの信義は揺るがぬし、アチェもつい数年前まではジョホールに戦を仕掛けておった。ジョホールもアチェも、攻めて攻められてをもう何十年も繰り返しておる。ポルトガルと三つ巴の戦じゃ。なにゆえこたびだけ願いを聞かねばならんのだ」
純勝は答えに詰まった。
確かに、彼らの争いは今に始まったことではない。歴史を紐解けば、互いの利害がぶつかり合うのは当然のことであった。
しかし何が正しくて何が間違っているのか、純勝にはそれが分からなかったのである。
「よいか平十郎。お主は硬いのじゃ。信義と交易の網だの、血の同盟などと、いちいち仰々しすぎる。信義の姿勢を内外になど示さずともよいし、威光をもって説き伏せずともよいのだ」
純正は純勝の考えの根幹を、あっさりと否定した。
信義や威光といった大きな話ではない。もっと単純なことなのだ。
「よいか平十郎。ありゃ、我が儘でしかなかろう。なにゆえ付き合わねばならんのだ。よいか、ポルトガルがマラッカを制したのは九十年以上前ぞ。対して日葡同盟は四年前。交易の盟とて結んで四十年もならん。それより後、ポルトガルは我らに追随したゆえ、他国を攻めてはおらん。攻められてやり返しはしたがの。意味がわかるか?」
純正の言葉が、純勝の頭の中のもやを晴らしていく。
ポルトガルのマラッカ領有は確かに過去の所業。
しかし、ジョホールもアチェもまた、互いに領地を奪い合ってきた歴史がある。
三者とも三つ巴の戦を繰り返してきたに過ぎない。
その中で、日本と盟約を結んで以降のポルトガルは、侵略行為を控えている。これは紛れもない事実であった。
であるならば、ポルトガルの過去の行いのみを非とし、ジョホールとアチェの言い分を鵜呑みにするのは、あまりに片手落ちではないか。
これは信義の問題ではない。
誰が今の秩序に従い、誰がそれを乱そうとしているのかの、極めて現実的な問題なのだ。
「我らの知ったことではない昔の戦の結果を、今さらどうこうするつもりはない。されどその果として今の世の釣り合いを乱し、我らの八紘一宇の妨げとなるのであれば、話は別よ」
こちらから未来を見据えて話をし、お互いに共存できる道を探そうというのだ。
もし納得できずに決裂したならしょうがない。
どうしてもマラッカが必要だというなら、攻めはしない。
しかし攻められたら、日葡同盟に基づくのみである。
その上で純正は自らの構想を語り始めた。
マラッカの関税を調整して、代わりにジョホールとアチェの港に特定の産品の集積地としての役割を与える。
海峡全体を1つの巨大な経済圏と捉えて、分業と協業によって全体の富を増大させるのだ。
その秩序と安全を帝国の力が保障する。
誰もが損をせずに、むしろ以前より儲かる仕組みを提示するのだ。
力で押さえつけるのではなく実利で従わせる純正の構想に、純勝はただ言葉を失ったのである。
ポルトガルにはオランダに押される可能性のある香辛料貿易を、ある程度調整することで合意を得ようと純正は考えていたのだ。
次回予告 第923話 (仮)『マラッカ海峡経済圏』

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