王国暦1047年10月6日(火)10:00 = 2025年9月6日(土)23:01:16<田中健太>
イワオカに到着してから10日が過ぎた約束の日、オレたちは再びエイトリの工房を訪れていた。
この10日間にオレは毎日工房に顔を出して、細部の仕様について打ち合わせを重ねてきた。
そして今日が、全ての部品が完成する日だ。
工房に入ると鳴り響いていた槌音は止んで、静寂が満ちる。
片眼鏡をかけたエイトリが、作業台に並べられた金属部品に最後の検分を行っていた。
「来たか、小僧」
エイトリはちらっとオレたちを見ただけど、すぐに手元の部品に視線を戻した。
作業台の上には、鈍い輝きを放つ大小様々な部品が整然と並べられている。
オレが設計した印刷機の心臓部だ。
オレは無言で作業台に近づき、並べられた部品を見渡す。
活字の母型の鋭利なエッジと、トグル機構のスクリューの寸分の狂いもない滑らかな表面。
熱処理による変色の痕跡すら見当たらない、完璧な仕上がりだ。
「……素晴らしい」
自然とその一言だけが口から漏れた。
オレの言葉にエイトリは初めて顔を上げて、分厚い腕を組んだ。
「ふん。腕が鳴っただけのことよ」
オレの知識と設計を、エイトリの腕が完璧に物質化したものだ。
全ての部品を検分して木箱に慎重に詰めていく。
ずしりとした重みがプロジェクトの成功を予感させた。
「お世話になりました、エイトリ殿。この恩は忘れません」
「ふん、礼はいらん。久々に骨のある仕事だったわい。王都のバカ弟にもよろしく伝えとけ」
エイトリはぶっきらぼうにそう言うと、工房の奥へ消えていった。
オレたちはドワーフの都に別れを告げ、王都への帰路についた。
行きの道中とは比べ物にならないほど足取りは軽い。
事件が起きたのはイワオカを出て3日目、鬱蒼とした森の中で野営している時だった。
野営地は周囲の見通しが良くて、いざという時に馬車を盾にしやすい開けた場所だ。
中央では大きな焚き火がパチパチと音を立て、闇を払っている。
夕食を終えて、それぞれが思い思いの時間を過ごしていた。
レイナは馬車の荷台で、眠りかけるアンに優しく寄り添っている。
オレは焚き火のそばで手に入れた部品を思い浮かべながら、王都に戻ってからの組み立て工程を頭の中で何度もシミュレーションしていた。
エリカとルナ、マルクスは少し離れた場所で、ドワーフの都で見た技術について小声で話し込んでいる。
護衛のパーティーは持ち場についていた。
「伏せろ!」
ガルドの怒声と、金属に矢が当たる甲高い音がほぼ同時だった。
馬車の車輪の金具の木の間に、一本の矢が突き立って震えている。
それを合図に、周囲の茂みから十数人の人影が一斉に姿を現した。薄汚れた革鎧に、錆びた剣や斧を手にしている。紛れもない野盗だった。
「旦那は馬車の後ろへ!」
ガルドの指示にオレたちは即座に反応した。
レイナがアンを荷台の奥に押し込んで、オレたちは馬車を盾にするように身をかがめる。
「リーナ、後方の森に5人! セラ、防御を! マルクス、援護しろ!」
ガルドの号令でパーティーが完璧な連携で動き出す。
「プロテクション!」
セラの詠唱で、前衛に立つガルドとマルクスの体を淡い光の膜が包む。2人は雄叫びを上げて、正面から押し寄せる野盗たちに斬り込んでいった。
「燃え尽きなさい! ファイアボール!」
リーナが杖を振りかざすと、灼熱の火球が放物線を描いて後方の森に潜んでいた弓兵たちの中に炸裂した。
悲鳴と混乱が広がる。
だが、敵の数はまだ多い。
ガルドが屈強な野盗3人を同時に相手にしている隙を突いて、数人が馬車へと迫ってきた。
「行けえ!」
ルナの澄んだ声が響く。
彼女の手には、いつの間にか準備していた特製の弓と、紙筒がくくりつけた矢が握られていた。
ごおおおおん! ばああああん!
ルナの特製火箭が馬車に迫っていた野盗たちの足元で次々に炸裂した。
轟音と閃光に目がくらんで野盗たちの動きが止まる。
その隙を逃さずにガルドが敵の一人を切り伏せ、リーナが放った火の矢がもう一人に突き刺さった。
戦況は一気にこちらへ傾いた。
火箭の威力に恐れをなしたのか、野盗たちの足が止まり、後退を始める。
戦闘は終盤に差し掛かった。
誰もが勝利を確信しかけた、その時――。
「あーっ! クマちゃんが!」
馬車の荷台から、アンの甲高い悲鳴が上がった。
見ると、戦闘の衝撃で荷台から転がり落ちたのだろう。
アンがいつも抱きしめているクマのぬいぐるみが、戦闘が繰り広げられていたすぐそばの地面に落ちている。
「アン! だめ!」
レイナの制止も間に合わない。
アンは恐怖よりもぬいぐるみを失う悲しみが勝ったのか、馬車の影から飛び出してしまった。一直線にぬいぐるみに向かって走っていく。
その姿を後退していた野盗の一人が目ざとく見つけた。
追い詰められた男は背負っていた弓をつかみ、素早く矢をつがえる。
狙いはぬいぐるみを拾おうとかがむ、アンの小さな背中だった。
「やめろ!」
オレは叫んだが、声は届かない。
ガルドもリーナも、残党の掃討に手一杯で気づいていない。間に合わない。
「アン! !」
レイナの絶叫が響いた。
彼女はオレたちが止める間もなく、アンに向かって駆け出していた。
ヒュン!
と空気を切り裂く音。
レイナは、ぬいぐるみを拾い上げたアンの小さな体の前に、滑り込むようにして覆いかぶさった。
ドス。
鈍い音がした。
レイナの背中に、一本の矢が深々と突き刺さった。
「レイナさん!」
「この、外道が!」
セラの悲鳴と、リーナの怒りに満ちた声が同時に響く。
矢を放った野盗はリーナが放った巨大な氷の槍に胸を貫かれて、絶命した。主犯格が倒されたのを見て、残りの野盗たちは完全に戦意を喪失して闇の中へと逃げ去っていく。
ガルドが周囲を警戒する中、戦場に静けさが戻る。
そこに、アンの泣き声だけが響き渡った。
「うわあああん! お母さん! お母さーん!」
オレたちはレイナのそばに駆け寄った。
彼女はうつ伏せに倒れ、苦痛に顔を歪めている。
背中の矢が、荒い呼吸のたびに小さく揺れた。血がじわりと服に滲み、みるみるうちに広がっていく。
「しっかりしろ、レイナ!」
オレは彼女の肩を抱いたが、どうすればいいのか分からない。ただ、狼狽えることしかできなかった。
「エリ……」
「ケント! レイナさんをうつ伏せに! ルナはお湯を沸かして! マルクスは私の鞄から医療キットを持ってきて!」
エリカはさっきまでの混乱が嘘のように、冷静に的確な指示を飛ばす。
彼女の目は熟練の外科医の目をしていた。
「矢は絶対に抜かないで! 下手に抜けば、大出血を起こす。傷口を見て、臓器の損傷がないか確認する。輸血の準備も……」
次回予告 第11話 『闇夜の手術とLEDライト』
ドワーフの都で念願の印刷機部品を手に入れた健太一行は、王都への帰路につく。
しかし道中、野営中に野盗の襲撃に遭ってしまう。
仲間の活躍でこれを撃退するが、戦闘のさなか、アンがぬいぐるみを拾おうと馬車から飛び出してしまう。
退却する野盗が放った矢からアンをかばい、レイナが背中に矢を受けて倒れる。
レイナの容態はどうなる? 異世界でエリカの外科手術が始まった――。


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