第19話 『海上警備行動』

 令和9年8月3日(2027年8月3日)15時05分 首相官邸

 たちばなの所信表明演説が国会で終わったのが午後1時過ぎである。官邸が演説成功の祝賀ムードから解放され、通常の業務に戻ろうとしていた矢先だった。
 
「尖閣諸島、魚釣島北西沖にて所属不明の潜水艦を探知。同時に、中国海警局の船団が接続水域に侵入しました」
 
 その一報は、またたく間に官邸中枢を駆け巡る。

 内閣危機管理監からの緊急報告は、簡潔かつ重大な内容だった。

「直ちに国家安全保障会議を招集する」

 橘は受話器を置いて冷静に指示を出した。その声に動揺の色はない。

 まるでこの事態が起こるのを予期していたかのようだった。




 ■同日 15時30分 官邸地下危機管理センター

 官邸地下の危機管理センターでは、内閣総理大臣である橘を議長として、外務大臣や防衛大臣、官房長官らが席に着いている。

 室内の大型モニターには、東シナ海の電子海図が映し出された。赤い光点で示された所属不明の潜水艦と、日本の接続水域を示すラインを越えようとする複数の青い光点が、事態の切迫を伝えている。
 
「総理、これは単なる威嚇ではありません。潜水艦による領海接近と海警局船団の同時侵入……明らかに連携した、計画的な挑発行為です。我が国の主権を侵害する明確な意図があると判断すべきです」

 重い沈黙を破ったのは、防衛大臣の中川だった。

 彼は元海上自衛官であり、その表情は厳しい。

 中川は席から立ち上がり、モニターを指し示す。

「海上保安庁だけでは、この規模の船団への対処には限界があります。直ちに、自衛隊法第82条に基づく『海上警備行動』の発令を求めます」

 中川の断固たる意見に、何人かの閣僚が強くうなずいた。

 その発言に続けて、外務大臣の井上が静かに口を開く。

 声は穏やかだが、内容は中川以上に鋭利であった。

「中川大臣の言うとおりです。これは断じて看過できない主権への挑戦です。これまでのように『遺憾の意』を表明してアメリカの顔色をうかがっている間に、彼らは既成事実を積み重ねてきました。その繰り返しは、もう終わりです」
 
 井上は一度言葉を区切って、各閣僚と橘の目を見据えた。

「しかし、ただ自衛隊を派遣するだけでは不十分です。我々の行動の正当性を確保し、相手のプロパガンダを封じ込めるための外交的な手を、同時に、かつ迅速に打たねばなりません」

 彼の視線が、より一層鋭くなる。

「ではどうする?」

 橘が短く聞いた。

「まず中国には外交経路で通告します。内容は『貴国の海警局船団による、領海侵入を企図した極めて危険な挑発行為に厳重に抗議し、即時退去を求める』でいいでしょう。接続水域の通航自体は問題にしません。その明確な意図を断定して非難するのです。同時に国籍不明の潜水艦の動向を伝えます。『重大な懸念をもって注視している』と。これで彼らの連携を暗に指し示します」

 井上は続けた。

「次は同盟国アメリカへの対応です。『当事者間の平和的解決を望む』といった他人事の声明を出す前に先手を打ちます。日米安保条約に則り、閣僚級で緊急協議を申し入れるのです。その後、緊密な情報共有と共同の警戒監視体制の強化を話し合うのが良いでしょう。これは同盟の抑止力を明確に示すための政治的な一手です」

 最後に井上は、アメリカ以外の国際社会への対応に言及した。

 現時点での静観を主張したのである。

 先に大声で非難を始めるのは得策ではない。

 国際社会では最初に感情的な声明を出す側が不利になるケースが多いのだ。彼はその大きな不利益を熟知している。

 日本が外部に発信するのは1つの事実に限ると結論づけたのだ。

『日本の主権と国民の安全を守る。そのために国際法にのっとり、冷静で抑制的な対応を貫徹している』と。

 井上の発言は高度な戦略に基づいていた。

 軍事行動と外交戦略を緻密に連携させて相手の動きを封じ、同盟国を巻き込む。

 そして国際世論を味方につける狙いがあった。

 弱腰な対応に終始した外務省の過去の姿とは全く違う、断固たる決意を示したのである。

 閣内の空気は、もはや「強硬か、慎重か」ではなかった。

『いかに、断固たる行動を取るか』の一点に絞られていた。

「二人とも意見は同じなのですか。……いいでしょう」

 橘は中川と井上の意見を満足げに聞いていたが、決然とした表情で中川に向き直った。

「自衛隊を出動させます。この事態に即応できる、最も適した部隊はどこですか」

「統幕長、海幕長、説明を」

 中川は間髪を入れずに統合幕僚長と海上幕僚長に指示した。

 制服組のトップである統合幕僚長が、隣に座る海上幕僚長に目で合図を送る。指名された海上幕僚長の斎木は、すっと立ち上がってモニターの前に進み出た。

「この任に最も適しているのは、佐世保を母港とする『第一機動護衛隊』です」

 斎木は手にした指示棒で電子海図を指し示した。

「護衛艦『飛龍』を旗艦とし、最新鋭のイージス護衛艦、汎用護衛艦、そして潜水艦で構成される、我が国で最も高い即応打撃力を有する部隊です。いかなる事態にも即座に対応可能です」

「分かった。よろしく頼みます。直ちに海上警備行動を発令する。第一機動護衛隊に出動を命じ、中国海警局船団による領海侵入を断固として阻止せよ。外務大臣は国連とアメリカ、そして各国への対応を」

「承知いたしました」

 中川と井上は、席に着いたまま深くうなずいた。

 橘は最高指揮官としての大枠の決定を下すことに徹している。

 どの部隊を使い、誰が指揮を執るかなどの具体的な運用は、専門家である防衛省・自衛隊に委ねるのだ。それがシビリアンコントロールの原則であり、効率的な危機管理の鉄則だった。




 ■同日 16時45分 首相執務室 国家安全保障会議が閉会した直後――。

 執務室には橘と中川、そして官房長官の藤田健介の3名だけが残っていた。

「総理、先ほどの出動命令に関連して、ご報告しなければならない最高機密事項があります」

 中川は極めて硬い表情で切り出した。

「何だ」

「先ほど出動を命じられた第一機動護衛隊ですが、その指揮官についてです」

 中川は一度言葉を区切って、意を決して続ける。

「私は前内閣の防衛大臣だったので知っているのですが、特定秘密保護法に基づいてNSC(国家安全保障会議)内で保持されていた内容です」

「ん? ずいぶん仰々しいですね。いったい何のことですか。その司令官が、どうかしたんですか?」

 橘は中川の言う意味が分からない。

「実は……その隊司令、山口多聞と言うのですが……。現代の日本人ではないのです」

「……は? 中川大臣、あなたはいったい何を言っているんですか? こんな時に冗談なんて」

「冗談ではありません」

 中川はそう言って、山口が太平洋戦争のミッドウェー海戦からタイムスリップしてきた事実を告白した。

 前政権下でその事実が国家機密として秘匿されてきた事実や、彼らが海上自衛官として再生するに至った2年間の特別教育課程の概要を、淡々と、しかし正確に説明したのである。

 にわかには信じがたい報告に、さすがの橘もわずかに眉を動かした。

 報告が終わると重い沈黙が執務室を支配した。

 橘はしばらくの間じっと中川の目を見つめていたが、やがて短く、核心を突く質問を発した。

「その方は、有能なんですか」

 感情を排し、ただ国家の道具としての性能を問う冷徹な質問である。

 中川は、その問いに迷いなく答えた。

「はい。彼は現代の装備と情報戦を完全に理解したうえで、我々にはない百戦錬磨の実戦経験と戦術眼を持っています。この状況を任せるに、彼以上の適任者は存在しません」

「……よろしい」

 橘は静かにうなずいた。

「この件、以降の報告は私に直接上げてください」

 こうして日本の新たな最高指揮官は、国家が抱える最大の秘密を、その就任初日に引き継ぐことになったのである。




 次回予告 第20話 (仮)『波紋』

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