令和9年8月2日(2027年8月2日)
日本の新政権誕生の翌日、海外メディアは一斉に反応を示していた。
――北京・人民日報 ――
『極右政権、日本に誕生 ―― 戦時回帰の危険』
記事はこう続く。
『日本新生党とその連立勢力は、軍国主義の亡霊を呼び覚まし、アジアの安定を脅かしている。尖閣諸島問題において中国の正当な権益を否定し、危険な挑発政策を採ろうとしているのだ』
――ソウル・ハンギョレ新聞 ――
社説のタイトルは辛辣である。
『歴史修正主義者 橘内閣発足』
『日本の右傾化は最悪の段階に突入した。慰安婦、徴用工など歴史問題での反省は水泡に帰した。韓国政府は毅然とした外交的対応を取らねばならない』
――ニューヨーク・タイムズ ――
冷静さを装いつつも、懸念を隠さない。
『ポピュリストの台頭か? アジアの情勢への影響は?』
『橘孝太郎は人々の不満を糾合し、強い日本を掲げて政権を奪取した。その手腕は注目すべきだが、隣国との緊張を高めれば、日米同盟の負担は増すだろう』
――ロンドン・タイムズ ――
『新しい右翼旗手、日本に現る』
簡潔な見出しであった。
『欧州から見ればこれは既視感ある現象だ。冷戦後、幾度も現れたポピュリスト指導者たち。橘の行く先は、アジア全体の安定を左右する要因となる』
――東京・朝日新聞――
国内でも批判的論調が紙面を飾った。
『危ういナショナリズム』
『スパイ防止法を旗印に掲げる新政権の姿勢は、市民社会の自由を脅かす危険を孕む。民主主義を守る戦いは始まったばかりだ』
――東京・産経新聞――
対照的に、別の紙面は熱気を帯びていた。
『戦後体制に終止符――橘内閣始動』
『敗戦から七十余年、日本はついに自立への道を歩み出した。橘内閣のみが国の尊厳を取り戻す力を持つ』
その映像と紙面は瞬く間にSNSで拡散され、国民の間に『誇り』と『不安』が同時に広がっていった。
「総理! 朝日新聞の御厨です。韓国では歴史を捻じ曲げる内閣が誕生したと新聞が報じていますがいかがでしょうか?」
首相官邸から出てきた橘に対して記者が質問を投げかけた。
「へえ……そうなんですか」
「へえ? へえ、とは何ですか」
御厨は淡々とした橘の対応に多少苛立っているようだ。
「ですから、へえ、ですよ。それ以上でもそれ以下でもない」
橘は歩くのを止めず、囲み取材の記者たちを一瞥すると淡々とした声で続けた。
「韓国の新聞が何を書こうと、こちらが一々反応する義理はありません。我々が応えるべきは、国民の声だけです」
マイクがあちこちから突き出される。
「総理! 中国は貴国を“軍国主義国家”と批判しています!」
「なるほど」
「スパイ防止法は報道の自由を奪うと国内外で懸念が出ています!」
「そうですか」
記者たちの声が重なり合うが、橘の答えは要領を得ない。
ようやく足を止めると、官邸の玄関前で振り返った。
蒸し暑い夏の風に記者のフラッシュが重なる中、その表情は微動だにしない。
「中国? 韓国? あるいは海外の新聞? ――はっきり申し上げて、これまでの日本政府は格好つけだったんですよ。八方美人もいいところ。言うべき言い、やるべきはやらないと、独立国家たりえません」
記者団が息を呑んだ。
静かながらも強い響きを帯びた言葉が記者たちを飲み込む。その場にいた御厨記者は皮肉を呟くことも忘れ、ただメモを取るしかなかった。
橘は公用車の前で止まり、SPが扉を開く。
記者たちに短く告げた。
「所信表明は明日です。――その時に、私の答えを聞いてください」
■翌日 令和9年8月3日(2027年8月3日) 国会議事堂 本会議場
議場は与野党の議員で埋め尽くされ、静寂の中にも緊張感が漂っていた。
2階席の傍聴席も満席で、多くの国民が歴史的瞬間を見守っている。
議場後方に設置された固定カメラが粛々と撮影を続け、記者席では報道陣がペンを握りしめて待機していた。テレビ中継を通じて、日本全国、そして世界の注目がこの一点に集まっている。
議長の重々しい声が静まり返った議場に響き渡る。
「これより、内閣総理大臣の所信表明演説を行います。内閣総理大臣、橘孝太郎君」
万雷の拍手と野党席からの冷ややかな視線の中、橘はゆっくりと演壇へ向かった。
一礼してマイクの前に立つ。
昨日までの喧騒が嘘のように、議場は静まり返っていた。
「第105代内閣総理大臣を拝命いたしました、橘孝太郎であります」
落ち着いた、しかし芯の通った声が議場に響く。
「昨日、国内外の様々なメディアが、私の内閣に対し、実に多様な評価を与えてくださいました。『極右』、『歴史修正主義者』、『ポピュリスト』。――結構です。我が国の国民の生命と財産、名誉を守り、主権国家として国益を追求する行為がそう呼ばれるのであれば、私はその全てのレッテルを甘んじて受け入れましょう」
野党席からどよめきとヤジが飛ぶ。
「開き直る気か!」
「不見識だぞ!」
橘はヤジを一瞥すると、構わず言葉を続けた。
「もはや、外国からの批判を恐れ、国益を損なう『配慮』や『忖度』の時代は終わりました。我が国は独立国家として、言うべきを言い、守るべきを守る。その当然の姿勢を取り戻さなければなりません。そこから私の内閣は始まります」
橘はそこで一度発言を止めた。
ヤジがなくなり、自らに注目が集まるのを待って再開する。
「まず、安全保障について。我が国固有の領土、領海、領空に対するいかなる挑戦も、我々は断固として許しません。特に、尖閣諸島周辺における挑発行為は看過できない水準に達しています。海上保安庁の体制を抜本的に強化すると共に、自衛隊との連携をこれまで以上に緊密にし、シームレスな対応を可能とする法整備を進めます」
与党席から『そうだ!』と賛同の声と力強い拍手が起こる。
閣僚席に座る防衛大臣に再任された中川が、固く口を結んでうなずいていた。
「次に、かねてよりお約束してきた『スパイ防止法』の制定を、今国会の最重要法案と位置づけます」
その言葉に、野党席からのヤジは一層激しくなった。
「国民を監視する気か!」
「戦前回帰だ!」
橘は、そのヤジを遮るように声を一段と張った。
「これは特定の思想を取り締まったり、言論を封殺したりするためのものでは断じてありません! 外国勢力による工作活動や重要技術の窃取、そして世論の分断工作から、この国の主権と国民の生活を守るための『防波堤』であります! 自由は国家という防波堤があって初めて守られるものです!」
闘志を燃やして右手を握り固め、顔の横から勢いよく前へ押し出すポーズを取った。
その熱意に、与党席の拍手はさらに大きくなる。
橘はそれを制するように手を軽く上げ、テーマを転換した。
「そして強い国家の礎は、強い経済にあります。『失われた30年』という言葉に、我々はもう別れを告げねばなりません。大胆な減税と規制緩和を断行し、国民の皆様が豊かさを実感できる経済を必ずや取り戻します!」
それまでの鋭い論調を和らげ、橘の視線は議場からカメラのレンズへとまっすぐに注がれた。その声は国民の心に直接響くことを明らかに意図している。
静かだが強い熱を帯びていた。
「皆さん、もはやうつむくのはやめましょう。戦後レジームから自らを解き放ち、この国に生まれたことに誇りを持ち、未来に希望を持てる日本を、共に作ろうではありませんか。私の内閣は、その先頭に立つことを国民の皆様に固くお誓い申し上げ、私の所信表明といたします」
演説が終わると与党席からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。
野党席からのヤジは一向に止まないが、それ以上の迫力の歓声にかき消されてただの雑音になっている。
ある者はふてぶてしく腕を組んでしかめっ面になり、ある者は呆然と演壇を見つめていた。
■同日 海上自衛隊佐世保基地 第一機動護衛隊司令部
大型モニターに映し出された国会中継を、山口多聞は腕を組んで微動だにせず見つめている。
隣には、同じく厳しい表情の加来止男と鹿江隆が控えていた。
橘の演説が終わると、鹿江が低く唸る。
「……凄まじい演説ですな。敵味方をはっきりさせ、国民を鼓舞する。まるで戦の前の檄文のようだ」
「ええ。ですが、あまりに敵を作りすぎてはいませんか。外交とは、本来そういうものではないはず……」
加来が懸念を口にした。
「言葉は力強い。人心を掴む術も知っている。だが……」
山口は、しばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
モニターに映る、拍手に包まれる橘の姿から目を離さずに続ける。
「言葉だけでは、国は守れん。山本五十六長官が最も嫌ったのは、勇ましい言葉だけで実が伴わんことだった。この男の『実』が、これから示されるのだろう」
その言葉が、まるで未来を予見するかのように響いた、その時だった――。
執務室の扉が慌ただしくノックされ、息を切らした通信士官が駆け込んできた。
「司令! 第一(護衛)艦隊司令部より緊急連絡です!」
「どうした」
「先ほど、尖閣諸島、魚釣島の北西40カイリの海域にて、所属不明の潜水艦を探知! ほぼ同時に、中国海警局の大型船多数が接続水域に侵入したとの報が入りました!」
山口の目が鋭い光を放った。
「……来たか」
橘内閣の覚悟を、そして日本の『実』を問う、最初の試練が始まろうとしていた。
次回予告 第19話 (仮)『海上警備行動』

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