第419話 『その火薬、歴史を塗り替える』

 慶応三年七月二十一日(1867年8月21日)

 フランス外務省別館の大会議室には、これまでにない緊張感が漂っている。

 日仏間の技術供与協定の詳細を決める重要な会談が始まろうとしていたのだ。

 フランス側はムスティエ外務大臣を筆頭に、軍事技術担当官、財務担当官が控えている。

 日本側は慶勝を中心に、外国奉行の小出秀実、向山黄村、石川利政、通訳の栗本鋤雲が前列に座っていた。

 後列には次郎、彦次郎、隼人、廉之助、顕武、そして通訳のお里が控えているが、昭武は今回慶勝側である。

 昨夜の打ち合わせで、日本側の方針は明確に決まっていた。

 あとは交渉次第で、どこまでそれを下げられるかが勝負である。

「本日は貴重なお時間をいただき、感謝いたします」

 ムスティエが会談の口火を切った。

「こちらこそ。600万ドルのファンドは我が国にとって大変魅力的な提案です」

 慶勝が丁寧に応じた。

 魅力的どころか、必要不可欠である。

 ただし、もし決裂したならば、オランダに同様の提案を持って行こうと考えていた。

「では、具体的な技術供与の内容について協議させていただきましょう。まず、我が国が最も関心を持っているのは火薬製造技術です」

 フランス側の軍事技術担当官が資料を開いた。

「特に、万博で展示された火薬の製造技術について、詳細をお聞かせいただきたい」

 慶勝は次郎に目配せした。 

「その前にお伺いしたい。なぜ、我が国の火薬技術の供与を希望されるのでしょうか?」

 次郎が立ち上がって慎重に答えると、お里が流暢なフランス語で通訳した。

 フランス側の軍事技術担当官は、次郎の質問に一瞬戸惑った様子を見せたが、すぐに気を取り直して答える。

「貴国の万博での展示は、我々に大きな衝撃を与えました。特に、あの煙の少ない火薬と、それを用いた新型小銃、機関銃は、従来の火薬と銃器の概念を根本から覆すものです」

 一呼吸置き、日本側の出席者を見回した後さらに続ける。

「我が国では、まだそのような画期的な火薬の実用化には至っておりません。この技術を導入できれば、フランス軍の近代化は飛躍的に進むでしょう」

 彼の言葉は正直だった。煙が少ないだけでなく、発射煙が少ないことによる射程、威力、連射速度すべてにおいて優位性を持つ火薬。

 これを手に入れれば、フランスは再び欧州の軍事バランスにおいて優位に立つことができると考えているのだろう。

 しかし……。

 無煙火薬は、従来の黒色火薬に比べて『煙が少なく、約3倍の高威力で、燃焼後の残留物が少ない』という特徴を持つ。

 このため銃器は、100~400MPaもの高圧に耐えるために、銃身や薬室に高強度鋼を用いるなど、構造の強化が必要が必要になる。

 しかし、現状では大村藩以外に実現可能な国はない。

 自動火器の信頼性や射撃時の視界も向上し、メンテナンスも容易になるなど、運用面が劇的に改善されている。

 また、高いエネルギー効率は少ない火薬量で高い初速を実現し、大口径砲の軽量化や長砲身化を可能にしているのだ。

 ただし、その威力ゆえに古い黒色火薬用の銃で使うと破裂の危険が伴う。

「この火薬の原料はニトロセルロース。ニトロはご存じですよね? それを安全に利用できるよう開発したものです」

 火薬の製造法だけならいい。これだけでも相当な他国に対するアドバンテージだ。

 B火薬が発明されるのは1880年代なのだから。 

 フランスがこの技術を手に入れれば、欧州での軍事バランスが大きく傾くのは明らかだった。

「ニトロセルロース……」

 フランス側の技術担当官は顎に手を当て、深く考え込んだ。

 ニトロセルロースはすでに知られていたが、その不安定さから兵器への応用は困難とされていたのだ。

「それを安全にとおっしゃいますが、実演されたということは、おそらくは配備もされているのでしょう。それならば、その製造技術を供与していただけるのでしょうか」

 彼の言葉に、次郎は慶勝を見た。

 想定問答どおりに進む交渉に、慶勝の顔からは笑顔が消えない。

「はい、その準備はできています。しかし、ここで2点、考慮しなければならい問題があります。1つは、この交渉は借款でもなくファンドでもなく、技術供与の対価としての600万ドルになり得るのではないか、という点」

 担当官の顔がぐっと引き締まり、ムスティエを見る。

 ムスティエは黙ってうなずき、次郎の説明を促した。

「もう1つは、この技術供与によって、フランスの軍事的優位が確立される点です」

 場が、静まりかえった。

 フランス側の誰もが次郎の次の言葉を待っている。

「無煙火薬を使えば、戦場での視界改善により射手の隠蔽性が大幅に向上し、継続的な射撃ができます。その最も重要な変化は、密集隊形から分散戦術への移行です」

 次郎はゆっくり、はっきりと断言しつつ、続ける。

「従来の戦術では、不正確な火器の威力を補うため密集した隊形で一斉射撃を行っていました。しかし、無煙火薬によって射程と精度が向上すると、密集隊形は格好の標的となってしまいます」

 あとは言わずもがなである。

 線形戦術から小部隊機動戦術へと変化していくのだ。 

「要するに彼我の戦力が同じであっても、いや、劣勢な状況でさえ、無煙火薬を用いれば勝てるのです。勝てる状況が生まれるのです。例えて言えば……そうですね、昨年の普墺戦争で見せたドライゼ銃。あれは戦場を一変させました。それと同等以上の効果があるのです」

 普墺戦争におけるドライゼ銃の威力。

 フランスはあわててジャスポー銃を開発したのだ。

 その威力を知らないはずがない。

 それと同等以上だという次郎の言葉に担当官は質問をなげかける。

「ドライゼ銃は後装式で装填速度の劇的な向上がありました。さらに伏せたままで装填可能な点で、ミニエー銃を過去の遺物にしたのです。無煙火薬もそれと同じレベルの変革をもたらすとお考えですか?」

「そうお考えだからこそ、供与を望まれたのではありませんか? 私がその戦術的意義を述べても述べなくても変わりません。威力と射程に関しては実演の通りです」

 次郎はさらりと受け流したのだ。

「だたし」

 次郎はもう一度、フランス側を見渡した。

「この技術がフランス単独に供与された場合、欧州の軍事バランスに深刻な影響を与える可能性はお話しした通りです。そうなると、プロイセン、オーストリア、ロシア、イギリス、オランダからの反発は避けられないでしょう」

 ムスティエをはじめフランス側全員が眉をひそめている。

「それは我が国が外交的に孤立する危険性を秘めています。特定の国に革新的な軍事技術を提供すれば、我が国の安全保障上の大きな懸念材料になるからです」

「……ではいったい、どうすればいいのですか?」

「現在のパワーバランスを変えない。つまり、同じ条件で他の国へも供与いたします。もちろん、それぞれに必要とする技術は違うでしょうから、それを優先させますが」

 電磁波の技術は無線通信が可能となるだろう。

 レーダーの概念はまだ先だが、製鉄技術や溶接は、軍艦や兵器製造に直結する。

 大村藩が展示した技術は、どれをとっても軍事バランスを一変させる品物ばかりだったのだ。

 次郎の提案に、フランスの交渉団の人々は再び互いに顔を見合わせる。

 無煙火薬という喉から手が出るほど欲しい技術が、自国単独の優位性をもたらさないというのだ。

 ムスティエが口を開こうとしたその時、後列に控えていた慶勝の弟、昭武が前列に移動し、栗本鋤雲を通じて発言した。

「我が国は、フランスを重視しております。それは間違いありません。フランスが、我が国が持つ他の技術、例えば電信や製鉄、医療技術などに強い関心を持っておられることも承知しております。それらを組み合わせれば、フランスの産業はさらに発展するでしょう」

「黙らっしゃい! 何の権有りて物申すか! わきまえよ!」

 鋤雲が通訳する前に、慶勝は昭武を怒鳴り散らした。

 当然、昭武の言葉はフランス側には伝わらず、内輪もめをしているように映っている。

「失礼いたした。後学のために若年の者を同席させていますが、お気になさらずに。続けましょう」

 今度はしっかりと伝わった。 

 昭武はしょんぼりしているが、次郎は苦笑いである。 

「我が国としては開国して十五年足らず、通商にいたっては正式に始めて十年にもなりません。諸外国と対等につきあっていくには、特定の国だけに軍事技術を提供するのは極めて危険なのです」

 慶勝の目配せを受けて、次郎が交渉を再開した。

 と同時に、次郎は顕武に命じて無煙火薬の軍事利用に関するシミュレーション結果の書類を用意させた。

 フランス側からの質問に対応するためである。

 また、隼人と廉之助に対しては、技術供与に必要な期間や費用等の試算表を準備させた。

「……では、この話は……回りくどくなってしまったが、白紙に戻したいということでしょうか?」

「いえいえ、そうではありません。まずは火薬ということで、例えば製鉄や加工技術は二の次三の次とお考えでしょうか」

 欲を言えば全ての技術供与を受けたいのがフランスの本音である。

 しかし、次郎の言うとおり火薬技術が最優先であった。

 電磁波や潜水艦、魚雷等もあったが、即実用化できそうなのが火薬である。

「優先順位を考えれば、そうなります」

「なるほど。では無煙火薬の製造管理技術に関しては、貴国に優先的に供与いたしましょう。ただし、貴国から他国へは絶対に供与しないことをお約束ください」

「もちろんです」

「他国の要望はわかりませんが、他国においても同様に制約を設けます。これはいかなる技術も例外はありません

「それがよいでしょう」

 第1段階:基礎技術供与(契約締結後すぐ)

 無煙火薬の基本的な製造理論と安全技術の提供

 支払い:600万ドルの第1回分割払い

 第2段階:製造設備設置(契約後3-6ヶ月)

 専用製造設備の設置と調整

 支払い:第2回分割払い

 第3段階:技術者派遣(設備完成後)

 半年間の技術者派遣(化学技術者2名、機械技術者1名、安全管理専門家1名)

 実際の製造技術の完全移転

 支払い:第3回分割払い(技術者派遣完了時)

 技術習得に必要な期間(約18か月)

 無煙火薬の製造技術は高度な専門知識を要するため、フランス側の技術者が完全に習得するまでには相当な期間が必要。

 ニトロセルロースの安定化技術:最も重要かつ困難な技術

 安全な製造プロセス:爆発事故を防ぐための細心の注意が必要

 品質管理技術:一定品質の火薬を継続的に製造する技術

 これがフランスとの第1回協議の内容であった。

 次回予告 第420話 (仮)『第2回協議とアメリカ・オランダ・ロシア。そしてカナダ』

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