慶応三年五月二十三日(1867年6月25日)フランス・パリ
「俊之助、準備は整っているか?」
明け方から小雨が降っていたパリの街も、正午近くになるとようやく晴れ間が見え始めた。万博会場にはいつものように多くの人々が訪れ、技術の祭典を楽しんでいる。
今日、日本パビリオン特設会場では、大村藩の医師、俊之助による医療技術講演会が開かれることになっていた。
会場には既にパリ医学界の著名人たちが多数集まり、期待に満ちた空気が漂っている。
「はい、すべて順調です」
俊之助は落ち着いた様子で答えた。
彼は白い上着を身にまとい、最新の外科用器具を慎重に並べている。その傍らには、薬品のサンプルやモデルも整然と配置されていた。
「アーク溶接の展示以来、各国の技術者たちの視線が変わってきたな」
次郎が言うと、隼人が頷いた。
「はい。特にプロイセンの技術者たちは、私たちの展示に強い関心を示しています。昨夜も数人がパビリオン周辺をうろついていました」
「うむ、警戒は続けよ」
「兄上、お客様が到着し始めました」
廉之助が会場から駆け込んできた。
次郎は思考を切り替え、講演会の準備に意識を向ける。
「よし、始めよう」
会場には100名近い参加者が集まっていた。
フランスの医学会からは著名な医師たちが顔をそろえ、他のヨーロッパ諸国からも医学研究者が訪れている。
彼らは前日までの技術展示に驚嘆し、日本の医学にも強い関心を持ったのだ。
「皆様、本日は『医療の進歩』と題した講演会にお集まりいただき、誠にありがとうございます。日本の医療技術について、大村藩医学総監督の長与俊之助を紹介いたします」
次郎は俊之助を紹介し、壇上を譲った。
俊之助は、通訳を介してゆっくりと話し始める。
「本日は三つの重要なテーマについてお話しします。まず消毒法と感染防止、次に麻酔法と外科手術、そして予防医学としてのワクチンです」
会場からは興味深そうなざわめきが起こった。
特にワクチンという言葉に、医師たちは顔を見合わせた。ジェンナーの天然痘ワクチンは知られていたが、それを超える概念に思えたからだ。
俊之助はまず、綺麗に磨かれた手術器具を示した。
「従来の医療では、手術後の感染症が大きな問題でした。しかし、これは避けられない運命ではありません。原因は微小な生物—私たちはこれを『細菌』と呼んでいます—が傷口に入ることにあります」
彼は顕微鏡を取り出し、あらかじめ準備しておいた標本を見せた。そこには水滴の中で活動する微生物が確認できた。
「これらの細菌は目に見えませんが、熱や特定の薬剤で殺すことができます」
俊之助は次に、石炭酸(フェノール)と希釈アルコールを使った消毒法を実演した。豚の皮を使い、消毒前後での細菌の数の違いを顕微鏡で示したのだ。
「手術前に医師の手と器具をこのように消毒するだけで、感染症の危険性が劇的に減少します」
会場の医師たちは熱心にメモを取り始めた。
特にフランスの外科医たちは、この単純ながらも理にかなった方法に強い関心を示している。
続いて、麻酔法の説明と実演が行われた。
俊之助は西洋で使われ始めていたエーテルやクロロホルムの適切な使用法を、さらに詳しく進化させた形で解説したのだ。
「麻酔の深さを正確に管理することで、患者の意識だけを一時的に遮断し、生命機能は正常に保つことができます。ここで重要なのは、投与量と呼吸管理です」
彼は麻酔用のマスクと精密な滴下装置を示した。これにより麻酔薬の量を厳密に制御できることを説明したのである。
「このシステムにより、外科手術の成功率が飛躍的に向上します。痛みからの身体的ストレスがなくなり、医師はより複雑な手術に集中できるのです」
講演の最終パートは予防医学の概念の紹介である。
俊之助は様々な伝染病のワクチンについて説明し、その原理と製造法を解説した。
「天然痘だけでなく、多くの疫病は弱毒化された病原体を接種することで予防可能です。これにより人体は『抗体』と呼ばれる防御物質を作り出し、本物の病気から身を守るのです」
特にコレラやチフスなどの水系感染症の予防と、衛生管理の重要性が強調された。実際に日本で導入されている浄水システムの図も示された。
「パリでもコレラの流行がありましたが、適切な水の処理と衛生管理によって、これらの疫病は大幅に減少させることができます」
質疑応答の時間では、パリ医学界の権威たちから熱心な質問が相次いだ。
聴衆の一人、ロベルト・コッホが、やや懐疑的な面持ちで口を開いた。彼がまず問いただしたのは、俊之助が『細菌』と称した微小な生物についてである。
「それが本当に病気の原因であるという明確な科学的証拠はございますか? 我々の知る限り、腐敗は自然発生的なものと考えられており、目に見えない生物が傷口で増殖し、病気を引き起こすというのは、いささか飛躍した概念に思えるのですが」
彼は従来の医学常識との隔たりを指摘した。さらに、パスツールの研究についても触れる。
「細菌が外科手術の感染症に直接結びつくというには、まだ多くの検証が必要ではないでしょうか」
関連性に疑問を呈したコッホに対して、俊之助は静かに頷き、丁寧に答え始める。
「ご指摘の通り、この『細菌』は肉眼では捉えられませんが、特定の条件下で増殖し、病原性を示すことが繰り返し観察されております」
俊之助は細菌の特性と病原性について、数多の症例を通じて確認していると説明したのだ。
時間の制約から詳細なデータ提示は叶わないとしつつも、『我々の研究室では、これらの細菌の特性をさらに深く探求しております』と、研究の継続を示唆した。
次に質問したのは、英国から来た著名な外科医、ジョゼフ・リスターである。
彼はまさにこの1867年に、石炭酸を用いた消毒法の論文を発表したばかりであり、その手法の有効性を自ら実証している最中であった。
彼の目は、俊之助の言葉に強い関心を寄せていた。
俊之助の消毒法に関心を示しつつも、ある懸念を口にしたのである。
「先生の消毒法について、お伺いいたします。石炭酸を用いた消毒法は、私がランセット誌に発表したばかりの研究と類似しておりますが、先生はどのような経緯でこの方法に至ったのでしょうか?」
と、その着想の経緯を尋ねたのだ。
「その刺激性や毒性も懸念されます。患者や術者に安全に適用できるとお考えでしょうか」
石炭酸の強力な殺菌作用は認めつつも、安全性への問いを投げかけた。
リスターの研究については、俊之助も承知していたので、落ち着いた声で続ける。
「我々も独自に研究を進める中で、石炭酸の殺菌効果に着目いたしました」
安全性に関しても、彼は自信を覗かせた。
そして、慎重な使用を前提とした安全性を強調するように言葉を重ねる。
「適切な希釈濃度と使用法を厳守することで、その毒性を抑えつつ、消毒効果を最大限に引き出すことが可能です。我々の経験では、注意深く用いれば患者への悪影響は最小限に抑えられます」
アメリカから来たウィリアム・モートンが、身を乗り出すようにして口を開いた。
彼の関心は、俊之助が述べた麻酔深度の精密な制御にあった。
「麻酔法について、特にその『精密な滴下装置』と『呼吸管理』による麻酔深度の制御についてお伺いします」
彼はそう切り出し、麻酔導入において、西洋医学界が直面してきた最も困難な課題の1つであると続けた。
「麻酔薬の投与量の調整は未だに熟練した医師の経験と勘に頼る部分が大きいのが現実です。患者の意識を遮断しつつ、生命機能を完全に維持するという理想的な状態を、そのような精密な管理で実現されているとすれば、驚くべき進歩であります。どのようにしてその技術を確立されたのでしょうか?」
モートンは驚嘆の念を込めて尋ねたのである。
俊之助は、麻酔管理の重要性を改めて説き始めた。
質疑応答はまだまだ続く。
次回予告 第409話 (仮)『医療の進歩その2』

コメント