第32話 『鉄は国家なり』

 1591年11月 オランダ アムステルダム

 アムステルダムの冬は、厚い雲が空を隠していた。

 街には冷たい空気が漂う。

 それとは対照的に証券取引所の周りは人でいっぱいだった。

 行き交う人々が発する確かな熱気がある。

『オラニエ蒸気機械会社』の株価は公募価格を大きく上回り、ネーデルラント連邦共和国に新たな時代の到来を告げていた。

 オラニエアカデミーの一室で、フレデリックは円卓を囲む仲間たちの顔を見渡した。

 シャルロットのおかげで目標を大きく上回る資金が確保された今、彼らの次の目標は最も困難な製鉄である。

「みんな、資金は集まった。これでオレたちの計画は、ようやく本当の意味でスタートラインに立てる」

 フレデリックの言葉に一同は静かにうなずいた。

 その視線の先にはテーブルの中央に広がった1枚の巨大な設計図がある。

 元ドイツの技術者ハインリヒ・ベサーは、武骨な指で図面の一点を指し示した。

「アムステルダム郊外のザーン川沿いの湿地帯。ここにオレたちの未来の全てを建設する」

 図面には奇妙な形状の炉や巨大な建造物、そしてそれらを結ぶ複雑な動線が、精密な線で描き込まれていた。

 それは、この時代の誰の目にも理解不能な、異世界の工場地帯の設計図である。

「まず、イングランド産の石炭を蒸し焼きにして、『コークス』を製造するための炉を建設する。これまでの木炭じゃ、オレたちが求める高温と安定した品質は到底得られない。値段も高いしね」

 ハインリヒはよどみなく説明を続けるが、フレデリックが遮った。

「ちょ、ちょっとまってくれ。木炭の代わりはわかるけど、イングランドから輸入? 石炭はトンあたりいくらするんだ? 鉄(銑鉄)1トンつくるのに、いくらかかるんだ?」

 フレデリックの矢継ぎ早の質問にハインリヒは少し驚いたが、すぐに手元の帳簿を見た。  

「……相場どおりなら、ニューカッスル炭はトンあたり4~8ギルダーだ。これをコークス炉で蒸し焼きにする。歩留まりは約65%。つまり石炭1トンから650キロのコークスができる」  

「じゃあ、そのコークス1トンで? 何トンの鉄鉱石から何トンの鉄ができるんだ?」 

 フレデリックが畳みかけた。  

「鉱石の品質によるな。スウェーデン産なら鉄分が6割以上あるから、鉱石2.5トンで銑鉄1トンができる」

「なるほど、それで最終的な……要するに鉄だけど、鉄(銑鉄ではない)1トンを得るのに、鉄鉱石が何トン必要で石炭が何トン必要なんだ?」

「待て待て、そう急かすなよ」

 ハインリヒは机上の羊皮紙にざっと数字を走らせ、線を引いた。  

「まず整理しようか。スウェーデン産の高品位鉱石を基準にする。鉄分は6割以上だ。鉄鉱石2.5トンからできるのは銑鉄1トン。それから精錬して10~15%減るから、最終的に鉄1トンを得るには約2.8~3トンの鉄鉱石がいる」  

「なるほど」

 フレデリックが顎に手を当てる。

「じゃあ燃料は?」  

「鉱石1トンを処理するのに必要なコークスは約0.5トン。鉱石3トンならコークスが1.5トン要る。それからコークス1トンを作るのに石炭1.5トンを必要だから……つまり、最終的に鉄1トンを得るのに石炭は約2.2~2.5トンいる計算になるな」  

 円卓が静まり返った。数字が示す物量の膨大さに、誰もが言葉を失う。  

 やがてシャルロットが表を見つめながらつぶやく。

「鉄1トンのために鉱石3トン、石炭2.5トン……つまり、山5つを削ってたった1トンの鉄しかとれないわけね」  

 オットーが苦笑まじりに言う。

「まさしく血の一滴。その鉄が大砲や銃になれば、人間の命を奪っていくのだから皮肉だ」 

「でも同時に、それだけの鉄を供給できれば共和国は負けない。スペインにも大陸の諸侯にもだ」  

 フレデリックが腕を組んだまま低い声で言って続ける。

「――よし、理解した。鉄1トンは鉱石3トンと石炭2.5トン。大変な量だけど、だからこそオレたちが握れば他国に絶対の優位を持つ。問題は、スウェーデンとイングランドからの輸入依存だな。値段は結局、鉄1トンを作るのに鉄鉱石が150ギルダーと石炭が15ギルダーだな」 

 鉄1トンに165ギルダーであった。

 しかし、これは原材料のみである。製造費用を加えれば……。

「20~30ギルダーは必要だろうな」

 コストがどんどん跳ね上がっているが、結局は1トンあたり200ギルダー近くかかってしまう。

 全員が暗くなるが、フレデリックはいっこうに気にしていない。

「……みんな気にしているけど、餅は餅屋って言うのかな。ハインリヒの目の前で言うのもなんだけど、輸入しなけりゃいい。いいか? 史実と違ってオランダは北部だけじゃないんだぞ」

「……まさか」

 シャルロットが顔を上げる。  

「そうだ。リエージュやシャルルロワ、ボリナージュやケンペンとか、炭田があるんだよ。輸送を考えたらまずはリエージュだろうな。マース川沿いにあってそのまま北海に注いでる。それから鉄鉱石の鉱山もある。褐鉄鉱や赤鉄鉱がな。スウェーデンほどの品位はないけど、価格はその3分の1で済む」  

 ハインリヒはうなずいた。

「確かに。じゃあ結局、鉄鉱石と石炭を国内、つまりリエージュで賄えたとして、鉄1トンをつくるのにいくらかかるんだ?」

 発言したフレデリックは前世で駐オランダ日本大使だったので、国内はもちろん周辺国の資源関係には詳しい。

 現在のベルギー・ルクセンブルク・フランスの北部を含む南部10州が、北部7州とあわせてネーデルラント連邦共和国を形成しているのも大きかった。

 しかし鉄鉱石の成分や製鉄の過程などはハインリヒが専門だし、コストに関してはシャルロットだ。

 2人は相談しつつ、実際にかかるコストを計算し始めた。

「それじゃあ、国内での鉄鉱石と石炭の調達を前提に計算しよう」

 ハインリヒが切り出す。

 ・リエージュ産褐鉄鉱は品位が約40~50%で、鉱石3.5~4トンで鉄1トンの銑鉄が製造可能。価格は1トンあたり15~21ギルダー。

 ・石炭は同じくリエージュ産を利用。価格は輸入品の約60~70%。1トンあたり約1.5~2.5ギルダー。消費は鉄1トン当たり約2.5~3トン。  

 ・鉄鉱石:4トン × 21ギルダー = 84ギルダー  
 ・石炭:3トン × 2.5ギルダー = 7.5ギルダー 
 ・合計:約91.5ギルダー 

「ええ、これに製造費用を考え合わせると、鉄1トンの原価は大体110から120ギルダーくらいになるかしら。輸入に頼っているのが半分くらいだから、そういう計算になるわね。輸送費が1トンあたり7から10ギルダーだから、合計で120から130ギルダー。そうすると、利益は20から30ギルダーくらいは見込めるんじゃないかしら」

「スウェーデン鉄の値段が154ギルダー前後だから、同じ値段としても利益率1割から2割か。あんまり儲からないな……」

 ハインリヒは言った。  

「ちょっと待って!」

 シャルロットが叫んだ。

「これ! これ見て。確かにスウェーデン産の鉄、私は鉄の種類はよくわからないけど、トンあたり154ギルダーだけど、これ! Single White Iron……これ100ポンド34ギルダーだから……1トンで750ギルダーで売られてるよ! これ、何が違うの?」

 シャルロットが持っているのはアムステルダムの商会が発行している相場案内だった。

 戦争や飢饉ききんなどの外的要因がなければ、市場ではこの価格のプラスマイナス5~10%で販売されている。

「Single White Iron……これは、白銑鉄だな」

「白銑鉄? さっきの鉄、スウェーデン産の鉄は銑鉄だろ? 何が違うんだ?」

 ハインリヒは一呼吸して、羊皮紙の上に簡単な図を描き始める。

「白銑鉄と普通の銑鉄の違いか……これは製鉄技術の核心部分だな」

 高炉から流れ出た溶鉄は、その冷やし方によって2つの異なる性質を持つ銑鉄へと姿を変える。




 ・灰銑鉄
 高炉から出た溶鉄をゆっくりと冷却して作る。炭素含有量は3.5%~4.5%程度。炭素が黒鉛として結晶化するため、比較的柔らかい。再溶解しやすく、鍛鉄や鋼に加工するのに適している。

 ・白銑鉄
 溶鉄を鋳型に流し込んだ直後、大量の水をかけて急速に冷却(水冷)する。炭素含有量は2%~3.5%で、シリコン含有量は0.5%以下。急速冷却により炭素が黒鉛化せず、セメンタイト(炭化鉄)として固定される。極めて硬く、耐摩耗性に優れる。




 シャルロットが相場表を見つめながらつぶやく。

「でも、どうしてこんなに値段が違うの? 5倍近い差があるじゃない」

 ハインリヒは苦笑した。

「それが問題なんだ。白銑鉄の製造は超難しくて失敗率が高い。温度管理や冷却速度、それから化学成分の制御——全部完璧じゃないといけないんだ。歩留まりは良くて60~70パーセントかな。つまり10回作って3~4回は失敗する」

 それに、と続ける。

「専用の設備が必要だ。急速冷却装置、精密な温度計測器具、24時間体制での監視……コストが跳ね上がる」

 この時代はおそらく、職人の経験や勘に頼る部分も多かったのだろう。

 フレデリックが腕を組んだ。

「何に使うんだ? そんなに高いなら、相当特殊な用途があるはずだ」

「高級鋳物、精密機械の部品、刃物の材料……」

 ハインリヒが指を折って数えた。

「時計の歯車、大砲の砲身、高級な刃物。硬度と精密性が要求される分野じゃ、白銑鉄以外に選択肢はない」

「ああ、それでか」

 フレデリックが声を出して納得した。

 以前メートル原器を作る際に、時計職人ギルドを訪問したのを思い出したのである。精密機械の部品はかなり高額だった。

「つまり、オレたちが白銑鉄の安定製造技術を確立できれば……」

「独占的地位を築ける」

 シャルロットが興奮気味に言った。

「750ギルダーで売れるものを、もし200ギルダーで作れたら……利益率70パーセント以上だ。しかも需要は確実にある。ヨーロッパ中の時計職人、武器職人、精密機械技師が欲しがっている」

 シャルロットが利益を計算して立ち上がった。

「ハインリヒ、あなたは白銑鉄の製造技術を知っているの?」

「理論的には。……実際に作ったことはない。ドイツでも白銑鉄を安定して作れる工場は数えるほどしかなかった。でも、オレたちには現代の知識がある」

 ハインリヒは続ける。

「温度制御、化学分析、冷却技術……時間とコストがかかるけど、全部現代の技術で解決できる問題だ」

 シャルロットが相場表を叩いた。

「決まりね。普通の銑鉄で基盤を作って、白銑鉄で利益を最大化する。2段構えの戦略よ」

「……ちょっと待った!」

 フレデリックがストップをかけた。

「それもいい。普通の銑鉄で1トンあたり20~30ギルダーの利益で食いつなぐもいいかもしれない。でも、予算は10万+20万で30万ギルダーあるんだぞ。初期投資に金がかかったとして、オレたちはもともと、より質の良い鉄をつくって蒸気機関の性能をあげて、えーっとジェームス・ワットだっけか? それ以上の蒸気機関をつくるのが目的なんじゃなかったか?」

 そのとおりである。

 高性能の蒸気機関を製造するには高品質の鉄が必要で、付随する技術も必要である。

 そのためにコークス炉や高炉、そして反射炉の製造を考えていたのだ。

 反射炉だけじゃない。

 その先のベッセマー炉やトーマス転炉も見据えていたのだ。

「ハインリヒ、市場に錬鉄や鋼鉄はないんだろ?」

「ない……に等しいかな。あるにはあるけど、木炭炉でごく小規模だし、高炉を使った銑鉄を木炭炉で作り直すのも同じだ。鋼は19世紀に入ってからだよ」

「じゃあいつ完成するかわからない難しい白銑鉄よりも、その……トーマス転炉なら、どっちが簡単に作れるんだ? そんで鋼が作れるんだ?」

「トーマス転炉だな」
 
 ハインリヒは即答した。

「あれはリンを効率的に除去できる炉で、ベルギー産の高リン褐鉄鉱に適している。製法としては確立されているし、白銑鉄のような極限の温度管理や急冷を必要としないから、技術的にはずっと簡単だ」  

 シャルロットが目を輝かせて付け加える。

「つまり……白銑鉄は高級品で市場価値は桁違いだけど、失敗率が高くて生産量は限られる。トーマス転炉が普及すれば大量に鋼が作れて、工業的に安定した供給が見込めるわ」

 それどころか鋼は鍛造鉄しか存在しない。

 大量生産など、誰も真似ができないオンリーワンの存在なのだ。

「それにオレたちは鉄を売って商売しようとしてるんじゃない。もちろん売れば利益になるんだろうけど、それよりも蒸気機関をつくって機関車や蒸気船、それから様々な動力に転換すれば、利益なんざあとからついてくる」

「確かに」

 ハインリヒが続いた。
 
「初期投資と運用コストはかかるけど、トーマス転炉は量産に向く。鋼の品質も良いし、複雑なパーツ製造や精密機械にも耐えられる」 




 1.トーマス転炉: 大量生産と国家戦略の基盤を築く。

 2.錬鉄(パドル法): トーマス転炉を補完し、多様な市場ニーズに対応。

 3.平炉: 高品質鋼の製造で産業基盤をさらに強化。

 4.白銑鉄: 高付加価値製品で市場との差別化を図る。




 長い時間を経て、ようやく方針が決まった。




 次回予告 第33話 (仮)『レンガ』

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