1591年8月18日(天正19年6月29日) ネーデルラント連邦共和国 ハーグ
数日前の熱気が、オラニエアカデミーの会議室にはまだ残っている。
シャルロットが提示した金融革命の壮大な計画は、メンバー全員の心を1つの方向へと向けさせた。目の前の資金調達の課題を解決するだけでなく、この国の未来を変える力を持つ計画である。
フレデリックはこの機を逃すつもりはない。
彼はシャルロットを伴い、兄であるマウリッツ総督が政務を執るハーグの総督府、ビネンホフの一室を訪れていた。石造りの重厚な部屋には、壁一面に地図が広げてある。
スペインとの長きにわたる戦争の痕跡が、そこかしこに記されていた。
マウリッツはフレデリックたちの来訪を快く迎えたが、多忙である。地図から目を離すと、椅子に深く腰掛けた。
「それで、フレデリック。急な面会の要請とは、例の蒸気機関の件で進展があったのか。あまり時間がないから手短に話してくれよ」
「はい、兄さん。資金調達に大きな進展がありました。ですが、本日はそれ以上に重要なご相談があってまいりました」
フレデリックは隣に座るシャルロットに視線を送る。
シャルロットは緊張した面持ちだったが、その瞳からは強い意志がうかがえた。彼女はマウリッツに向かって深く一礼し、手にしていた計画書をテーブルの上に広げる。
「総督閣下。本日は、我が国の未来を左右する、新たな金融システムの構築のご裁可をいただきたく参上しました」
シャルロットが語ったのは驚くべき計画である。アムステルダムに国家保証の『中央銀行』を設立し、企業の株式を売買する『証券取引所』も開設するのだ。
彼女は図を指し示し、よどみなく説明を続ける。2つの機関が連携すれば、巨大な資金を安定して調達できると語ったのだ。
マウリッツは最初、子供の冗談を聞き流すつもりで腕を組んで聞いていた。
フレデリックの先見の明はこれまでの行動で明らかだったが、同じ能力の子供がそう何人もいるはずがない。
しかし、話が進むにつれてその姿勢は前のめりになり、表情から余裕が消えていく。
両替商が乱立し、貨幣の質は安定しない。
国家事業の財源は富裕層の借款頼みで、財政基盤もまた貧弱である。
シャルロットの説明は、マウリッツが日ごろから感じていた国家運営上の問題点を的確に突き、その解決策を提示していた。
「つまり、国家が通貨の発行と管理を掌握し、その信用を土台にして民間の資金を吸い上げる仕組みを作る、と。そういう狙いか」
マウリッツは計画の核心を正確に理解した。
その視線はもはやシャルロットを子供として見てはいない。
極めて合理的な考えが導き出した答えは、理論と実践の結果のみである。1人の専門家として、国家の行く末を論じる対等な相手として見ていたのだ。
「そうです。これが完成すれば、オラニエ蒸気機械会社の資金調達はもちろん、あらゆる国家事業において、安定した資金供給ができます。もちろん軍事面においてもです」
とシャルロットは答えた。
フレデリックが続ける。
「兄さん、これは戦争の形すら変える力を持っています。安定した財政基盤は、傭兵の継続的な雇用を可能にし、兵器の大量生産を支えます。ほぼ独立しているとはいえ、いつどこが敵になるかわかりません。この金融革命は、我々に軍事的な優位性をもたらすための、もう1つの武器となるのです」
『軍事』と聞いて、マウリッツの目は鋭く光った。
彼は軍人と同時に政治家である。
この計画が持つ経済的な側面だけでなく、国家戦略上の重要性を即座に見抜いたのだ。共和国の独立を盤石にするために、金の力、すなわち国力増強の必要性を誰よりも痛感している。
マウリッツはしばらく黙り込み、指でテーブルを軽くたたきながら考え込んだ。
やがて、彼は顔を上げる。
「分かった。計画の重要性は理解した。途方もない話だが、やる価値はある。いや、やらねばならん」
力強い承認の言葉に、フレデリックとシャルロットは胸をなでおろした。
「しかし」
とマウリッツは続けた。
「これを実現するには、大きな政治的な力が必要だ。特に両替商や既存の商人たちの抵抗は避けられん。彼らの既得権益を奪う形になるからな」
マウリッツの懸念はもっともだったが、フレデリックたちはその点も織り込み済みである。
「そのための鍵が、アムステルダム市長でもあるホーフト様です。あの方はすでに我々の会社の筆頭株主。この計画がアムステルダムにもたらす巨額の利益を理解すれば、必ずや我々の強力な味方となります」
フレデリックの言葉にマウリッツは深くうなずいた。その脳裏には、抜け目のない商人の顔が浮かんでいる。
「ホーフト市長か。なるほど。会社の株主としてだけでなく、アムステルダムの行政の長として彼を巻き込むのだな。あの男なら、この計画がアムステルダムをヨーロッパ随一の金融都市にする好機だと見抜くだろう。良い手を打ったな、フレデリック」
マウリッツは弟の政治的な成長を認め、満足げに言った。
「それならば話は早い。ホーフト市長が市の行政を動かし、私が総督として連邦議会に働きかける。市の条例と国家の法令、両面から制定を進めるのだ。フレデリック、お前はこの計画の総責任者として、私とホーフト市長の間で調整役を担え」
「わかりました」
総督の公的な後ろ盾は、この革命を断行するための最強の権威であった。
■1591年8月22日 アムステルダム市庁舎
アムステルダムの運河は今日も無数の小舟が行きかって活気に満ちている。
その中心に立つ市庁舎の一室で、フレデリックたちは再びホーフトと向き合っていた。今回は出資を求める側と受ける側ではない。国家の未来を共に作る、対等なパートナーとしての会談である。
マウリッツ総督からの書簡を読み終えたホーフトは深く息を吐くと、感嘆と興奮が入り混じった表情でシャルロットを見た。
「まさか総督閣下まで動かすとは。中央銀行と証券取引所。シャルロット嬢、貴殿の頭の中は一体どうなっているのだ」
ホーフトは商人として、この計画がアムステルダムにもたらす利益を瞬時に計算していた。安定した通貨と巨大な資金市場。それが実現すれば、アムステルダムは間違いなくヴェネツィアやアントワープをしのぎ、ヨーロッパ全土の富が集まる金融の中心地となる。市長として、これほど魅力的な提案はなかった。
「市長。これは我々だけの事業ではありません。アムステルダム市の、そしてネーデルラント連邦共和国全体の事業です。総督閣下のご意志は明確です。我々は、この変革を断行する」
フレデリックの言葉から、オラニエ家の人間としての強い決意がうかがえた。
ホーフトはうなずく。彼の商人としての野心と、市長としての責任感が完全に一致した瞬間だった。
「承知いたしました。フレデリック殿下。このコルネリス・ピーテルスゾーン・ホーフトは、アムステルダム市長として、計画の実現に全面的に協力しましょう。市議会の説得、条例の制定、必要な土地と建物の確保、全てお任せいただきたい」
国家最高の権威である総督と、最大の経済都市の行政責任者であるアムステルダム市長。2つの強大な歯車が、今、確実にかみ合った。
■1591年9月下旬 アムステルダム
マウリッツによる布告とアムステルダム市による条例の公布は、またたく間にネーデルラント全土に知れ渡った。
『アムステルダム銀行』の設立により、共和国はその全ての権威をもって貨幣の価値を保証し、安定した決済手段を提供する。
同時に発表された『アムステルダム証券取引所』の開設は、富を持つ者たちに新たな投資の機会を与えた。
この報に、アムステルダムの商人社会は大きく揺れる。
長年の慣習の劇的な変化に戸惑いと抵抗はありつつも、それ以上に新しい時代の幕開けに対する期待と興奮が渦巻いていた。
総督と市長が後ろ盾として強力に推し進めるこの事業に、多くの者が抗いがたい魅力を感じずにはいられなかったのである。
シャルロットは、銀行と取引所の設立準備委員会の責任者として多忙な日々を送っていた。
彼女と法律担当の転生者が作成した定款や業務規定は、この時代の誰にも理解できないほど精緻である。しかしそれでも、ホーフトが選んだ市の実務家たちは、その指示に従って着実に準備を進めていった。
元銀行頭取としての知識と経験が、この世界で余すところなく発揮されていたのである。
■1591年11月1日。
アムステルダムのダム広場に面した一角に、『アムステルダム証券取引所』の看板が掲げられた。まだ仮の建物ではあるが、その内部は仲買人たちの熱気で満ちあふれている。
この日、記念すべき最初の上場銘柄として、『オラニエ蒸気機械会社』の株式が公開されたのだ。
会社の資本金は、フレデリックたちが当初目標とした30万ギルダーである。
ホーフトが出資した10万ギルダーとアカデミーが提供した技術と信用、すなわち「無形資本」を10万ギルダー相当と評価している。そして残りの10万ギルダー分が、この取引所で株式として売りに出されたのだ。
取引開始を告げる鐘が鳴り響く。
当初、様子を見ていた商人たちだったが、1人の買い注文が引き金となって注文が殺到した。
「オラニエ蒸気機械会社、100株買い!」
「いや、こっちは200株だ!」
未知の技術である蒸気機関への期待。
マウリッツ総督とホーフト市長の後ろ盾がもたらす絶大な信用。
そして何より、この歴史的な瞬間に参加しようとする商人たちの熱狂が、株価を押し上げていく。
取引所の片隅でその光景を見守っていたフレデリックとシャルロット、そしてアカデミーのメンバーたちは、ただ圧倒されていた。シャルロットが描いた計画が、現実となって目の前で動いている。
その日の取引が終わる頃には、『オラニエ蒸気機械会社』が売り出した株式は全て買い手がついた。
そして彼らの手元には、当初の目標であった10万ギルダーを大きく上回る、20万ギルダーもの資金が集まっている。
ホーフトの出資と合わせ、合計30万ギルダーになった。
計画始動のために必要とされた天文学的な数字が、今、確かに確保されたのである。
その夜、オラニエアカデミーで開かれたささやかな祝勝会では、メンバーたちは新たな決意を固めていた。
「やったな、シャルロット。君のおかげだ」
とフレデリックは言った。
「ううん、みんなの力よ。私一人じゃ何もできなかったわ」
シャルロットは頬を赤らめながら答えた。
資金は確保された。金融革命の第一の歯車は力強く回り始めたが、これはまだ始まりに過ぎない。
フレデリックは、製鉄技術の責任者であるハインリヒの肩をたたいた。
「ハインリヒ、いよいよ君の出番だ。手に入れたこの資金で、オレたちの産業革命の心臓部を作ってもらう」
ハインリヒは、その無口な表情の中に技術者としての熱い闘志を燃やして力強くうなずいた。
「任せな。最高の鉄を、このオランダで生み出してみせる」
金融革命の次に目指すのは、製鉄革命である。
材料の壁を打ち破って真の動力を手に入れるための戦いが、今、幕を開けようとしていた。
次回予告 第32話 (仮)『鉄は国家なり』

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