慶長三年十二月二十九日(西暦1599年1月25日) 遼東 三萬衛
「よし、攻めるぞ! この機を逃すな」
霧に覆われた草原を、凍てつく風が吹き抜けていった。
夜明け前の空は、まだ暗く沈んでいる。
何もなければ年の瀬である。大みそかに向けて準備している頃だ。
しかし、戦時はそれどころではない。
ヌルハチは馬上から戦場となる草原を見渡した。昨夜の斥候からの報告で、モンゴル連合軍の動きは完全に把握できている。
兵糧不足に苦しむモンゴル軍は屯田村落を襲撃したが、ほとんど収穫を得られなかった。焦りから統制を欠き、各部族がばらばらに行動している。
「兄上、敵は我々の予想どおりの動きです」
ヌルハチの同父母弟であるシュルハチが馬を寄せて報告する。
満足げにうなずくヌルハチであったが、シュルハチとは表向きは円満でも、心を許してはいなかったのだ。
今日、女真族はマンジュ国(満州国)を建国しているが、その過程で海西女真を併合し、東海女真を組み込んだ。
シュルハチはその際に、降伏して従属を願い出たウラ王家と深い婚姻関係を結んでいる。
結果的に女真族の力を強めたのだが、それがかえってシュルハチの名声や勢力を高めてしまったのだ。
太陽は二つ要らない。
結束は重要だが、新たな勢力を作ってはならないのだ。
婚姻に関してもヌルハチが許可を出したわけではない。
事後承諾を黙認してきたのである。
「各部隊に伝えよ。右翼のエイドゥはチャハル部、左翼のフュンドンはオルドス部を攻めよ。中央軍は私が率い、トゥメト部に突撃する」
将兵たちの目が鋭く光った。守りに徹していた間、彼らは反撃の機会を待ち望んでいたのだ。
霧の向こうから、敵陣の火の明かりが揺らめいて見える。夜襲の疲れから警戒が緩んでいるのだろう、のんびりとした気配が漂ってきた。
ヌルハチは腰の太刀に手を掛けた。まだ抜くには早い。
角笛の合図まで、わずかな時を待つ必要があった。
「全軍に告げよ。敵は疲弊している。一気に叩き潰す」
側近たちが馬を返し、各部隊へと伝令に向かう。
その背中を見送りながら、ヌルハチは思案を巡らせた。
今回の戦いに勝利すれば、北方からの脅威は一時的に消える。そうなれば、全精力を明との戦いに注げるのだ。
……が、ヌルハチの頭には別の考えもよぎっていた。
東の空がわずかに白み始めたとき、ヌルハチは角笛を吹かせた。
とどろくような音が霧の中に響き渡る。
「全軍突撃!」
ヌルハチの雄たけびと共に、女真軍が一斉に動き出した。整然と進む騎馬の隊列が、地鳴りのようなごう音を立てて突進する。
混乱する敵陣のただ中、ヌルハチの視界に、動きの鈍い右翼部隊が映った。
シュルハチ率いる部隊が、命じられた位置に進出していない。
「あれは何事だ!」
ヌルハチの怒声が響く。
敵の包囲網に隙が生まれつつあったのだ。
チャハル部の兵たちが、その隙をついて脱出を始める。本来なら右翼部隊がふさぐべき退路が、大きく開いていた。
「シュルハチめ……!」
ヌルハチは歯がみをした。
中央軍の突撃で崩れかけていた敵の陣形が、徐々に立て直されていく。味方の犠牲が増えるのは目に見えていた。
「中央軍、右に旋回! 退路をふさげ!」
とっさの判断で陣形を変更したものの、既に多くの敵兵が包囲網をすり抜けていた。
戦闘が終わった頃、ヌルハチの前にシュルハチが呼び出された。
「説明せよ。なぜ命じられた位置に進出しなかったのか」
「兄上、申し上げます。敵の伏兵の気配がありました。慎重に……」
「黙れ! 公の場で兄上などと言うな! 公私混同などもっての外! 弟だからとオレが許すと思うのか!」
ヌルハチの怒声が、テントに響き渡る。
「お前の優柔不断な判断で、多くの将兵が命を落とした。伏兵だと? 無論、とっさの判断は必要である。しかし、この平原の、見晴らしの良い戦場のどこに伏兵の気配があったのだ?」
「……申し訳ございません」
ようやくシュルハチは口を開いた。しかし、その言葉に具体的な根拠はなかった。ヌルハチは失望の色を隠せない。
生死をかけた戦場において、慎重さは重要である。
しかし、慎重と臆病は全く違うのだ。
「戦場において曖昧な予感だけで兵を止めれば、どれだけ危険に陥るのか理解できないのか?」
シュルハチはうつむいたまま答えない。
見晴らしが良いとは言っても、全く隠れるところがないとは言えない。
可能性はゼロではないのだ。
しかし、確かな根拠がなければ、軽々に作戦を変更すべきではない。
「お前はもはや部隊を率いる資格はない。今後は兵権を剥奪する」
厳しい処分だった。
しかし、ヌルハチの心は決まっていた。戦いでは一瞬の躊躇も許されない。指揮官としてふさわしくない者には、部隊は任せられないのだ。
「甘さは許さん。我らはこれからも明と戦い続ける。このような失態があれば、全てを失うのだぞ」
シュルハチはグッと手を握りしめ、黙ったまま、深々と頭を下げる。
彼の判断には理由があった。だがそれは結果として、より大きな犠牲を生む原因となったのだ。
「ハーン、処分が重すぎるのでは……」
ホホリが進言するが、ヌルハチは首を振った。
「永久に剥奪するわけではない。どうもシュルハチは慎重すぎるきらいがある。往々にしてそれは臆病となり、兵の命を無駄に危険にさらすのだ」
ヌルハチの厳しい処分の背景には、来たるべき明との決戦への強い覚悟があった。
そこにはためらう余地など微塵もなかったのである。
「さて、ホホリよ。ようやくモンゴルの脅威も去った。お前は登州へ向かい、明との和平交渉をまとめてはくれぬか」
「え? ハーン、和平ですか? これから登州へ戻り、明軍と一戦交えて取り戻すのでは?」
「ホホリよ、状況が変わったのだ」
幕舎の中にはヌルハチとホホリの二人しかいない。
他の将軍は戦勝祝いで酒盛りをしているのだ。
時にはこうやって憂さ晴らしをしなければ、命をかけた戦争などできない。
「と、おっしゃいますと?」
「モンゴルは各部族がばらばらで、統制が取れていない。チャハルのブイグがまとめ上げたのかと思ったが、烏合の衆であった。この状態では、次に連合軍を組もうとしても、まとまるには相当の時間がかかるだろう」
ヌルハチは立ち上がり、テントの外を見る。酒宴の騒がしさからはさっきまでの血生臭さは感じられない。
「しかしハーン、それならば、今こそ明への反撃の好機では?」
「いや、逆だ。今の我らには休養が必要であろう。兵も疲れている。それに……」
ヌルハチは話をいったん止めて、再びホホリに向き直った。
「登州での戦いは、既に我らに不利となっている。明軍は民までもが立ち上がり、その数は日に日に増えているのだ。ここで無理に戦えば、せっかく築いた拠点も失ってしまう。それに、今や寧夏の軍もない。明は登州に集中できる。われらが不利なのだ」
「しかし……」
「今はいったん手を引くのだ。我らは最後に明を滅ぼせば良い。明と和平を結び、その間にモンゴルを平定する」
「!」
ホホリは言葉が出ない。
「後ろを恐れていては全力で戦えぬからな。後顧の憂いを断つのだ。今は英気を養って、まずはハルハ部。そしてウリャンカイ部、最後にチャハル部だ。まとまりのない部族を各個で滅ぼせば良い」
確かにモンゴルの各部族の結束は弱く、今回の戦いでその実態が明らかになった。
一度に相手にするより、個別に対処する方が賢明である。
「ではハーン、明との和平交渉の条件は?」
「条件などない。悪くとも登州は譲るが、沙門島は保持する。そこを拠点に海上交易をすれば、戦費の補填にもなろう。何より、明との和平は時間稼ぎに過ぎぬのだ。モンゴルを平定し、軍を整えた暁には、必ず明を討つ。それまでの辛抱じゃ」
その言葉には、父と祖父を殺された恨みが込められていた。しかし、今はその感情を抑え、冷静に次の一手を考える必要がある。
「承知いたしました。では、明との和平交渉に向かいましょう」
次回予告 第861話 (仮)『登州会談』

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