王国暦1047年10月9日(火)21:00 = 2025年9月6日(土)23:35:51<田中健太>
「矢は絶対に抜かないで! 下手に抜けば、大出血を起こすから。傷口を見て、臓器の損傷がないか確認する。輸血の準備も……」
エリカは独り言をつぶやきながら、レイナの背中の服を慎重に切り裂いていく。
傷口の状態を確かめるためだ。
オレは焚き火のそばに膝をついて彼女の作業を固唾をのんで見守る。
アンはガルドのそばでぬいぐるみを抱きしめならが声を殺して泣いていた。
傷口が露わになる。
矢は肩甲骨のすぐ下あたりに深く突き刺さっていた。幸い、見たところ主要な血管は外れているかもしれない。だが、正確な判断は傷口の内部を見なければ分からなかった。
エリカが叫ぶ。
「明かりを! もっと近くに」
マルクスは慌てて松明を手に取って傷口に近づける。
だが揺らめく炎は安定した光を供給しない。
影がちらついて傷口の深い部分をはっきりと照らし出すことができなかった。
「だめ……これじゃ何も見えない。影ができて、中の様子が全く分からない」
エリカは顔を上げて悔しげに唇をかんだ。
「でも……やるしかない!」
絶望的な状況でも、エリカの外科医魂は折れていなかった。
現代の無菌室も精密な手術器具もないが、やるしかない。
「マルクス! 縫合用の針と一番上質な絹糸を出して! セラ、あなたはレイナの手を握って、声をかけ続けてあげて。意識を失わせないで!」
「わかったわ!」
「ルナ!」
「はい!」
「お湯が湧いたら針と糸を15分間徹底的に煮沸消毒して! 器具はいくら清潔にしてもしすぎることはないから! ガルド! その砂時計は何分?」
「え? いや、何分って……なんだ?」
「分……は……えーっと、そこの砂時計があるでしょ! あれ交代用じゃないの? 何回で1時間? 時計台の鐘よ!」
「あれか? 1回で鐘1回分だ」
「わかった! じゃあルナ、4分の1煮沸したら渡して!」
「わかった!」
エリカの矢継ぎ早の指示に、全員が素早く動き出す。
(私の医療バッグに入れてあるのは、この世界で手に入る最高品質の絹糸。本当は吸収性の縫合糸が欲しいけれど……ああもうっ! ないものねだりしても仕方ない!)
エリカは自分を落ち着かせるためだろう、一度息を吐いておもむろに自作の特製メスをつかんで、その刃先を直接焚き火の中へ差し込んだ。
「エリカ? そっちは煮沸しないのか?」
思わずオレが尋ねると、エリカは燃え盛る炎から目を離さずに、鋭く言い放った。
「縫合針は15分煮沸して万全を期す! でもレイナの出血は待ってくれないから切開は一秒でも早く! これは火炎滅菌よ!」
火炎滅菌……?
聞き慣れない言葉だが、オレは52歳だ。
経験則で火でナイフをあぶってメスの代わりにするシーンをドラマや映画でしっていた。
ただ、なんで殺菌の方法が違うのか。
それは今初めて知った。
エリカの有無を言わさぬ迫力に、オレは息をのむ。
並行して複数のことを考えて、時間とリスクを天秤にかけながら瞬時に最善の策を選んでいるんだ。
赤く熱せられていく金属の刃先を見ながら、オレは改めて彼女の凄さを感じる。
――だめ……これじゃ何も見えない。影ができて、中の様子が全く分からない――
ハッと我に返った。
おい!
おいおいおい!
どうする?
どうするどうするどうする?
この世界に安定した強力な光源なんかない。万策尽きたのか。オレの頭の中を絶望がよぎる。アンの嗚咽が耳に痛かった。
あ!
オレは持ってきたリュックサックの存在を思い出した。
中には日本から持ち込んだ色んなものが入っている。
モバイルバッテリーや……LEDライト!
一瞬の葛藤があったが、迷っている時間はない。
オレの目の前でレイナの呼吸がさらに弱くなっていく。
「エリカ、これを使え」
オレはリュックからLEDライトを取り出した。それは片手で持てるさいずの黒いアルミニウム合金のライトだ。
ガルドたちは変な顔をしたが、オレは迷わずライトのスイッチを入れた。
次の瞬間、闇が切り裂かれた。
凝縮された純白の光の束が、夜の森を昼間のように照らし出す。
その強烈な光は揺らめく焚き火の明かりを無力化した。レイナの背中の傷口を一点の曇りもなく映し出す。
「な……なんだ、これは……」
冒険者パーティーの3人は目を丸くしてオレの手の中にある未知の道具を見つめている。
セラは祈りの言葉を忘れてただ立ち尽くしているようだ。
エリカだけが外科医の顔で指示をだす。
「ケント、動かないで。その光を絶対にずらしちゃダメよ」
オレがライトで術野を照らし続ける中で、エリカの手術が始まった。
エリカの手つきはまるで精密機械のようだった。
火で熱しただけのメスなんて、まともに切れるはずがないと思っていた。
なのにエリカの手つきは、まるで熟練の仕立て屋が一枚の布を裁つかのように、一切の迷いがない。
最小限の動きで皮膚を切り開いていく。
オレが掲げるLEDの光が、傷の奥深くを克明に映し出している。
素人のオレが見ても分かる。じわじわと、だが確実に血があふれ出しているのが。
あれが止まらなければ、レイナは……。
「ルナ、煮沸が終わった針と糸を清潔な布の上に!」
ルナが火傷に気をつけながら、熱い針と糸を指示通りに準備する。
エリカは自らの指をためらいもなく傷口に差し込み、何かを探るように動かした。
見ているこっちの血の気が引くような光景だ。
「……よし」
エリカは短くつぶやくと、すぐに針と糸を手に取った。
そこから先は、もう何が起きているのかオレには理解できなかった。まるで魔法のようだった。
指先が数回複雑に動いたかと思うと、あれほど止まらなかった出血が……ぴたりと、嘘のように収まっていたのだ。
「マルクス、汗を。ルナ、次のガーゼを」
エリカの声が再び野営地に響く。
マルクスが彼女の額の汗を拭って、ルナが煮沸消毒したガーゼを素早く手渡す。
誰もオレが持つ不思議な道具について尋ねようとはしない。今はただ、レイナの命を救うことだけが全員の目的だった。
最大の難関は、矢じりの摘出だ。
エリカは再びメスを手に取ると、今度は矢の根本に刃を入れる。
さっきと同じでまったく分からないが、その手つきが恐ろしく慎重で、ミリ単位の精度で何かを見極めていることだけは伝わってきた。
「マルクス、火で炙り続けたやっとこを、清潔な布越しに渡して!」
指示を受けたマルクスが、真っ赤に焼けたやっとこを布で幾重にも包み、慎重にエリカへと手渡す。彼女はそれを受け取ると、矢の根元をがっちりと掴んだ。
「……抜くよ」
メリメリ、と肉が裂けるような鈍い音がして、オレは思わず顔をしかめた。
血に濡れた禍々しい鉄の塊が、鈍い光を放ちながら体外へと姿を現す。
ライトを掲げるオレの腕は、もうとっくに感覚がなくなっていた。ただ、ここで光を絶やすわけにはいかないという一心だけで、震える腕をもう片方の手で支えて耐える。
エリカがようやく顔を上げた。
「……終わった。矢の摘出、血管の縫合、完了した」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
オレたちはその場にへたり込む。
「ケント……アンは……?」
か細く、かすれた声だった。
「ここにいる。無事だ。お前のおかげだよ」
オレは彼女のそばに寄り添ってそう答えた。
どれだけの激痛だったろうか。
麻酔がない状態で耐え抜くなんて。
オレなら、絶対に無理だ。
そばでずっと見守っていたアンが、わっと泣きながらレイナの手にすがりつく。
「お母さん、ごめんなさい……ごめんなさい……」
「いいのよ、アン……無事で、よかった……」
レイナは安心したように微笑むと、安心したのか、すっと目を閉じて寝息を立て始めた。
エリカが消毒した器具を片付けながらオレたちに告げる。
「峠は越した。でも、油断はできない。傷は塞いだけど回復には時間がかかる。少しの振動でも傷が開く危険があるからね」
そう言ってオレを見つめる彼女の目には、安心感と同時に新たな戦いへの覚悟が見て取れた。
「本当の戦いはこれからよ、ケント。一番怖いのは、目に見えない細菌による『感染症』。この傷が膿(う)めば、レイナは助からない」
「感染症……」
「そう。でも、私たちには武器がある」
エリカはオレのリュックに視線を送った。
「あなたの救急箱に入っている消毒用アルコール。あれが私たちの生命線になる。それと、体温計も」
オレはうなずいて、すぐに救急箱から消毒液のボトルとガーゼ、電子体温計を取り出した。
エリカはガーゼに消毒液を染み込ませ、縫合した傷口を丁寧に拭っていく。ツン、と空気を刺す清潔な匂いは、この血と土埃にまみれた世界ではあまりに異質だった。
「これで、当面の細菌の侵入は防げる。でもこの消毒液は有限よ。なくなったら私の自家製で代用しなくちゃいけないけど、王都に着くまで、一日数回の消毒を欠かせない。ここからの数日間が本当の戦いになる」
オレは手の中のLEDライトを強く握りしめて、必ず元気な姿で一緒に戻ると誓った。
次回予告 第12話 『癒えぬ傷と王都の喧騒~出没!悪徳商人~』
闇夜の手術は成功した。
だが、本当の戦いはこれから始まる。見えざる敵『感染症』の恐怖。馬車のわずかな振動が、レイナの命を脅かす。
頼れるのは、残りわずかな現代の消毒液と一本の体温計のみ。神経をすり減らす過酷な旅路の果てに、一行を待つものとは――。

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