1591年12月 オランダ アムステルダム
フレデリックが製鉄計画を発表した翌日から、アカデミーは関係者全員の真剣な雰囲気が満ちあふれていた。
特に、リエージュへ向かう先遣隊に選ばれた三人の男たちの周囲は慌ただしい。
現場総監督を任されたディルク・ファン・デル・メールは、アカデミーの工房で陣頭指揮を執っている。
彼の前には、彼が自ら選抜した屈強な職人たちが集まっていた。
石工や大工、鍛冶師など、いずれもアムステルダムで腕利きと評判の男たちである。
「いいか、よく聞け。オレたちがこれから向かうのは、ただの工事現場ではない。この国の未来を作る、最初の現場だ」
ディルクの低い声が、カンカンと金づちの音が響く工房によく通る。
「無駄な物は1つも持っていかない。だが必要な物は絶対に忘れるな。測量器具、水準器、各種のハンマーと『たがね』や『のみ』。リストにある道具は、お前たちの手足になる。現場でないと泣きついても、アムステルダムは遠いぞ」
その言葉には重みと説得力がある。
相応の現場を乗り越えてきたからだ。
職人たちは、ディルクの厳しい視線に背筋を伸ばして黙って力強くうなずいている。彼らはこの頼れるリーダーの下で働くことに誇りを感じているのだ。
説明が終わるとディルクは図面とにあらみ合う。
リエージュの未開の土地にどうやって効率よく作業拠点を築くか、その段取りを頭の中で組み立てていったのだ。
そのころ、アカデミー図書室の奥はひっそりとしていた。
シャルルは1人で室内にこもって机に深くかがみ込んでいる。
何かに集中しているようだ。
埃っぽい羊皮紙の束が周りに山積していたが、目の前にはリエージュ周辺の古地図が広がっている。
各地の鉱山に関する記録文献も読みながら、知識と経験の全てを総動員して最高の耐火粘土のありかを特定しているのだ。
節くれだった指先が、地図の川筋をゆっくりとたどる。
「ふむ、マース川支流、ウルト川の流域か。そしてこの丘陵地帯の連続。地層の褶曲は、太古の地殻変動が鍵と示す」
シャルルは楽しげに独り言を口にした。
彼にすればこれは困難な任務ではない。自身の知的好奇心を満たす最高の冒険だった。
誰も発見できない希少な鉱物を自分で掘り当てる想像が、彼の心を大きく高ぶらせている。
ヨハンの研究室は化学薬品の独特な匂いと、ガラス器具の触れ合うかすかな音で満たされていた。
シャルルのいる図書室とは対照的である。
これから始まる未知の粘土との対話に備えて、分析に必要な道具を慎重に木箱へ詰めていたのだ。
天秤や蒸留器、様々な試薬瓶を分厚い緩衝材で丁寧に包むその手つきは、まるで貴重な美術品を扱うかのようである。
粘土の主成分であるシリカとアルミナの比率や、融点を下げる不純物の有無に焼成温度と水分の最適な関係。考慮すべき変数は数えきれない。
しかしヨハンの頭脳は既に無数の組み合わせをシミュレートし、最短で結論にたどり着くための道筋を描き出していた。必ず最適解は存在する。
フレデリックは、アムステルダムに残るハインリヒと一緒に3人の準備の進捗を見守っていた。
ハインリヒの設計室では、既に巨大な羊皮紙に木炭で反射炉の基本構造が描かれ始めている。
「リエージュとの連絡は、当面は週に1回の伝令便にする。ハインリヒ、君が完成させた図面は、その便で随時送り届けることになる」
フレデリックは言った。
「頼んだぞ。君の頭脳がリエージュの現場を動かす心臓になるんだ」
「心配すんな」
ハインリヒは羊皮紙から目を離さずに答えた。
「連中が最初の炉を建てるより早く、完璧な図面を送り届けてやる。オレたちの仕事は、ここからが本番だ」
前線へ赴く者たちと後方で技術を支える者の役割は違っても、目指す頂は同じである。
時は流れ、いよいよ出航の日が訪れた。
出航の日のアムステルダムの港は、冬の厳しい寒気に包まれている。
人々が吐く息は白く凍っていた。
灰色の空の下で、停泊する船のマストが寒々と林立している。
埠頭の一角にアカデミーの主要なメンバーが集まっていた。
これから長い旅に出るディルクとシャルル、ヨハンと、彼らに続く十数名の職人たちである。そして彼らを見送るフレデリックとハインリヒ、シャルロットやオットーたちの姿があった。
フレデリックは先遣隊の三人の前に進み出ると、一人一人の顔を順番に見て固い握手を交わした。
最初に、ディルクの大きな手を握る。
「ディルク。現場の判断は全て君に任せる。オレたちはアムステルダムで結果を待つだけだ。絶対に無理はするな。君と、君の部下たちの安全が最優先だ」
「任せておけ」
ディルクは短く、力強く答えた。
「3年後に戻ってくる頃には、リエージュの空を製鉄所の煙が覆っているはずだ」
次に、叔父であるシャルルの手を握った。
「シャルルおじさん。おじさんの発見がこの計画の全てを始める第一歩です。よろしくお願いします」
「フフフ、わしの鼻をなめてもらっては困るよ」
シャルルは悪戯っぽく笑った。
「地球が隠している宝を、根こそぎ掘り当ててみせよう」
わはははは、と全員に笑いが起きる。
最後にヨハンの手を握った。
「ヨハン。君の化学がただの土を未来を支える礎に変えるんだ。自信を持て。君ならできる」
「了解! オレの知識と技術の全てを注ぎ込むよ。必ず、史上最高の耐火レンガを創り出してみせる」
やがて、乗船を促す船鐘が鳴り響いた。
ディルクを先頭に先遣隊がゆっくりとタラップを上り始める。
彼らの家族が岸壁で涙をこらえながら手を振っていた。
船員たちの手でタラップが外され、繋がれていた舫い綱が解かれる。船体がゆっくりと岸壁を離れていった。遠ざかる船の甲板に立つディルクたちの姿が、次第に小さくなっていく。
フレデリックは、その姿が見えなくなるまで、黙って港に立ち尽くしていた。隣では、シャルロットが冷たい風の中で静かに手を合わせている。
やがて、ハインリヒが何も言わずにフレデリックの肩を叩いた。
「行くぞ。オレたちの戦場はあっちだ」
その言葉にフレデリックはうなずいた。
2人は港に背を向けると、アカデミーへと続く石畳の道を歩き出す。彼らの戦いは、リエージュではなく、このアムステルダムの設計室で始まるのだ。
数日後、北海を南下してマース川河口へからリエージュへと向かう船の船室では、3人の男たちがいた。
夜間停船中で揺れるランプの光の下、ディルク、シャルル、ヨハンはリエージュ周辺の地図を囲んでいる。航海の疲れは見えない。
「よし、まずはこのウルト川沿いの谷だ」
シャルルが地図の一点を指さした。
「古い文献の記述と、オレの勘が告げている。この辺りに、良質な粘土鉱脈がある可能性が高い」
「その土のサンプルが手に入り次第、すぐに仮設の研究室で分析を開始します。船に積んだ機材だけでも、主要な成分の特定は可能です」
シャルルの言葉を受けて、ヨハンは手元の羊皮紙に素早くメモを取りながら言った。腕を組んで二人のやり取りを聞いていたディルクが、低い声で結論を告げる。
「いいか。リエージュに着いたら、部隊を2つに分ける。シャルルとヨハンの探査分析チームと、オレが率いる拠点設営チームだ。拠点の設営と並行して、シャモット進化法の第一サイクルを開始する。休んでいる暇はないぞ」
3人の顔には困難に立ち向かう厳しい覚悟が浮かんでいた。
しかし、厳しさや困難よりも、希望と喜びが上回っている。
鋼鉄という新たな価値をこの世界に生み出すための、最初の行軍であった。
次回予告 第35話 (仮)『耐火粘土を求めて』

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