第8話 『魔女』

 王国暦1047年9月21日(日)20:00=2025年9月6日(土)20:28:49 <田中健太・52歳>

「ここをもう少し細くしたほうがいいか。いや、その前にこっちを長く……うん、もう一度計算しよう」

 トーマスが弟子になってから、あっという間に2週間が過ぎた。

 あっちの時間で……2時間ちょいか。

 でもまだわからんから、1回戻って確かめよう。

 まずオレは、根本的な問題であるフレームの強度不足から手をつけることにした。

 今の木製フレームじゃ、圧力をかけた時に生まれるほんのちょっとの歪みが、そのまま印字のムラに直結する。

 理想は地球の印刷機と同じで鋳鉄製の一体成型フレームだ。

 これなら剛性は格段に上がって加圧時の歪みをほぼゼロに抑えられる。

 そのための図面を引くのは……難しくなかった。

 でも心配なのは、この世界の鋳造技術で、オレが要求する精度と強度が出せるかどうか?

 全くの未知数なんだ。

 見たところ中世のヨーロッパ風だけど、技術レベルもその程度なら、限りなく怪しい。

 これを実現できる工房を探すだけで、途方もない時間がかかるだろう。

 設計図が出来上がってから鍛冶屋ギルドに行こう。

 いや、今の段階で行ったほうがいいか?

 無理なら無理で、最初っから分かっていたほうがいい。

 ――次。

 圧力機構を見直した。

 既存のねじ式は締め込むほどに圧力が強くなるけど、均一性を保つのがすごく難しい。そこで、オレの専門分野である機械工学の知識を総動員して、『トグル機構』の設計図を引いた。

 てこの原理を応用して、少ない力で瞬間的に大きな垂直圧力を生み出す仕組みだ。

 原理的には可能なんだけど……これもやっぱり部品の加工精度が命なんだよな。

 アームの長さや支点の位置に、ピンの太さと材質。どれか1つでも数値が狂えばまともに動かないか、すぐに摩耗して使い物にならなくなる。

 これもまた、腕の良い鍛冶職人の協力なしには実現不可能だった。

 活字の精度やインクの問題も山積みだ。

 鉛を主成分とした合金活字という方向性は悪くないけど、その活字を作るための鋳型はどうだ?

 何十、何百の同じ形の文字を、ミクロン単位の誤差もなく作る技術がこの世界には存在するのか?

 インクだってそうだ。

 粘度が高すぎれば活字の繊細な溝を潰し、低すぎれば紙の上でにじんでしまう。最適な粘度と乾燥速度、それから紙への定着性。こんなのは完全に化学の領域で、機械屋のオレには専門外だ。

 地球じゃ当たり前に存在するから、その意義さえ考えてこなかったんだよな。

 無意味だったし。

 こうして、ああでもないこうでもないと一人で図面と格闘しているうちに、2週間が過ぎたわけだ。

 頭の中には鮮明な完成図がある。

 けどそれを実現するための技術的なピースがあるかどうか、あまりにも不安だ。

 ……まあ、考えても仕方がない。

 一通り設計は終わったから、明日にでも鍛冶屋ギルド巡りするか。

 その日も工房での仕事を終えて家路についた。

 いつの間にか空はすっかり暗くなって、ギルド街の窓からは温かい光が漏れている。

 今日の夕飯は何だろうか?

 こんな感触は何年ぶりだ?

 ……もしかしたらオレは、自分の知的好奇心を理由にして現実逃避しているんじゃないか……。

 ふとそんな考えが頭をよぎったけど、すぐに忘れて自宅のドアを開けた。

「ただいま~」

 ……。

 いつもなら元気な『おかえりなさい』が返ってくるはずだった。

 どうした? まさか……。

 居間の奥からレイナの押し殺したような声が聞こえる。

 胸騒ぎがした。

 急いで寝室へ向かうと青ざめた顔のレイナがいた。彼女はベッドに横たわるアンの額を、濡れた布で何度も拭いている。

「どうしたんだ! ? レイナ」

「あなた……アンが……」

 ベッドに駆け寄ると、アンの苦しそうな寝顔が目に入った。

 まじか……。

 アンの頬は異常に赤く、呼吸がとても速い。

 ぜぇ、ぜぇ、と浅い息を繰り返している。その小さな胸が苦しげに上下するのを見て、血の気が引いた。

 額に手をやると、すごい熱だ!

「いつからだ?」

「昼過ぎから少し元気がなかったの。夕方になって急に熱が上がって……」

 レイナの声は震えていた。

 オレはパニックになって現代日本の常識を叫んだ。

「医者を呼んでくる! いや、医者はどこだ! 夜間病院は! 救急車は!」

 オレの言葉にレイナは絶望に染まった顔で力なく首を振った。

「あなた何を言っているの! 夜に診てくれるお医者さんなんていないわ! それに、たとえ朝になって診てもらっても、『風邪こじらせの胸患い』って言われて、気休めの薬草を渡されるだけ……あとは神様に祈るしかないのよ……!」

 レイナの悲痛な叫びが、ハンマーのようにオレの頭を殴りつけた。

 そうだ、ここは日本じゃない。

 救急車もなきゃ夜間救急病院もない。

 もし中世ヨーロッパレベルなら、医者ができることは薬草を処方して、あとは患者の生命力と運に任せることだけ。

 ただの風邪が、本当に命取りになる世界じゃないか。

 アンの浅く速い呼吸と胸の奥から聞こえる苦しそうな音……。

 オレは医者じゃないけど、やばそうなのは分かる。

 風邪こじらせの胸患い……肺炎じゃないか!

 薬草と祈りだけでどうにかなるはずがない。

 こんなとき、オレの機械工学の知識は何の役にも立たない。

 医者ならよかった……無力感が全身を支配する。

 いや!

 いやいやいや!

「オレが探してくる。夜でも診てくれる薬師が、1人くらいいるはずだ」

 オレは立ち上がる。

 それからレイナが何かを言う前に家を飛び出して。石畳の道を全力で走った。

 夜の街にオレの荒い息と足音だけが響く。

 心臓が張り裂けそうだった。アンの苦しそうな顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 薬師の看板を掲げた家を片っ端から訪ねたけど、扉は固く閉ざされている。

 何度叩いても中から返事はない。

 24時間営業じゃなくても、田舎の薬局だって7~8時くらいまではやってるぞ!

 王都中を諦めずに走り回ってようやく一軒の酒場の明かりを見つけた。

 もう、藁にもすがる思いだ……。

 酒場に駆け込むと、むっとした熱気とアルコールの匂いが鼻をついた。

 カウンターにいた数人の酔っ払いが、いきなり入ってきたオレをジロジロ見ているのが分かるに見る。

「すまん! 誰でもいいから知らないか? この時間でも診てくれる腕のいい薬師を」

 オレの必死の形相に男たちは顔を見合わせた。1人の男が、呂律の回らない口調で答える。

「薬師ねぇ。腕は確かだが、変わり者がいるぜ。魔女なんて呼ばれてる女だ」

「魔女? 構わない、どこにいるんだ」

 魔女なんている訳がない。

「いつもなら、仲間と一緒にこの店の個室で飲んでるはずだ。ほら、1番奥の部屋だよ」

「すまん! ありがとう、借りは必ず返す!」

 オレは男が指さした方へ急いで走って1番奥の部屋の前に立った。中から何人かの男女の話し声が聞こえてくる。

 意を決して、勢いよく扉を開けた。

「娘が、娘が死にそうなんだ! 助けてくれ!」

 オレが部屋に飛び込んだ瞬間、中で交わされていた会話の断片が耳に突き刺さった。

「……法……」

「白金が……」

「……鋼で……」

 なんだ?

 いや、それどころじゃない。

 部屋の中にいた3人の男女が、一斉にオレを見た。驚いた顔をしている。一人は亜麻色の髪の女性、もう一人は銀髪。それから見覚えのある男……。

 鍛冶ギルドのマルクスだ。

 オレは三人のうち、薬師と噂された亜麻色の髪の女性に向き直った。名前は知らない。でも彼女だけが頼りだ。

「あんたが薬師か。頼む。金ならいくらでも払う。娘を助けてほしい。高熱で、呼吸が苦しいんだ」

 オレは床に膝をついて頭を下げた。

 プライドなんてクソくらえだ。

 娘の命を救いたい。その一心だけだった。

「私の治療は高いよ。払えるの?」

「いくらだ?」

「手付金として、10ルミナ(金貨10枚=200シール銀貨)を治療開始前に、あんたの家で払ってもらう。これは娘が助かっても助からなくても、一切返さない。残りの40枚は、娘が完全に回復した後の成功報酬だ。この条件を飲むなら、私はすぐに行く。どうする?」

(な! エリカ、そりゃいくらなんでもボリすぎだろう!)

(そうよ、モグリの無免許医じゃあるまいし)

「無理だ……そんな大金、今、持ち合わせは……」

「持ち合わせの話はしていない。これは成功報酬を含めた治療費だ」

 10ルミナ?

 オレの給料の2ヶ月分! 50ルミナなら年収じゃないか! とてもじゃないけど……。

 いや……家に帰ったら蓄えがあるから、なんとか手付は払えるか。

 あと、家にはアレがある。

「よし、分かった。払う。その代わり必ず助けてくれよ」

「決まりだな」

 次回予告 第9話 (仮)『急性肺炎の治療』

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