第3話 『美(少)女、アンナ』

 異世界歴〇〇年〇〇月〇〇日=2025年9月6日(土)17:57 <田中健太・52歳>

 ――ぼっとん(くみ取り式)便所だった。

 間違いない。

 昨夜と同じ強烈な臭いとカビと湿った土の臭い。

 泥でくっつけたような石壁とひび割れた石畳の床……。何から何まで同じだぞ。

 いや……何か違う……。

 明るい!

 昨夜は薄暗いランプ? の明かりだけだったのに、今は壁の窓からどう考えても昼間の日光が差し込んでいる。

 あっち(こっち?)の世界は日没したばっかりなのに。

 ふと足元を見ると、掃除用具が立てかけられていた場所が右から左に移っている。

 ……間違いなく違う時間軸、空間……異世界だ。

 ひとまずブレーン宇宙論(brane cosmology)……BCアルファ、いや、ベータ宇宙と名付けよう。

 さあ、ゲートが無限に開いているとは限らない。

 昼間は閉じていたんだ。

 オレは高鳴る心臓を抑え、計画通りに観測ミッションを開始した。

 まず、観測用の古いスマートフォンを異世界の石畳の上にそっと置く。汚ないからビニールに包んでいる。

 すると地磁気センサーのアプリ画面に表示されるグラフが、即座に異常なノイズを拾い始めた。ベースラインから大きく逸脱した、見たこともない乱れた波形だ。

 やっぱりこの空間は物理的に異常な状態にある。

 次は時間だ。

 昨日は夜で、こっち(異世界)も夜だった。

 そんで朝を迎えて日没と同時にこっちに来たはずだ。

 用意しておいてよかった。

 突然発生した『時間のズレ』問題を検証するために、オレはポケットからメインのスマートフォンを取り出した。

 もちろん、音を立てないように、工房の陰に隠れて慎重に計測する。

 昼だからなのか、奥からは数人の怒鳴り声とカンカンカンカンという鍛冶場特有の音が聞こえた。

 ん?

 んん?

 日本語じゃねえか!

 ……よく考えたら昨日の2人も日本語だった。

 ちょっと聞き取りづらかったけど、間違いなく日本語だ。

 ええ! ?

 異世界って言ったらラテン語か、昔のヨーロッパの言葉っぽいのが定番なんじゃねえの?

 ああ、頭が……。

 いや待て、ふう……今はやるべきことに集中しよう。

 画面には見慣れた東京の時刻が表示されている。

 ストップウォッチ機能を起動させてスタートボタンを押した。

 画面のデジタル数字が『00:00:01』を刻む。

 そのたった1秒が、オレには異常に長く感じられた。

 ……遅い。

 何だこれ、1秒がこんなに遅いわけねえじゃねえか。

 壊れてんのか?

 明らかに遅い。

 自分の心臓が刻む鼓動と、画面の数字が進むテンポが全く合っていない。

 オレは航空機エンジンのテストでコンマ1秒の遅延に神経をすり減らしてきた。

 数え切れないほどストップウォッチを見てカウントしてきたんだ。

 体に染み付いた1秒の絶対的な感覚が、訳のわからない警鐘を鳴らしている。

 ようやく画面が『00:00:02』に変わった。

 その間に工房の奥から聞こえてくるハンマーの音は、明らかに10回以上も響いている。

 落ち着け、落ち着くんだ……。

 画面が『00:00:03』に変わる。

 自分の体感と機械が示す客観的な数値との、致命的なまでのズレ。

 ぞわっ、と鳥肌が立った。

 くはあっ!

 もうダメだ! 正確な計算ができない……。比較対象できるこの世界の時計がない!

 オレはとっさにトイレのドアを開けて駆け込んだ。

 体感がどれだけズレているのかは分かった。でも、この世界の、ベータ宇宙の1日の長さすらオレは知らないんだ。

 はあはあはあ……。

 ふと、設置してあった時計をみた。

 17:57:04

 なんだって! ?

 たった4秒しかたってないじゃないか!

 ……ふう。

 ようやく呼吸が落ち着いてきた。

 理由はわからんけど、あっちのベータ宇宙じゃこっちの数倍の時間が流れている。

 時間の流れがものすごく早いんだ。

 正確な計測はできていない……。

 でも、諸々のセットの時間や鍛冶場のカンカンカンっていう音。

 あれで……良く思い出せ。

 1秒があまりに長くてあの音を数えたんだ。

 100回……いやもうちょっと150回?

 ダメだ、正確には思い出せない。

 150回で1秒だとする。

 そうすると、誤差はかなりあると思うけど10分前後経過してるのに、こっちは4秒!

 150倍近い時間の差があることが判明した。

 計器を見る。

 現実トイレの横にあるスマホの地磁気アプリを見ると正常値だ。

 やはり、なんらかの異常が発生してベータ宇宙とつながっていることが立証された。

 と、思う。

 よし、もう一度。

 時間の流れが現実世界は150分の1近く長いなら、多少長居しても私生活に支障はない。

 ……やっぱりアプリは異常値だ。

 そしてストップウォッチは相変わらず時計の意味をなさないくらい遅い。

 その時だった。

 観測に気を取られていたオレの耳に、工房の奥から複数の人間の話し声がはっきりと届いた。

 まずい! 誰か来る!

 おそらく鍛冶場か何かの工房(のトイレ)なんだろうが、職人の声だろうか。

 まずは身を隠して、彼らの会話に耳を澄ます。

 やっぱり日本語だ。

 でも純粋な日本語じゃない。時代劇に出てきそうな、時々聞き取れない単語や言い回しがある。

「おい、ケントの奴はまだ見つからねえのか?」

「ああ。ギルドの旦那も躍起になって探してるが、もう半月も姿を見てねえ」

「一体どこに行っちまったんだか……親方もカンカンだぞ」

 ケント……? 誰かの名前か。半月も行方不明とは物騒な職場だな。オレには関係のない話だ……。

 ん! ?

 何だありゃあ!

 オレの視線が、工房の壁に吸い寄せられた。

 連絡事項を貼るための掲示板のようだが、昨日は夜で見えなかった。

 日の光が差し込んで貼り出された一枚の羊皮紙が目に入る。

 ――尋ね人

 ――MISSING

 ――田中健太

 ――ケント・ターナー

 ――Kent Turner

 嘘だろ……。

 書かれた文字の下にはオレと瓜二つの似顔絵があるじゃないか。

 しかも何だ? 漢字と平仮名とカタカナと英語? なんじゃこりゃあ!

 ああもう!

 頭がパンクしそうだ。

 盗み聞きしたケントという名前に半月も行方不明の状況。

 そして目の前の自分そっくりの男の尋ね人の貼り紙。

 まさか、さっきの話に出てきたケントというのが、この似顔絵の男のことなのか……?

 オレと瓜二つの男がこの世界にいて、半月も前から行方不明になっている……?

 おい。

 ……ヲイヲイヲイ。

 美女と無双はどこいった?

 それはともかく、異世界ベータ宇宙のオレは尋ね人なのか?

 このまま調査を進めるなら、オレがその『ケント・ターナー』だと誤解される可能性がある。

 いや、可能性は極めて高い。

 まずは情報収集だ。

 時間の流れが早いのはわかった。磁場の乱れでここが地球じゃないことも判明している。

 次はケント・ターナーが何者で、今後のオレの調査にどんな影響があるのかを正確に把握する必要があるな。

 でもどうやって?

 工房の連中に聞くわけにはいかない。見つかった瞬間に、オレがケントだと思われて終わりだ。

 そうなれば、観測どころか面倒な尋問が待っているに違いない。

 半月もどこで何をしていたんだ、と。

 ……一旦、戻るか?

 それが最も安全で、合理的な判断のはずだ。

 一度現実世界(アルファ宇宙)に戻って今日の観測データを整理した後に、明日以降の対策を練り直す。

 良く考えたら、すぐにこっちに来たのも問題だ。

 リスクは常に最小限に抑えなきゃならない。

 オレは石畳に置いた観測用のスマホを回収しようとてそっと身を乗り出した。

「――親方! 大変です! ギルドから使いの者が!」

 工房の入り口から若い職人の慌てた声が響いた。

「何だと? ギルドの連中が何の用だ!」 

「それが……ケントの件で工房内を改めさせろって……!」

 まずい。

 非常にまずい。

 ギルドだって? まるで警察じゃないか。

 今から家宅捜索が始まるのか?

 こんな逃げ場のないトイレまで調べられたら、一巻の終わりだ。

 帰るしかない。

 今すぐ、この場を離脱するんだ!

 オレは観測用スマホを掴むと、振り返って現実世界へ繋がる古びた木製のドア――いや、自宅のトイレのドアに手をかけた。

 ガッ!

 鈍い音と共に、ドアがわずかに動いただけで、固く止まった。

 なっ……! ?

 もう一度、今度は全体重をかけて引く。

 ギギギ……と嫌な音を立てるが、やっぱり数センチしか動かない。

 何かに、物理的に塞がれている……?

 オレはドアの下のわずかな隙間に目をこらした。

 よく見えないが、床との間に何か黒くて長い影が横たわっているのが分かった。

 鉄の棒……?

 まさか……。

 工房の壁に立てかけてあった、あの鉄の棒が、何かの拍子に倒れてきて、引き戸の前に引っかかっているのか?

 嘘だろこんな時に!

 ギルドの連中が、すぐそこまで来ている。

 工房の入り口で、親方と何やら揉めている声が聞こえる。

 腹を、決めるしかない。

 オレはドンキで買ったコスプレ作業着のポケットに突っ込んでいた革手袋を、震える手で装着した。

 そして工房へと繋がる粗末な木の扉を、ゆっくりと音を立てないように、少しだけ開けた。

 ここから先は、観測じゃない。

 サバイバルだ。

 オレは周囲を注意深く観察した。

 工房の壁には、入り口以外に奥まった場所に小さな通用口がある。

 通用口はギルドの男たちに見つからずに到達するのは不可能だから残るは窓しかない。

 窓は地面から3メートルほどの高さにあった。

 窓枠の下には古い木箱がいくつか積まれているから、あれを足場にすれば窓まで手が届く。

 幸い窓に格子はなかった。

 あそこから外に出る!

「おい、今の音はなんだ!」

 見つかった!

 オレは振り返らずに全力で路地を駆け出した。

 後ろから追いかけてくる足音が聞こえるが、立ち止まったら捕まってしまう。

 表通りに出て人混みの中に紛れ込もうとした時に、視界の端に別の路地へと続くさらに狭い通路を見つけた。

 オレは咄嗟にそっちに進路を変えた。

 追っ手はオレが表通りへ逃げたと思ったのか、足音は遠ざかっていく……。

 ふう……。

 息を切らしながら壁に背を預けて呼吸を整える。

 現状判明したのは「ケント・ターナー」が、行方不明兼ギルドからの重要参考人として追われる身だということ。そしてオレに瓜二つで、このままでは、というか確実にオレがそのケントになってしまう事実。

 擬態用の作業着が、幸いしてまだ誰にも顔をまじまじと見られてはいない。

 しかし、それも時間の問題だ。

 オレは追っ手から逃れるために、さらに奥まった人通りのない路地へと足を進める。

 町外れへ向かって道を探しならが、人気のない方へ、ない方へ進んでいった。

 どのくらい時間がたっただろうか。

 ようやく町の雑踏を抜け、城壁を抜けられた。

 どうやら城壁から外にでるには身分証も何も必要ないようだ。怪訝な顔をされたけど、何とか抜けられた。

 城門をでると一本道があって森へと続いている。

 オレは追手を完全にまくために、迷わずに進んだ。

 町の中の騒がしさとは一転して、森の中は静まり返っている。適当な木陰と見つけて座って今後のことを考えた。

 まずい状況なのはわかっている。

 唯一の帰還ルートのトイレのドアは、物理的に塞がれているから、時間をかけて撤去しないといけない。鉄の棒ひとつなんだが、すぐには不可能だ。

 そんでもってオレの顔は、この国のギルドか何かに追われている『ケント・ターナー』に瓜二つ。

 さて……。

 プランは2つだ。

 1つは夜までこの森で息を潜めて、深夜もう一度工房に忍び込む。ドアを塞いでいる鉄の棒をどかしてゲートから帰還する。

 これが一番現実的で、リスクの少ない選択肢のはずだ。

 だだ……城門から中に入れるだろうか?

 異世界モノの定番で、夜は入国禁止ならどうしようもない。

 もう1つは……。

 オレは、リュックからペットボトルの水を取り出して、乾いた喉を潤した。

 森の空気はひんやりしていて気持ちいい。

 でも日が傾き始めいる。

 木々の影が急速に伸びていくのを見ると、言い知れぬ不安が胸をよぎった。

 夜の森か……。

 52歳の都会育ちのオッサンが、野生動物も毒草も、そして魔物とやらがいるかもしれない未知の森で、一夜を明かす。

 プランAとは比較にならないハイリスクな選択だ。 

 どうするか、早く決めないと時間ばっかり過ぎていく。

「――キャアアアアアッ!」

 甲高い悲鳴が響き渡った。

 女の声……いや、子供の声か?

 それほど遠くない。

 森の、もう少し奥の方からだ。

 関わるな!

 自己防衛本能が即座に命令を下す。

 面倒事に首を突っ込むな。

 お前は今、自分が生き延びることで精一杯のはずだ。

 悲鳴に混じって、複数の男たちの下品な笑い声が聞こえてくる。

 そうだ、聞かなかったことにしろ。今すぐこの場を離れるんだ。

 オレには関係ない。

 自分一人でさえ分けが分からないのに、面倒事なんてゴメンだ。

 オレは立ち上がって声のする方向とは逆へ、一歩足を踏み出した。

「……クソッ」

 足は思うように動かなかった。

 小さな頃の娘の顔が、勝手に浮かび上がってくる。

 ええくそっ!

 小声で悪態をつきながら、オレはドンキで買ったエアガンを取り出して震える手でグリップを握りしめた。

 ただのオモチャだ。

 でも今はないよりはマシだ。

 オレは、自分の立てた最も合理的で最も安全なプランを、自らの手で破り捨てた。

 何をやっているんだ、オレは?

 悲鳴が聞こえた方向へ音を立てないように、慎重に、ゆっくりと足を踏み入れていった。

 やがて、木々の向こうに開けた場所が見えた。

 オレは太い木の幹に身を寄せて、その隙間から内部の様子を窺う。

 3人の男が1人の少女を取り囲んでいた。

 男たちの身なりはみすぼらしく、手には錆びた短剣を握っている。野盗か、あるいはただのならず者か。少女は怯えきった表情で後ずさり、1本の大きな樫の木に背を押し付けていた。

 歳年は10歳前後だろうか。

 武装した男が3人。

 オレの武器は殺傷能力のないエアソフトガンと信号焔管。

 携帯用発煙信号と改造した防犯ブザー 。

 あとは最後の手段のスタンガンだ。

 第1目標は脅威の排除で第2目標は情報源の確保。

 少女を助けるのはあくまでその結果に過ぎない。

 人助けではなく、オレがこの未知の世界で生き延びるための情報収集活動の一環だ。

 そう自分に言い聞かせると、震えは少し収まった。

 よし、まずは奴らの注意を自分に引きつけよう。

 オレは足元に転がっていたクルミくらいの石を拾って、少女から離れた位置の木の幹に向かって下手投げで放った。

 カツンッ。

「誰だ」

 乾いた音が静かな森に響くと、男たちは一斉にそっちを向いた。

 オレはその隙を逃さずぶ木の陰から姿を現した。

「その子から離れろ!」

 リュックから右手にはオレンジ色の筒(発煙筒)を、左手には赤い筒(発炎筒)を同時に引き抜いた。

 まず、風上から右手で持ったオレンジ色の筒に着火して、野盗たちの少し奥へと全力で投げる。シューッという音と共に、オレンジ色の濃い煙が森の中に急速に広がり、野盗たちの視界を覆い隠していった。

「な、何だ! ?」

「煙だ! どこから! ?」

 野盗たちの注意が完全に煙に引きつけられた瞬間――。

 今だ!

 オレは煙幕に隠れたまま、左手で持った赤い筒に着火して声が聞こえる辺りへ、正確に投げ込んだ。

 森の闇が、一瞬にして真っ赤な光に焼き尽くされる。

「グワアアアアアアッ! !」

「目が!目がああああああ! !」

 煙の中で、方向感覚と視力を同時に奪われた男たちの阿鼻叫喚が響き渡る。

「こっちだ、早く!」

 オレは呆然と立ち尽くす少女の手をつかんで、一目散にその場から逃走した。

「もう大丈夫だ」

 オレはゆっくりと少女に向き合った。

 良かった。本当に良かった。

 少女の顔は涙と土で汚れていた。

 オレは彼女を安心させようと、できるだけ穏やかな表情を作る。子どもは嫌いじゃないけど、懐かれるかどうかは別問題だ。笑顔で近寄っても大泣きされた記憶もある。

 でも、その少女はまるで違った。

「お父さんっ!」

 は?

 そう叫んでオレの胸に勢いよく飛び込んできたんだ。

 え?

 何? 何がどうした?

「どこに行ってたのお父さん……。アン、ずっと……ずっと待ってたんだよ」

 ん?

 勘弁してくれよ、お父さん?

 いったい何が起きているんだ?

 次回予告 第4話 (仮)『ケント・ターナーの帰還』

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