第3話 『偽りの帰還』

 王国暦1047年9月6日(日)18:00 =2025年9月6日(土)18:04:36<田中健太>

 オレには(ケントには)奥さんと娘がいる。

 衝撃の事実だった。

 オレは52歳で、ケントも仮に52歳だとすれば十分あり得る話だ。

 でもこころの準備がいるだろう?

 オレは3人と一緒に対策をねって、自宅に行く決意をした。

 どのみち遅かれ早かれやってくるイベントだ。

 3人はギルマスとトマスに説明したように、森で助けられた設定にして、家に案内しよう。

 1人よりも説得力が増すはずだ。




 ■自宅

 酒場はギルド街の近くにあって自宅も近かった。

 歩いて数分の距離だ。




 すう……はあ……。

 深呼吸をする。

 ドンドンドン!

「ただいま~! 今帰ったよ! 遅くなってごめん!」

  オレは玄関のドアを叩きながら声をかけた。

 3人は横で待機している。

 しばらくすると、家の中からパタパタと軽い足音が近づいてくる。

「お父さん?」

 ドアの向こうから、少女の声が聞こえた。

 アンの声だ。

「ああ、アンか。お父さんだよ。ドアを開けてくれ」

 オレは記憶喪失を装う準備をしながら答えた。

 ゴトッとかんぬきを外す音がして、木製のドアがゆっくりと開く。

 そして――

「お父さんっ!」

 そう叫んでオレの胸に勢いよく飛び込んできたのは、10歳くらいの少女だった。

 栗色の髪を三つ編みにして、大きな瞳を涙でいっぱいにしている。

「どこに行ってたのお父さん……。アン、ずっと……ずっと待ってたんだよ」

 うえーん……ヒックヒック……ぐすんぐすん……。

 小さな体が震えながら、オレの作業着の胸元を必死につかんでいる。

 しゃくりあげる嗚咽が、布越しに振動となって伝わってきた。

 無理もない。

 個人差はあっても10歳ならまだ親が恋しい。

 特にお父さん大好きっ子ならなおさらだろう。

 もう何年も経験していない感覚……そりゃそうだ。息子が大学生だから10年以上前なんだもんな。

 それが、リアルにオレの作業着の胸元を、小さな手が必死につかんでいる。

「……ああ。すまなかったな、アン。ちょっと頭を打ったみたいでな。……よく思い出せないんだ」

 ベタな言い訳。

 でもアンは純粋な瞳でオレを見上げ、こくこくとうなずいている。

「でも良かった~お父さんが帰ってきて。大変だったんだね……でも、もう大丈夫だよ。お母さーん! お母さーん! お父さんが帰ってきたよー!」

 ……。

 家の奥から、また足音が聞こえてくる。

 今度はもう少し重い、大人の足音だ。

「アン? どうしたの? 誰か来たの?」

 女性の声が響いた。

 そして、光の中に一人の女性が姿を現した。

 うわっ!

 がっつり美人じゃねえか。

 20代前半~半ばか?

 オレは息をのんだ。

 亜麻色の長い髪を後ろで1つに束ねて、大きな榛色の瞳を見開いてオレを凝視している。

 若く美しい女性が、目の前の状況が信じられないのか、立ち尽くしていたのだ。

「あなた……本当に……ケント、なの……?」

 か細くて震える声だった。

 彼女の瞳から大粒の涙がいくつもこぼれ落ちる。

 レイナと教えてもらったその女性はゆっくりとオレに歩み寄って、伸ばした手がオレの頬に触れた。

 その手は、ひどく冷たい。

「ああ……夢じゃない……。本当に、帰ってきてくれたのね……!」

 次の瞬間、彼女はオレの胸に顔をうずめて声を上げて泣き始めた。




 あ、いかんいかん……。

 胸が、胸が当たっている……。

 いやいやいやいや!

 不謹慎だぞ、オレ!

 オレは戸惑いながらも、その細い体を支えて抱きしめるしかなかった。

 ウソの娘の次はウソの妻だ。

 ウソをつくのは、それがたとえベータ宇宙だとしても心苦しい。

 だからせめて、この母子に安心と幸せを味わわせてあげよう。

「そうだ、この3人が森で倒れていたオレを助けてくれたんだ」

 レイナは涙を拭いて、3人の方を向いた。

「本当に、本当にありがとうございました。あの……それじゃあ、大したおもてなしもできませんけど、どうぞ中へ……」




 家の中は、質素だけど清潔で整理整頓されていた。

 使い込まれた木製のテーブルと椅子があって、壁際には簡素な食器棚が置かれている。

 スープが暖炉の火にかけられていた。

「記憶喪失って……本当に、何も覚えていないの?」

 レイナは心配そうにオレの顔をのぞき込む。

 オレは曖昧にうなずいた。

「森で頭を強く打ったみたいなんだ。自分の名前も、アンのことも、お前のことも……断片的にしか思い出せない」

「そう……。でも、無事でよかった。本当に……。ああ、それからアンは杏奈ね。みんな愛称でアンって呼んでる」

 アン=アンナ=杏奈? か。

 レイナは心の底から安心した表情を見せた。

 疑う様子はまったくない。それだけオレ(夫)の帰りを待ちわびていたということか。

 食事中にレイナはケント(オレ)が失踪した日のことを話してくれた。

 オレはその日の朝、いつもどおりに工房へ向かったようだ。

 特に変わった様子はなかったという。

 仕事道具以外は何も持たずに出勤した。

 ギルドの人間が訪ねてきたのはその3日後のことだった。ケントの行方を知らないかと、しつこく聞かれたらしい。

 仕事上何日も職場で寝泊まりすることが多くて、レイナは気にもとめていなかったようだ。

「工房で何があったんだろうか……」

 ギルマスから一通り聞いたけど、なにか見落としはないだろうか。

「分からない……。ギアハートさんにも聞いたけど、あの日、あなたは昼過ぎに少しぼんやりしていた、としか……」

 有力情報なし。

 しょうがないな。今は失踪の理由を調べても仕方ない。

「明日から仕事へいくよ。その……オレは印刷機の話はしてたんだろ?」

「ええ、ようやく完成したって。でも、あなた体は……」

「大丈夫だ。それに、仕事をしないと生活ができない」

 オレの言葉に、レイナはそれ以上何も言わなかった。ただ、心配そうに眉をひそめている。




「(おいケント、すんげえ美人じゃねえか。いいねえ)」

「(おい、やめろ。からかうな)」

「(……)」

「(……)」




 エリカとルナの無言はなんだ?

 何なんだ?

 夜が更けていった。

 アンはとっくに眠っていて、家の中は静まり返っている。

 それからオレにとって最大の難関が訪れた。

 寝室――。

 レイナが、ごく自然に2階へ上がるよう促してくる。そこには当然、ベッドがが1つしかない。

「頭がまだ痛むんだ。今夜は階下のソファで……」

 オレが言い終わる前に、レイナが寂しそうにほほえんだ。

「ダメよ。やっと帰ってきたのに。半月も1人で、寒くて……眠れなかったんだから。それに、だったらなおさらベッドで寝なきゃ」

 そう言われちゃ、拒絶なんてできないよ。ぎこちなく寝台に横たわる。

 隣にレイナがもぐり込んでくる気配を感じた。石けんのような、清潔な香りがする。

 オレは壁際に向かって体を固くした。

 背中から彼女の体温が伝わってくる。緊張で全身の筋肉がこわばって、まったく眠れない。

 いかん! いかんいかんいかん!

 頭の中で、オレは必死に理性のブレーキを踏み続ける。

 彼女は、オレの妻じゃない。

 夫の帰りを半月も待ち続けた健気な女性なんだ。

 オレは、彼女の信頼を裏切るただの偽物だ。

 だけど背中のぬくもりと、すぐ隣で聞こえる穏やかな寝息が、何年も忘れていた感情を呼び覚ます。

 その時、背後でレイナが、小さく身じろぎをした。

 寝言のように、か細い声でつぶやく。

「……ケント……」

 その一言が、最後の引き金になった。




 ……ああ、もう、どうにでもなれっ!




 次回予告 第4話 『魔法省の魔の手』

 健太はケント・ターナーの妻レイナと娘アンナとの初対面を迎える。

 記憶喪失を装いながら、10歳の娘の純粋な愛情と美しい妻の献身に触れ、偽りの身分への罪悪感と家族を守りたい想いで葛藤する。

 転生者チームの協力で身分偽装に成功し、レイナからケント失踪の状況を聞く。

 夫婦の寝室で一夜を過ごし、レイナの寝言を聞いた健太は、偽りでもこの母子を守り抜く決意を固める。

 次回は工房に出勤して設計を始める。転生者仲間と連絡を取り合って印刷機の完成と生活の改善を目指す。しかしそこに魔法省の魔の手が忍び寄ってきて……。

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