2025年9月5日(金) <田中健太・52歳>
ガチャリ。
トイレのドアノブをひねって一歩、足を踏み出す。
その瞬間、オレの世界は音を立てて書き換えられた。
「……ん?」
鼻をついたのは強烈なアンモニア臭。
湿った土とカビ、そして濃密な植物が発するような、生命の匂い。
目に映ったのは、暖色のLED電球に照らされたトイレではなく、ゴツゴツとした岩肌がどこまでも続く、広大な洞窟だった。
「……は?」
脳が理解を拒絶する。
酔っているのか? いや、缶ビール1本でこんな幻覚を見るほど、オレの脳は安くできていない。
でも膀胱が限界を訴える声には逆らえなかった。
オレはまるで金縛りにあったかのように、その場で立ち尽くしたまま洞窟の土の床にする。
じょぼぼぼぼ……。
生々しい音と同時に立ち上る湯気。
家のトイレから漏れ出す光が洞窟の闇を照らしている。
恐る恐る振り返れば、そこには確かにオレの住むマンションの廊下があった。ドアのフレームを境界線として、こちら側は文明、向こう側は完全な未知。
……これは、現実だ。
だというのに、なぜだろう。
パニックになるべきこの状況で、オレの心の一部分は、奇妙なほど冷静だった。
オレの名は、田中健太。52歳。
航空機エンジン設計事業本部、取締役技術顧問。
肩書だけは重々しいが、その実態は、実務の第一線から完全に引きはがされた飼い殺しの名誉職だ。
かつて、オレがコンマ1ミリの精度に魂を燃やした日々は遠い昔。今のオレの仕事は、誰からも読まれることのない技術レポートをまとめ、当たり障りのない決裁印を押すだけ。
巨大な機械の歯車ですらない。
動きを止め、たださび付いていくだけの、忘れ去られた部品。
そんな人生の、終着駅。
それに比べれば、この訳の分からない状況は――。
……いや、感傷に浸っている場合じゃない。
しかしオレは機械工学者だ。パニックに陥っても、すぐに分析と仮説構築を始めてしまう。
職業病だな。
『ブレーン宇宙論』
脳裏に浮かんだのは、現代物理学の仮説の1つ。
この世界(宇宙)は、高次元空間に浮かぶ膜(ブレーン)のようなもので、すぐ隣に、別の宇宙膜が存在するという理論。
パンのスライスみたいなもんだ。
何かの拍子に2つのブレーンが接触して、極小のワームホールが形成された……?
「……ありえない。だけど、目の前の現象を説明するには、それくらい突飛な仮説が必要だ」
オレは一度ドアを閉めて部屋に戻ると、道具箱からありったけの計測機器をかき集めた。
古いスマートフォンにインストールした各種センサーアプリ、放射線測定器、温湿度計、レーザー距離計……。
オレが唯一、情熱を失わずにいられる『おもちゃ』だった。
もう一度ドアを開けるが、光景は変わらない。
オレは震える手でスマホを構えて計測を開始した。磁場は異常値だし……なんだ、これは?
スマホの時計が異常に遅れているじゃないか。
多少どころの話じゃない。この空間では時間の流れが違うんだ。
ゴーン……ゴーン……。
洞窟の奥深くから微かに鐘の音が聞こえた。
人がいて文明がある。
その事実は、オレの心の奥底でくすぶっていた技術者としての探究心に、再び火を点けた。
「確かめなければ……」
これは事故か?
それとも、神が与えたもう1つの人生(プロジェクト)か?
翌日の夜。
メガドンキで調達したサバイバルグッズで身を固めたオレは、再び洞窟の前に立っていた。
光が差す方角へ、慎重に、だが確かな足取りで進む。
洞窟を抜けると、うっそうとした森だった。植物が自生して、巨大な木々が空を覆っている。
その時だった。
甲高い悲鳴と、動物のうなり声が響いた。
「くそっ! 数が多すぎる!」
「エリカ、下がって!」
日本語だ。
茂みの向こうに人影が3つ、異形の群れに囲まれていた。
緑色の肌に子供ほどの背丈だが、どう猛な目つきをしている。
あれはまさか……ゴブリンか?
ファンタジー小説で読んだ知識が、最悪の形で現実と結びつく。
剣を振るう男も、杖のようなものを構える女たちも、明らかに劣勢だった。
女は魔女っぽい格好をしているが、魔法は使っていないぞ。
どうする……助けるか?
自慢じゃないが、ケンカの経験など皆無。オレはただの52歳の技術者だ。ここにいるべき人間じゃない。
――本当に、そうか?
会議室で、死んだ目でうなずくだけの自分。
失われた情熱。色あせた日常。
あのまま、さび付いて朽ち果てるだけの人生。
――冗談じゃない。
オレの人生は、まだ終わっちゃいない。
ここで見過ごせば、オレは、オレでなくなる!
オレはリュックから2つの筒を取り出した。1つはオレンジ色の発煙筒で、もう1つは強烈な光を放つ発炎筒だ。
「風向きは、よし」
足元の石を拾って、3人から離れた位置の木の幹へ全力で投げる。
カツンッ、という硬い音に、ゴブリンたちの注意が一瞬そちらへ向いた。
「――今だ!」
発煙筒のピンを抜いて、ゴブリンたちの群れの奥、風上へと投げ込む。オレンジ色の濃い煙が、またたく間に森の視界を奪った。
混乱してゴブリンたちは叫び声を上げる。
「次だ!」
発炎筒に着火して煙の中心へ正確に投げ込んだ。
――閃光。
森の闇が、真昼のように白く焼き尽くされる。
「ギャアアアアアアッ! !」
断末魔の悲鳴がひびくなか、オレは叫んだ。
「こっちだ! ! 早くしろ!」
オレたちはようやく逃げ切って森を抜け、平野に出た。
「はあ、はあ、はあ……何とか、何とか逃げられましたね」
「ありがとう、助かったよ。あれは……魔導具か? オレはマルクス・アイゼンハルト。金属加工ギルドで働いている」
「ああ、オレは……田中健太……まあ、うん」
魔導具? やっぱり魔法はあるのか。
そしてこいつらは使えない?
「ありがとう。私はエリカ・ハーブマン。治療師……薬師なのかな? 人によっては魔女って呼ばれてる。ムカつくけどね」
20代後半? いかにもそれっぽい格好をした美女だ。
「私は……ルナ・アルケミア。ありがとう……。錬金術師」
錬金術師? 間違いなく異世界転生ファンタジーじゃねえか。この子は20代前半かな?
「さて、今日はもう終わりにして、気を取り直して酒場で一杯やらないか?」
「いいね!」
「うん」
「健太、あんたもいいよな。礼はしなくっちゃ」
「お、おう……」
情報も、拠点も、休息も必要だ。断る理由はなかった。
彼らに案内されて足を踏み入れた街の酒場は活気にあふれている。
そしてオレの目から見れば、おびただしい数の『改良点』に満ちあふれていた。
建物の梁は太いだけで、荷重分散が考えられていない。テーブルの脚は不ぞろいでガタついている。耳の長いエルフが背負う弓の矢は、長さも重さもバラバラだ。屈強なドワーフが振るう戦斧は、鋳造したままの粗末な鉄の塊に過ぎない。
すべての観察結果が、オレの頭脳の中で1つの結論へと収束していく。
これはひょっとして……。
この世界に欠けているのは、個々の職人の腕じゃない。もっと根源的なものだ。
――技術改良や開発という思想。
誰が作っても同じ性能を発揮する『規格化』や、素材の性能を極限まで引き出す『冶金学』。
この世界には、そのどちらも存在しないのか?
もしくは存在していても、生まれたばかり?
オレは自分の指先がかすかに震えているのに気づいた。
……武者震いだ。
なぜかわからんが自宅のトイレの奥に広がった世界――。
目の前に広がる無数の課題を前に、とうの昔に忘れ去っていたはずの、熱い感情がよみがえってくる。
この世界は技術者を……オレを、必要としているんじゃないか?
――そうだ。
オレを現場から追いやり、牙を抜いた会社の連中よ。
あんたたちは、オレの価値を見抜けなかったんだ。
トイレのドアの向こうにあったのは、ただの異世界じゃない。
それは、オレの知識と経験のすべてを注ぎ込める、最高の「未開拓市場(ブルーオーシャン)」だった。
はは……。
はははははは!
ひょっとしてオレならここで、産業革命だって……できるんじゃないか?
田中健太、52歳。
オレの第二の人生が、今、確かな手応えと共に始動した。


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