令和9年7月15日(2027年7月15日) 佐世保 護衛艦『飛龍』艦内
司令室の大型モニターに、緊急速報のテロップが素早く流れた。
『【速報】柳井総理、都内ホテルで何者かに撃たれる。心肺停止の模様』
その場にいた山口多聞、艦長の加来、副長の鹿江の三人は、言葉を失って画面を見つめた。緊迫したアナウンサーの声が、信じがたい事実を伝えている。
「そんな、馬鹿な……」
鹿江が苦しそうに言った。艦内に衝撃と動揺が広がる。
山口は厳しい表情でモニターを見つめていた。
画面には騒然とした事件現場の映像が映し出されている。
暴力で言論を封じ込める行為は、決して許されない。しかし、彼の脳裏には昭和の歴史を塗り替えた2つの事件が浮かんでいた。政党政治に終止符を打った五・一五事件と、国家を内側から転覆させかけた二・二六事件である。
「これが、令和の五・一五にならなければ良いが」
山口は静かにつぶやいた。
重い空気の中に彼の声が響く。
1発の凶弾が国民の同情と過激な世論を呼び覚まし、日本の未来を予測不可能にしないかと心配していたのだ。
■同日夜 東京・永田町
柳井総理の死亡が公式に確認された。日本中が深い衝撃と悲しみに包まれる。
官邸では、臨時で総理代行となった久米官房長官がやつれきった表情で記者会見に臨んでいた。
「いかなる理由があろうとも、かかる卑劣な蛮行は民主主義への挑戦であり、断じて許されません」
選挙戦は事実上中断されたが、水面下では激しい動きが始まっていた。
リーダーを失った少数与党の自由保守党は弔い合戦を戦う気力さえ失い、後継者問題を巡る派閥間の暗闘が始まり、政治の中枢は完全にまひ状態に陥ったのである。
一方、日本新生党の本部で会見に臨んだ橘孝太郎は、黒いネクタイを締めて厳粛な面持ちで語り始めた。
「柳井総理の突然の訃報に接し、心から哀悼の意を表します。暴力によって言論を封殺する行為を、我々は最も強い言葉で非難します」
彼はまず、明確にテロを非難した。その上で言葉を続ける。
「しかし、我々はこの悲劇にひるんで立ち止まるわけにはいきません。こんな事件が起きてしまうほど、我が国の分断と混乱が深刻である現実を直視しなければならない。今こそ日本は強いリーダーシップの下で1つになり、この国難を乗り越えなければならないのです」
その言葉は冷静かつ力強かった。
悲劇を前にしてなお、国家の未来を見据えるその姿勢は、多くの国民の目に頼もしく映ったのである。
事件から数日が経過すると、社会の空気は奇妙な変容を見せ始めた。
犯人の男は黙秘を続けていたが、警察が特定した犯人のSNSアカウント内容が拡散されたのである。
『国を売る政治家に、国を語る資格はない』
『主権を守れぬ者には、未来を託せない』
テロ行為は許されない。
誰もがそう理解している。
しかし、SNS上では犯人の動機に同調する危険な言説があふれかえった。
・ 東中野荘6畳1Kで家賃3万8千円
・収入は生活保護月額12万円(住宅扶助込み)
・貯蓄はほぼゼロ(通帳残高3,247円)
・健康状態は慢性的な腰痛、軽度のうつ症状
大学を卒業してやっと就職した会社から解雇され、2度目の就職先は倒産した――。
明日は我が身……。
政党政治への不信と絶望が、テロ事件によって現政権への憎悪として膨らみ始めたのである。
犯人に関する詳細な報道は社会の空気に新たな燃料を投下した。
それはもはや抽象的な政治理念への不満ではない。日々の生活にあえぐ一人の国民による絶望が国家の頂点に向けられた、あまりにも生々しい現実だった。
SNSには、犯人の境遇と自らのそれを重ね合わせる声が大量にあふれかえる。
「月収12万でどう生きろと? 政治家には分かるはずない」
「非正規で切り捨てて、次は自己責任か。ふざけるな」
「この国では真面目に働いても報われない。犯人の絶望は他人事じゃない」
テロリストへの共感ではない。
その根底にある社会構造への静かな怒りだったのだ。
■佐世保市・某所
その夜、山口多聞は官舎に戻らずに、自家用車を運転して佐世保の街が一望できる高台に来ていた。
2年前にこの時代に現れた彼に、政府は全く新しい戸籍と、それに付随する全ての証明や権利を与えたのである。
運転免許証(もちろん教習と試験を受けて)や銀行口座、乗っている国産セダンなどの全ては、昭和の軍人を令和の自衛官として機能させるための、国家による大規模な隠蔽工作の一部だった。
適応プログラムの一環で車を与えられたのは山口のみであるが、他のタイムストリップしてきた生き残りの飛龍乗組員も同様の処遇を受けている。
夜景を眺めていると、スマホに流れるニュース動画では、経済評論家や社会学者が、犯人の生い立ちから現代日本の貧困問題までを深刻な口調で論じていた。
やがて山口は助手席に置いていた一冊の古い本を手に取る。
高橋是清の伝記だった。
ページをめくるでもなく、ただ静かに考える。
二・二六事件で凶弾に倒れた高橋是清は、軍事費の膨張を抑えようとして軍部の憎しみを買った。
だが、その根底には何があったのだろうか。
世界恐慌に端を発して国民生活が困窮したから政治への不信が高まった。そして、その不満を吸収して過激な思想が肥大化していったのである。
歴史は繰り返すのではない。同じ構造の上で、形を変えて現れるだけなのだ。
不意にスマホにニュース速報が入ってきた。
大手通信社のスクープである。
『【速報】柳井総理暗殺事件、犯人の口座に不審な入金か。海外経由の可能性も。捜査関係者への取材で判明』
山口は険しい表情で記事の詳細を開く。
そこには犯人が生活に困窮し始めた時期と符合する、海外のサーバーを経由するオンラインサービスからの複数回にわたる少額の入金事実が記されていた。
警察当局は金の流れの解明を急いでいる、と。
「……やはり、そうか」
山口は静かにつぶやいた。
点と点が、一本の線でつながったのである。
生活に困窮した国民を金で誘い、特殊な機材を与えて実行犯に仕立て上げる。
犯人は自殺するので背後関係の解明は困難を極める。
これは個人の絶望から生まれたテロなどではない。
国家の機能をまひさせて社会を混乱に陥れる目的で行われた、外国勢力による高度な情報工作(インテリジェンス・オペレーション)だ。
「国の守りとは領海や領空を守るだけではない。国民一人一人の生活と、その尊厳を守るのが国防の根幹だ。その根幹が腐れば、国はどんな強固な軍備を持とうとも内側から崩壊する」
車窓から見える佐世保の街の明かりをみつめながら山口はつぶやいた。
■東京・永田町
山口がニュースで見た情報はすでにほとんどのメディアで報道されていた。
犯人が生活に困窮し始めた時期と海外から不審な入金を受けていた時期が一致する。
貧困につけ込んだ、外国勢力による工作の可能性があるのだ。
その一報は、国民の不安を恐怖へと変えた。
『スパイ防止法』の必要性を訴えてきた日本新生党の主張が、恐ろしいほどの現実味を帯びて国民に突き刺さる。
この好機を橘孝太郎が見逃すはずはなかった。彼は再度、緊急記者会見を開く。
「柳井総理の命を奪ったのは、一発の凶弾だけではない! 国民を貧困と絶望に突き落とし、その隙を外国勢力につけ込ませた、これまでの弱腰な政治そのものであります!」
橘は自由保守党政権の経済政策と安全保障政策を、一本の線で結びつけて断罪した。
「強い経済なくして、強い国家なし! 我々はこの国から貧困をなくし、国民の尊厳を取り戻す! そして、日本の内側に巣食う敵を断固として一掃する!」
その演説は国民が抱いていた怒りや不安、そして恐怖の、完璧な受け皿となった。まひ状態の与党とは対照的に、明確なビジョンと力強い言葉を示す橘に、国民の期待は熱狂的な支持となって集中していく。
やがて、中断されていた選挙戦の再開が決定された。
それはもはや、政策を戦わせる場ではなかった。国家の存亡を賭して、国民が「新しい指導者」を選ぶ、厳粛な儀式と化していた。日本の歴史が、大きく変わろうとしていたのである。
次回予告 第17話 (仮)『変わらぬ与党と新しい日本』

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