1591年8月15日(天正19年6月26日) オラニエアカデミー 中央広場
「本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます」
シャルル・ド・モンモランシーが、約30人の投資家たちを前に堂々と挨拶した。40歳の貫禄ある体格と、ホールン伯の息子という社会的地位が、自然な権威を醸し出している。
「私はシャルル・ド・モンモランシー。本日は、オラニエアカデミーで開発された革新的な動力装置をご紹介いたします」
開発着手から3ヶ月。
連日連夜の試行錯誤を重ね、ようやく公開実演にこぎつけた蒸気機関が、広場の中央に据え付けられている。
参加者の中には、シャルロットに最初に投資したアムステルダムの羊毛商人ヤコブ・フィッシャーや、香辛料貿易で財を成したウィレム・ファン・デル・ドースがいた。
その後ろには露骨に懐疑的な表情を浮かべるコルネリス・ヴァン・デ・プートの姿がある。
「技術的な説明は、我がアカデミーの冶金技術者、ハインリヒ・ベッサー(27歳)が行います」
シャルルは隣に立つ男性を紹介した。
「ハインリヒ・ベッサー。ドイツ各地で15年間、金属精錬と機械製作に従事してまいりました。この装置の設計・製造責任者です」
ハインリヒが前に出て、落ち着いた声で技術的な説明を始める。
「皆様、この装置は古代ギリシャのヘロンが記録した蒸気の原理を、実用的な動力源として発展させたものです」
「また、化学的な理論については、我がアカデミーの化学顧問、ヨハン・ヴェルデン(28歳)が補足いたします」
「自然哲学、特に物質の変化と熱の関係について研究しております」
会場の隅には、フレデリック、ウィル、オットーたちが控えていたが、子供なので、あくまで見学者としての扱いだった。
「まず、基本原理をご説明しましょう」
ハインリヒが装置を指差した。
「水を加熱して蒸気にすると、体積が約1700倍に膨張します。この膨張力を機械的な動力に変換するのが、この装置の核心です」
「具体的な数値を示した資料をお配りします」
シャルルの指示で、アカデミーの助手たちが詳細な技術仕様書を配布した。
「ボイラー容積800リットル、作動圧力0.2気圧、理論出力15馬力……」
貿易商のアーレント・ケッセルが資料を読み上げながら、興味深そうに眉を上げた。
「これらの数値は、どのような根拠で算出されたのですか?」
「我がアカデミーの研究により発見した、気体が熱により膨張する法則を基礎としております」
ハインリヒは学術的な権威を背景に答えた。
「おいハインリヒ」
「なんだヨハン」
「小難しい理論より……ていうか分かりゃしないんだから、さっさと見せた方が早いって」
「そうそう。論より証拠っていうだろ? 人間、百聞は一見にしかず、だしな」
ヨハンとクリストフが結論を急ぐ。
しかし、確かにそうだ。
一般人に圧力や馬力の話をするより、見せた方が早い。
「お、おう……」
「それでは、実演をご覧いただきましょう」
シャルルが宣言すると、ハインリヒがボイラーに点火した。
「ただし、事前にお断りしておきます」
ハインリヒが投資家たちを見回した。
「この装置はまだ実験段階です。安定した運転には多くの課題が残っております」
点火から30分が経過。ボイラーからようやく蒸気が立ち上り始めた。
「蒸気の発生を確認しました」
助手が簡易的な圧力指示器を確認する。水銀柱を使った原始的な装置だが、それでも当時としては画期的だった。
「弁を開きます」
ハインリヒが慎重にバルブを操作した。
シュー、シュー、という音と共に、配管から大量の蒸気が漏れ始める。継ぎ手という継ぎ手から白い蒸気が噴出し、装置全体が蒸気に包まれた。
「蒸気漏れが激しいようですが……」
商人協会の長老、コルネリス・ヴァン・デ・プートが鼻で笑って早速指摘した。
「はい、現在の最大の課題です」
ハインリヒは隠さずに答える。
「鍛造鉄の品質が不均一で、継ぎ手の加工精度にも限界があります。完全な気密は現在の技術では不可能です」
不可能です、という発言に、会場から一斉に落胆の声が漏れる。
それでも、水槽に設置されたポンプ機構がゆっくりと動き始めた。ただし、その動きは極めて不安定で、数秒動いては止まり、また動くという具合だった。
「水が……少し上がっているようですが」
羊毛商人のヤコブ・フィッシャーが水位を確認した。確かに、わずかずつだが水が汲み上げられている。
「現在の揚水能力は、この砂時計が落ちるまでの間(1分間)に、約17mingel(ミンゲル・約20.57リットル)程度です」
ハインリヒが正直に数字を公表した。
「大人1人が手押しポンプで作業した場合の約3分の1の能力です」
投資家たちの間にざわめきが起こった。期待していたほどの性能ではない。
「それで商売になるのですか?」
香辛料商のウィレム・ファン・デル・ドースが厳しい質問を投げかけた。
シャルロットからの紹介と投資仲間も参加するので来てみたが、商売にならなければ意味がない。
「現時点では正直に申し上げて困難ですが、この装置には人力にない利点があります」
「どのような?」
「連続運転です。人は疲労しますが、この装置は燃料がある限り動き続けます」
実演を続けること約1時間。その間に装置は3回停止し、そのたびにハインリヒが調整を行った。
「故障が頻繁のようですが」
貿易商アーレント・ケッセルが心配そうに言った。
「はい。現在の稼働率は約6割程度です」
ハインリヒは苦笑いしならがも、どこか自信めいたものを感じさせた。
「バルブの調整、蒸気圧の管理、燃料の追加…熟練した職人が常時監視する必要があります」
「燃料消費はどの程度ですか?」
「泥炭を1時間に約50kg消費します」
今度はヨハンが燃料データを示した。
「1日8時間運転で400kg、年間約100トンの泥炭が必要です」
「コストは?」
「泥炭代だけで年間約250ギルダーです」
少々お待ちを、と言って、シャルルがシャルロットから渡された財務分析を読み上げた。
「これに、オペレーター2名の人件費年間100ギルダー、メンテナンス費用年間50ギルダーを加えると、年間運用コストは400ギルダーになります」
投資家たちの表情が厳しくなった。
「では、従来の人力と比較して、どの程度の効果があるのですか?」
「現在の性能では……」
シャルルが一呼吸置いた。
「10人の熟練工が行う排水作業を、この装置1台で代替するには、まだ課題があります。現実的には2-3人分の作業量です」
「つまり、コスト削減効果は?」
「従来の人件費を年間500ギルダーとすると、実質的な削減額は100ギルダー程度で、装置の製造費800ギルダーを考慮すると、投資回収には8年を要する計算です」
会場が静まり返った。
「それでは投資の魅力に乏しいのでは?」
コルネリスが辛辣に指摘した。
「確かに、現在の性能では限定的です。しかし、皆様にお見せしたいのは現在の性能ではありません。この技術の将来性なのです」
ハインリヒが前に出て将来的な計画を語る。
「我々は材料技術の革新により、効率を10倍に向上させることを目指しています。高品質な鋼鉄の開発、精密加工技術の確立、燃料効率の改善……これらが実現すれば、この装置は真に革命的なものとなります」
「具体的な改良計画はあるのですか?」
「はい。段階的な改良プログラムを策定しております」
ヤコブの問いに対して、シャルルが説明を続けた。
「第一段階として、コークス製造技術の確立。第二段階として、高炉による高品質銑鉄の生産。第三段階として、反射炉による精密な炭素制御技術の開発です」
「それには、どの程度の期間と投資が必要ですか?」
「蒸気機関の改良と、それに必要な製鉄技術の革新を含めた包括的な計画では……」
シャルルはいったん息を吸って、吐き、フレデリックたちを見回した。
シャルロットや他の面々がうなずくのを確認して、公表する。
「今後2年間で、300,000ギルダーの投資が必要です」
会場が静まり返った。
「300,000ギルダーだと?」
コルネリス・ヴァン・デ・プートが息をのんだ。
「ムチャクチャな! 馬鹿げている! さあみんな、帰ろう。こんな茶番には付き合っておれん」
「内訳をご説明いたします」
ハインリヒが前に出て説明するが、コルネリスは取り巻きの商人を連れて帰り支度を始めた。
「蒸気機関の改良に48,000ギルダー、製鉄技術革新に250,000ギルダー、その他基盤整備に2,000ギルダーです」
「製鉄だけで250,000ギルダー?」
ヤコブが驚愕した。
「はい。コークス窯の建設、大型高炉の建設、反射炉の建設、精密加工機械の開発…これらすべてが必要です」
投資家たちの間にざわめきが広がった。
当初想定していた小規模な改良とは次元の違う計画である。コルネリスの姿はもうない。
「そんな巨額では、とても……」
ヤコブが困惑した表情で言いかけた時、会場の後方から声が上がった。
「興味深い計画ですね」
振り返ると、40代半ばの堂々とした男性が歩み寄ってきた。上質な衣服に身を包み、その立ち居振る舞いからは相当な財力を持つ商人であることが窺えた。
「私はコルネリス・ピーテルスゾーン・ホーフトと申します」
男は丁寧に頭を下げた。
「アムステルダムで貿易業を営んでおります」
投資家たちの間に小さなどよめきが起こる。ホーフト家は新興ながら急速に財を築いている商家として知られていた。
父親も含めた兄弟7人が船長で、バルト海穀物交易を中核に事業を拡大、イタリアにも進出している。
交易業のほか海運業、各種の会社経営など多角的に投資し、莫大な財産を築いていた。
1588年にはアムステルダム最年少市長に就任し、現在もその任にある。
「本日の実演、大変興味深く拝見させていただきました」
コルネリスは装置を一瞥してから、シャルルに向き直った。
「特に、将来の技術発展に関する構想には感銘を受けました」
「ありがとうございます。しかし、ご覧の通り現在の装置はまだ……」
「現在の性能は問題ではありません」
コルネリスはシャルルの言葉を遮った。
「重要なのは、この技術が将来もたらす可能性です。蒸気の力で機械を動かす。これは間違いなく、世界を変える技術です」
彼の目は確信に満ちていた。
「30万ギルダーは確かに巨額です。だからこそ、私が10万ギルダー投資いたします」
会場が静まり返り、投資家たちは息をのんだ。1人で全体の3分の1を投資するという申し出である。
「ただし、条件があります」
コルネリスの表情が引き締まった。
「この事業のために正式な会社を設立していただきたい」
「会社、ですか?」
シャルルが首を傾げた。
「はい。『オラニエ蒸気機械会社』とでも名付けましょうか。蒸気機関と製鉄技術の開発・製造を専業とする会社です」
コルネリスは具体的な構想を語り始めた。
「私は筆頭株主……として、経営に関与いたします。技術開発の方針、資金の使途、将来の事業展開について、発言権を求めます。それから一株いくらでしょうか。当然配当もいただく。そこは明確にしていただきますよ」
株?
投資家たちは聞き慣れない言葉に頭を傾げている。
「それは……(株だと? 何もんだ?)」
シャルルは転生者たちと目を交わした。これまで彼らは技術開発に集中してきたが、経営面での外部関与は想定していなかったのである。
「加えて、製造された蒸気機関の独占販売権を求めます」
コルネリスの条件はさらに続いた。
「私の商業ネットワークを活用すれば、ヨーロッパ全域への販売が可能です」
「独占販売権とは……」
「製造はこちらで行い、販売は私が担当する。利益は出資比率に応じて分配いたします」
フレデリックは複雑な表情を浮かべていた。確かに魅力的な提案だが、技術の主導権を握られる可能性もある。
それに、製造して販売会社(仮)に売れば、製造業として成立する。株の過半数はコルネリスが持つとは思うが、背に腹は代えられない。
「検討のお時間をいただけますか?」
シャルルが慎重に答えた。
これは財務的にシャルロットに相談しなければならない。
さらに製鉄や蒸気機関は、どう考えてもオーバーテクノロジーであり、オーパーツだ。易々と輸出できるものではない。
国内流通が限度だ。
機密保持の件も考えなければならない。
「もちろんです。ただし……」
コルネリスは時計を確認した。
「この提案は本日限りとさせていただきます。明日になれば、状況が変わる可能性もありますので」
暗に、他の投資機会があることを示唆している。
本当に投資のあてがあるのかは微妙だ。
しかし、資金面で厳しいのは事実であり、アイデアや技術はあっても、それを実行するには金がいるのだ。
簡単にチャッチャラーっと儲かる異世界転生ではない。
現状で暁の方舟商会がコルネリスに勝てる見込みは0である。
「分かりました。1時間ほどお時間をいただけますか?」
「承知いたしました」
コルネリスは優雅に一礼すると、会場の隅で待機した。
フレデリックたちは急遽、緊急会議を開くことになった。10万ギルダーという巨額投資と引き換えに、コルネリスが求める条件は果たして受け入れるべきものなのか。
重大な決断の時が迫っていた。
次回予告 第29話「材料の壁」

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