慶応三年七月二十一日(1867年8月21日)
「それから」
次郎は横にいる隼人と廉之助に確認を取りながら、重要項目をムスティエに告げる。
「この無煙火薬の使用にあたっては、その威力・圧力に耐えうる強靭な鉄が必要になります。これはご理解いただけますよね?」
ムスティエは、技術担当官に次郎のその指摘の正誤を確認する。
担当官が十分に考えられる、と肯定すると、『もちろんです』とうなずいた。
「火薬の製造管理方法と、製鉄の方法ですから、まったく別の技術です。従来の鉄では耐えられず、暴発事故の危険性……いや、暴発します。しました」
次郎は無煙火薬の製造管理と、それを使用する兵器(小銃等)製造にあたっての鉄の製造技術はセットだと言いたいのだ。
セットではあるが、まったく別の技術であるがゆえに、別問題として協議しなければならない。
「つまり、無煙火薬単体では実用化できません」
次郎は会議室の空気が重くなったのを感じながら続けた。
「従来の鉄製銃身では確実に暴発事故が起こります。これは推測ではなく、実際に起こった事実です」
ムスティエの表情が変わった。
技術担当官が慌てて資料を確認している。しばらくして担当官のYESの素振りを見せると、当然の質問を次郎に投げかけた。
「では、その製鉄技術も含めて技術供与の対象となるのでしょうか?」
600万ドルで全部収まると考えていたムスティエにとって、誤算である。
「いえ、別の項目です」
次郎は断言した。
それはフランスの論理であって、今回は圧倒的な売り手市場である。
「これは火薬製造とは全く別の技術分野です。化学と冶金学では専門性が異なります」
次郎は隼人に技術的な確認をとった上で発言を促す。
「具体的には以下の技術が必要になります」
専門的な回答は廉之助の補佐のもとに隼人が行った。
「第一に高強度鋼製造技術。無煙火薬の高圧に耐える特殊鋼、薬室と銃身の材質改良技術、熱処理と品質管理技術。第二に精密機械加工技術。高精度な銃身加工技術、薬室の精密加工技術、品質検査技術」
最後に、と言って一呼吸置き、続ける。
「安全管理技術。製造工程での安全管理、品質検査による事故防止、保管・運搬時の安全対策です」
専門用語の訳は、事前に鋤雲とお里が勉強していた。
ムスティエは技術担当官と財務担当官を交互に見たが、明らかに予想以上の技術的複雑さに困惑している。
「では、それらの技術の供与に関しては、600万ドル以外の費用が必要だと?」
「はい」
次郎は短く答えて続ける。
「火薬製造技術が600万ドル、製鉄技術は別途協議が必要です。技術分野が全く異なりますから」
会議室は静まりかえった。
慶勝が口を開く。
ここまでは日本側の想定通りだ。
技術的な質問には隼人と廉之助が答え、次郎と慶勝が事前に協議した内容をシミュレーションどおりに応答しているのである。
「ムスティエ閣下、我々も可能な限り協力したいと考えております。しかし、技術の性質上、段階的な協議と供与が必要になります」
「段階的、と申しますと?」
「まず火薬についてはさきほどの協議のとおりですが、その後に必要な製鉄技術については別途検討する、ということです」
次郎が補足した。
「製鉄技術については、フランスでは既に平炉法とベッセマー法が確立されています。しかし、無煙火薬用の特殊鋼は別次元の技術です」
この時鋤雲が慶勝に耳打ちした。慶勝の表情が僅かに変わる。
「実は」
慶勝が重々しく口を開いた。
「この技術に関して、他国からも関心が寄せられております」
ムスティエの顔色が変わった。
「他国と申しますと?」
「アメリカ、オランダ、ロシア……そしてカナダからも非公式な打診がございます」
会議室の緊張感が一気に高まった。技術供与交渉が国際競争の様相を呈し始めたのである。
「我々としては、最初に正式な提案をいただいたフランスを優先したいと考えておりますが……」
慶勝の言葉に含みがあった。
次郎は内心で微笑んでいる。
交渉が予想通りの展開になっているからである。
技術の複雑さを示すことで価値を高め、同時に国際競争の存在を示唆することで、フランス側の焦りを誘う戦略が功を奏していた。
ムスティエは深く考え込んでいる。
600万ドルで済むと思っていた技術供与が、予想以上に複雑で高額になる可能性が見えてきたのだ。
「技術者派遣についても再検討が必要になりますね。化学技術者だけでなく、冶金技術者も必要になります」
技術担当官が呟いた。
「その通りです」
次郎が応じる。
「前回協議の内容を大幅に修正したうえでの再協議が必要です」
フランス側の財務担当官が計算を始めている。技術者派遣費用だけでも相当な額になることが予想された。
「一つ確認させてください」
ムスティエが慎重に尋ねた。
「他国との交渉はどの程度進んでいるのでしょうか?」
慶勝と次郎が視線を交わした。
「まだ非公式な段階です。しかし、技術の価値を理解している国々からの関心は高まっています」
慶勝が答え、次郎が付け加える。
「特にアメリカは積極的です。彼らは南北戦争で火器の重要性を痛感していますから」
ムスティエの表情がさらに険しくなった。
アメリカとの技術競争に巻き込まれることは、フランスにとって望ましくない展開なのである。
当時の列強はイギリス・フランス・オーストリア・プロイセン・ロシアが上位5位であった。しかし、南北戦争が終わったアメリカの台頭は明らかである。
それがムスティエを焦らせた。
「我が国としては、できるだけ早期に合意に達したいと考えております」
「それは我々も同じです。ただし、技術の性質上、十分な検討時間は必要です」
慶勝が応じ、会議は一時休憩となった。フランス側は別室で緊急協議を行うことになる。
「予想通りの展開だな。製鉄技術の重要性を理解させることで、全体の価値を押し上げることができた」
次郎は隼人に小声で言った。
「他国との競争も効果的でした。フランス側の焦りが見て取れます」
隼人が応じて慶勝も満足そうにうなずいた。
「技術供与交渉は単なる商取引ではない。国際政治の一環だということを、フランス側も理解し始めたようだ」
休憩後の協議で、フランス側がどのような提案を持ってくるか。
日本側の戦略は着実に功を奏している。
「無煙火薬と高強度鋼の製造技術については、下記の内訳にて供与を提案いたします。また、精密加工技術に関しては、これに付随する部分は含めることとします」
※無煙火薬製造技術供与
費用
・技術料:600万ドル
・設備建設費:350万ドル(硝化工場、安全システム、品質管理設備)
* 技術者派遣費:125万ドル
* 合計:1,075万万ドル
人員
- 化学技術者:5名(ニトロセルロース製造、安定化技術)
- 機械技術者:3名(製造設備、成形技術)
- 安全管理専門家:3名(爆発防止、火災対策)
- 品質管理技術者:2名(燃焼試験、品質検査)
- 合計:13名 期間
- 設備設計・建設:12ヶ月
- 技術移転・習得:12ヶ月
- 独立操業移行:6ヶ月
- 合計:30ヶ月(2.5年間)
※高強度鋼製造技術供与
費用
- 技術料:400万ドル
- 設備建設・改良費:250万ドル(既存設備の改良・増強)
- 技術者派遣費:75万ドル
- 合計:725万ドル
人員
- 冶金技術者:4名(合金設計、成分制御)
- 機械加工技術者:3名(圧延、熱処理)
- 品質管理技術者:2名(材料試験、品質検査)
- 製鉄技術者:3名(製鋼プロセス改良)
- 合計:12名
期間
- 設備設計・建設:18ヶ月(既存設備の大幅改良)
- 技術移転・習得:12ヶ月
- 独立操業移行:6ヶ月
- 合計:36ヶ月(3年間)
両技術セット供与の場合
総費用
- 技術料合計:1,000万ドル
- 設備建設費合計:600万ドル
- 技術者派遣費合計:200万ドル
- 総合計:1,800万ドル
総人員
- 技術者総数:25名
- 管理・調整要員:5名
- 合計:30名
総期間
両技術の並行供与により:
- 第1段階:設備建設(18ヶ月)600万ドル
- 第2段階:技術移転(15ヶ月)600万ドル
- 第3段階:独立移行(6ヶ月)600万ドル
- 合計:39ヶ月(3.25年間) 財務担当官が必死に計算をしている。
「つまり、実用的な無煙火薬兵器を製造するためには、合計1,800万ドルが必要ということですか?」
「はい」
ムスティエの言葉に次郎が返事をした。
「しかし、この二つの技術を他国にも供与されるのでしょうか?」
「それは各国の需要によります。例えば、プロイセンは既に優れた製鉄技術を持っていますが、さらなる改良技術を求めるかもしれません。イギリスも同様です」
ムスティエが鋭く質問する。
「ということは、我が国が高強度鋼技術を習得しても、他国も同様の技術を手に入れる可能性があるということですね?」
「可能性はあります。ただし、各国の技術的基盤や需要は異なります。フランスが最初に両技術を習得すれば、相当期間の優位性は保てるでしょう」
顕武が戦略的観点を提示し、次郎が発言して続ける。
「また、無煙火薬と高強度鋼の両技術を同時に習得することで、相乗効果が期待できます。単独の技術では得られない、総合的な軍事技術力の向上が可能になります」
今度は廉之助が次郎に資料を渡した。
隼人と廉之助は縁の下の力持ちに徹している。
「例えば、高強度鋼技術は大砲の製造にも応用できます。より軽量で威力の高い野戦砲の開発が可能になるでしょう」
技術担当官が興味深そうに身を乗り出した。
「大砲への応用も可能なのですか?」
「もちろんです。無煙火薬を使用した大砲は、従来の火薬を使用した大砲よりも射程距離が大幅に延長され、砲煙も少ないため砲兵の隠蔽性も向上します」
ムスティエが部下たちと短い協議を行った後、重要な質問を投げかけた。
「仮に我が国がこの両技術を習得した場合、他国への技術供与はどのようなタイムラインで行われる予定ですか?」
「各国との交渉状況によりますが、貴国への供与終了後、他国との本格的な交渉を開始する予定です」
「つまり、39か月間の独占期間があるということですね?」
「そうです」
長い沈黙の後、ムスティエが決断を下した。
「では、両技術合わせて1,800万ドルという条件で、上層部と協議させていただきます。ただし、支払い条件についてはさらなる調整が必要になるかもしれません」
日本側にとって、これは満足のいく反応だった。
複数の技術を戦略的に組み合わせることで、より高い対価を得ることに成功したのだった。
次回予告 第421話 (仮)『アメリカ・オランダ・ロシア・カナダ』

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