1590年7月16日 オランダ ライデン
ライデン市庁舎の石造りの法廷には、いつもよりも多くの市民が集まっていた。
窓から差し込む夏の光は、緊張感に満ちた空気を和らげるどころか、むしろその場の重苦しさを一層際立たせている。
中央の被告席には、まだ幼さが残る12歳の少年、オットー・ヘウルニウスが座っていた。
彼の両脇には市の衛兵が立ち、前方には市の判事、助役、そして二人の町医師が並んでいる。
傍聴席には、オットーが蘇生させた子供の家族や町の有力者、さらにはうわさを聞きつけた野次馬たちが集まっていた。
蘇生させたのは、シャルル・ド・モンモランシーの息子、ジャンである。
その傍らには、がっしりとした体格のシャルルが寄り添っていた。
「静粛に!」
判事の重々しい声が法廷に響き渡る。オットーは小さな拳を膝の上でぎゅっと握りしめ、顔を上げた。
「オットー・ヘウルニウス、お前は神のおきてに背き、死者をよみがえらせる魔術を行ったとの告発を受けている。何か弁明はあるか?」
オットーは深く息を吸い込み、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「裁判長、私が行ったのは医術であり、決して魔術ではありません」
その声は震えながらも、しっかりとした芯を持っていた。
傍聴席からざわめきが広がる。12歳の少年が、これほど堂々とした態度で答えられるだろうか。
「医術だと?」
判事は眉をひそめた。
「では、なぜ誰も知らない術を使ったのか?」
「父から……父からヒポクラテスやアスクレピアデスの古い文献の解釈を教わりました。その中には、呼吸が止まった者に対する処置が記されています」
オットーの隣で、父のヨハネスが静かにうなずいた。
「ほう。では、その文献を示せるか?」
「は、はい。父の書斎にあります。ただし、最近の例としては、60年前にパラケルススが提唱したふいご法があります。しかし、その場にはふいごがなかったので、口移しで空気を入れました」
「口移しで……?」
判事は首をかしげ、傍聴席が騒がしくなった。
「はい、口から息を吹き込んだんです」
オットーは冷静に説明を続けた。
この時代において、口移しの人工呼吸など知られていないはずだ。しかしだからこそ、古い文献を引用して、新しい治療法ではないと印象づける必要があった。
「さらに、胸を押して心臓を動かす方法にも触れています。これはアブルカシスの著作に……」
これは完全に嘘である。
そんな記述はない。
「待て」
判事は手を挙げてオットーを遮った。その目は鋭く、まるでオットーを貫くかのようにじっと見つめている。
「お前の年齢で、その古い文献を読めるとでも?」
確かにその指摘は的を射ている。12歳の少年が古代ギリシャやアラビアの医学書を理解できるはずがない。
その瞬間、後ろから声が聞こえた。
「私が指導しました」
ヨハネス・ヘウルニウスが立ち上がる。ライデン大学医学部の教授である彼の言葉には、深い重みがあった。
「息子は幼い頃から医学に興味を持ち、私の研究を手伝ってくれています。古い文献も私が日々教えています」
ライデン大学は国内で最高の学府であり、唯一の大学である。
教授には社会的地位や名声があり、発言には信頼性がある。社会に対する影響力も非常に大きい。
しかし、問題があった。
「なるほど。教授のお考えはしっかりと伺いました。参考にいたしますが、残念ながら被告は教授の実の息子でいらっしゃる。ですからいかに教授であっても、その発言は息子を擁護していると受け取られてしまうのは避けられないでしょう」
確かに、父親の証言は被告にとって有利に働く可能性がある。
その時だった。
「裁判長」
傍聴席から一人の男が立ち上がった。背が高く、がっしりとした体格をしている。
「私はシャルル・ド・モンモランシー。溺れた息子を救っていただいた父親です」
シャルルの声が法廷内に響き渡った。
後ろにはホールン伯フィリップ・ド・モンモランシーも控えている。
正直に言うと、大学の教授や独立戦争の英雄など、関係者に著名な人物が多くいる裁判は公平に進行するのが難しい。
利害関係やしがらみがどうしても生じてしまうからだ。
人の一生を左右する裁判において決してあってはならないが、この時代の魔女(魔術師)裁判では、法の存在が形骸化している。
ただし今回は、物事が良い方向に進んだ。
「息子のジャンは確かに溺れ、呼吸も心臓も止まっていました。しかし、オットー少年の迅速な処置のおかげで、今はこうして元気に過ごしています」
シャルルは息子の肩に手を置いた。ジャンは小さくうなずいている。
「これが魔術だと言うのなら、なぜ悪魔の力で救われた息子が、今もなお教会に通い、神を敬えるのでしょうか」
その言葉を聞いた判事は表情を硬くした。
被救助者の血縁者であるモンモランシー家の当主代理の証言は、判決に直接関与しない。しかし無視できない重みがある。
「しかしホールン伯……いや、シャルル殿……」
判事が続けようとしたその時、今度は別の声が聞こえてきた。
「私からも一言よろしいでしょうか」
法廷にいる全員の視線が、一人の男性に集中した。
ネーデルラント総督であるオラニエ公、マウリッツ・ファン・ナッサウである。
その横でフレデリックはちょこんと立ち、オットーに目で合図を送っている。
(すまん! 兄貴を説得するのに時間がかかった)
フレデリックの説得を受けて、デン・ハーグからライデンまで傍聴人として参加しに来たのだ。
「これは総督……。一体何でしょうか」
マウリッツは判事に向かってゆっくりと口を開いた。
「ここ数日、弟のフレデリックからこの件を詳しく聞いていた。オットー少年は、古代の医術の知識を現代によみがえらせただけなのだ。これは魔術でも悪魔の仕業でもない」
法廷内がさらに騒がしくなる。
総督の言葉には特別な重みがある。それは教授の言葉よりも重く、しかも血縁関係のないまったくの第三者だ。
「むしろ、これは神の恩寵ではなかろうか。神は古の賢者たちに、死にかけた子供を救う方法を授けられた。そしてその知恵は今日まで脈々と受け継がれてきたのだ」
マウリッツの言葉は、法廷の雰囲気を一変させた。魔術の疑いのあった医術が、突然神の恩寵として語られたのである。
「総督、しかし……」
判事が反論しようとすると、マウリッツは手を挙げて制止した。
「判事殿、私はこの術をライデン大学の正式な研究課題にすると決めた。オットー少年の父であるヨハネス教授の指導のもとで」
フレデリックは思わずガッツポーズをした。
兄の一言によって、事態は一変したのである。魔術の疑いは晴れ、逆に医学の進歩として認められることとなったのだ。
判事は深いため息をついた。もはや判決は明らかだった。
が……。
「承知いたしました、総督。しかし、最終的な判断は神に委ねるべきです。これ、魔女の秤を」
判事はそう言って助手に大きな秤を持ってくるよう指示した。
「被告オットーはこれに乗り、体重を量るのだ。99ポンド(約45kg)未満であれば、それは魔術師の証である」
まったく何の根拠もない判定方法である。
魔術師や魔女の話は荒唐無稽ではあるが、特に魔女は空を飛ぶために軽いと考えられていたのだ。しかし、これはまだマシな方だと言える。
容疑者は裸にされて拷問を受けた結果、自白を強要され、その自白が証拠として利用されていたのだ。
荒唐無稽な方法であっても、何らかの基準があるだけマシである。
102ポンド(約46.3kg)――。
それがオットーの体重だった。
16世紀のヨーロッパでは、推定によれば、少年たちの多くが魔女に該当するほど体重が軽く、身長も低かったのだ。
おそらく栄養状態も良くなかったのだろう。
にもかかわらず、オットーは合格した。
もちろん、オランダにおける魔女裁判の事例を調べ上げ、今日までオットーに毎日ドカ食いさせてきたのはフレデリックである。
「まったく、さすが2+2=4のマウリッツだな。しかし、本当に感謝しているよ」
シャルル・ド・モンモランシーは、戦友であるマウリッツに感謝の言葉を伝えた。
「いや、オレは主を信じていないわけじゃない。ただ、それによってオレの合理主義や実利主義が損なわれてはいかん。それに、お前にはもっと働いてもらわなきゃならんからな。息子を救ったせいで人が死んだとなれば、お前も仕事どころじゃなくなるだろう」
「ははは、確かに。でも、医学部の研究の件は本当なのか」
「ああ、弟のフレデリックもそうだが、なんだかオレの周りには神童が多い気がするな」
「私からもお礼申し上げます」
「ああ、これは教授」
オットーの父、ヨハネス・ヘウルニウスが深々と頭を下げた。
「いえいえ、生きるべき人が死ぬなんて、あってはならんことです。それよりも教授、頼みましたよ」
「はい、お任せください」
今日、この日が、オランダ医学の急速な発展の礎となった。
次回予告 第15話 『第2回コンパス会議とオランダの現状。今後の作戦会議』

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