異世界暦〇〇年〇〇月〇〇日=2025年9月6日(土)? <田中健太・52歳>
目が覚めた。
窓から心地よい朝の光が差し込んでいる。
チュンチュンチュン……。
「あなたー、ご飯できてるわよ。起きてー」
レイナの声が階下から聞こえてくる。
そうだ……昨日、やっちゃったんだ……オレ。
うーん、どうしよう。
まあ、仕方ない。
「もーお父さん遅い! アンお腹すいたよ~」
「ちょっとアン、お父さん疲れているんだから、そんな事言っちゃダメでしょ」
ドンドンとテーブルを叩いてふくれっ面をしているアンに、レイナが注意している。
疲れている?
それは行方不明だったから?
それとも昨日の件で?
そういえばレイナは昨日より心なしか浮かれているようだぞ。
頬はほんのりと紅潮して目は潤んでいる、オレに向ける眼差しには昨日までの不安を感じない。
……いかん。目を合わせられない。
オレはバツが悪いのをごまかすように食卓についた。
テーブルの上には湯気の立つオートミールと黒パン、それからチーズが並んでいる。
質素だけど温かい、本物の朝食だ。
「さあお父さん、たくさん食べて! 今日は工房に行くんでしょ?」
「ああ……。そのつもりだ」
アンが無邪気に話しかけてきた。
その言葉にオレはアンの頭をポンポンしつつ、昨夜からの最大の懸案事項を思い出した。
! そうだ、工房だ。
ゲートの確保も、ケント・ターナーの謎も、全てはそこから始まる。
「レイナ。工房の親方なんだけど……どんな人だったか、少し教えてくれないか。どうにも、顔も名前も思い出せん」
記憶喪失のフリをしながら、オレは探りを入れた。
すると、レイナは少し困ったように眉をひそめる。
「親方……そうね。頑固で口は悪いけど、あなたの腕を誰よりも買ってくれている人よ。あなたがいなくなってから、一番心配して、ギルドにも何度も掛け合ってくれていたわ」
「そうか……」
「でも、怒らせると、とっても怖い人。半月も仕事を放り出したあなたのこと、きっと許してはくれないと思う。……本当に、大丈夫なの?」
レイナの瞳が心配そうに揺れている。
純粋な気遣いが偽物のオレの胸にチクリとささるけど、仕方ない。
大丈夫じゃないけど、ここで引き下がるわけにはいかないんだ。
「ああ、大丈夫だ。オレに考えがある」
考えなんてないし自信もない。
でもその言葉でレイナが少しだけ安心したように微笑んだ。
その笑顔を守るためなら、何でもできる。
……いや、何でもしなければならない。
腹を、くくろう。
オレは黒パンをオートミールに浸しながら、これから始まる人生で最も困難な交渉のシミュレーションを、頭の中で開始した。
■工房
家から工房までの道順はレイナとアンの2人に案内してもらった。
「おはよう! ……ございます。ケント・ターナーただいま戻りました! ご心配をおかけしました!」
オレは何度も深呼吸をして、勢いよくドアを開けて工房に入った。
工房の中は、火花と金属音で満ちていた。
ふいごが唸りを上げて、炉の炎が壁に揺れる影を落としている。作業台では数人の職人たちが、黙々と金槌を振るっていたが、オレが声をかけると、その全ての動きが止まった。
全員がオレに注目している。
驚愕。
困惑。
非難。
実際にオレがやったことじゃないが、もしそうなら当然だよな。
半月も行方不明だったんだから。
やあ、久しぶり! なんてなるわけがない。
「……ケントか」
工房の奥から低い声が響いた。
声の主がゆっくりとオレのほうへ向き直る。
筋骨隆々とした体躯に、年季の入った革のエプロンをまとった大男だ。白髪混じりのヒゲをたくわえ、その顔には深いシワが刻まれている。
あー、いかにも工房の親方だ。
ラノベアニメどおりの風体だぞ。
違いない。親方だろう。
レイナの話から想像した通りの、威圧感を放つ人物だ。
「親方……。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑、だと? その一言で済むと思っているのか」
親方は腕を組み、オレから視線を外さない。その声には怒りが含まれているのが分かった。
「ギルドとの大事なコンペをすっぽかし、設計図もろとも姿をくらます。お前がどれだけ皆に迷惑をかけ、工房の信用を傷つけたか、分かっているのか」
やっぱり!
レイナの話のとおりだ。
設計図の件が失踪の直接的な原因になっている。最悪じゃないか。
「申し訳ありません。でも事情が……」
「ほう……聞かせてもらおうか。半月もの間、どこで何をしていた」
周囲の職人たちも固唾をのんでオレを見ている。
そりゃそうだ。
ここで下手に嘘をつけば、全てが終わる。オレは覚悟を決めて、顔を上げた。
「森で倒れているところをアンナに発見されました。それ以前の記憶が、一切ありません」
工房内がざわめいた。
「記憶喪失だと?」
「そんな馬鹿な」
それでも親方は動じない。
ただ、オレの目をじっと見つめている。
「記憶がないか。ずいぶんと都合のいい話だ。コンペがあるのに、消えて記憶をなくして戻ってくる。そんな作り話をワシが信じるとでも思ったか」
「信じていただけないのは承知の上です。でも本当なんです。自分の名前も、家族の顔も、ここで働いていた事実さえ、レイナとアンナに教えられてようやく理解しました」
オレは必死に訴えた。
芝居じゃない。
事実、オレはケント・ターナーじゃないんだから、記憶なんかあるはずがない。その真実が、僅かでも説得力を持つことを願う。
「……分かった。こっちにこい」
親方は一言ドスのきいた声で言うと、オレを2階の部屋に連れて行った。
部屋の中には機械工具や作品、試作品、設計図や関係書類が所狭しと並べてある。
「これを見ろ、何だか分かるか?」
親方がオレに差し出して見せたのは、活版印刷機の設計図だった。
「この設計図は……印刷機のようですが……」
「ほう……記憶喪失じゃなかったのか」
しまった!
つられた!
「まあいい。これはな、ギルドからワシらの工房も含めた5つの工房に依頼があったもんじゃ」
50年ほど前に活版印刷機が発明されていたのだが、まだまだ高く庶民には手が出るものじゃなかった。
ワインの圧搾機(スクリュープレス)を応用して、巨大なネジ(スクリュー)を人力で回して版を紙に押し付ける、すごく原始的な仕組みである。
圧力の限界と不均衡の問題があった。
だから文字がかすれたり、インクがにじんだりする印刷ムラが頻繁に発生していたんだ。
他にも組版に関する問題や活字の精度の問題があって完璧ではなかったのである。
「5つの工房でアイデアや試作品を出し合っていたんじゃ。問題点をなくすための会議が終わって、お前は設計図をもっていなくなっちまった」
親方は改良前の設計図の一点を太い指でトン、と叩いた。
活字を固定するための締め付け機構の部分だ。
「ここだ。四方から締め上げると、どうしたって版の中心が、ほんの髪の毛一本分、盛り上がっちまう。圧力が均一にかからんのだ。お前はこの問題を解決できたと豪語していた。そして、そのための設計図を描き上げ、次の会議に臨むはずだった。……それも、忘れたのか?」
ダメだ、もう誤魔化しはきかない。
「……その設計図は、どこに?」
「お前が持っていったきりだ。工房にはコレと不完全な試作品しか残っとらん」
親方は部屋の隅に置いてある金属の塊をアゴでしゃくった。
あれが、ケントが最後に作っていたものか。
オレはゆっくりとそれに近づいて、許可も得ずに金属の塊に手を触れた。
……なるほど。問題は、そこだけじゃないな。
オレは、一瞬で理解した。
親方が指摘した締め付けは氷山の一角だ。
足りない部分はたくさんある。
フレーム自体の剛性不足と素材の品質の不均一性。
彼ら自身がまだ問題だとすら認識できていない(だろう)、より深い設計上の欠陥が存在する。
でもこれなら……この世界の道具と材料のままでも、設計思想を変えるだけで、劇的に性能は向上させられる。
オレは、覚悟を決めた。
振り返って親方の目をまっすぐに見据える。
「親方。記憶がないのは、本当です。でもオレは技術者です。この試作品を見れば、何をしようとしていたのか……それになんで失敗したのかは、理解できます」
親方の眉がピクリと動いた。
オレはそこで話すのを止めて、深く深く頭を下げる。
「申し訳ありません! でも皆さんにかけた迷惑は、分かっているつもりです!」
顔を上げる。
オレの目にはもう戸惑いの色はない。
「でも、その代償は――言葉や金じゃない。オレが作るモノで、必ず見返します!」
親方はしばらくの間、黙ってオレの目をにらんでいた。
やがて大きな、本当に大きなため息をついて言う。
「……フン。その目だけは、昔と変わっとらんな」
親方は作業台の上の羊皮紙を無造作につかむと、オレの胸に叩きつけた。
「いいだろう。なら、やってみせろ。 もし、お前が他の工房の連中を黙らせるほどの『完成品』を、このワシの前に持ってきたなら……」
親方は、そこでニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「その時は、お前を職人頭として、もう一度工房に戻してやる。……できるもんならな!」
それは罰じゃなくて試練。
親方が、このどうしようもない男(オレ)にもう一度与えてくれた、最後のチャンスだった。
いや、オレじゃねえよ。ケントだよ。
後でそう思ったけど、もう、そんなことはどうでもよかった。
次回予告 第6話 (仮)『ケント・ターナー印刷機への道』

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