第2話 『Xタイ厶:17時57分』

 2025年9月6日(土) <田中健太・52歳>

 ギュイイイイイイイイイイン――。

 ジャーララッ、ジャーチャチャジャーチャチャジャーチャチャーラ――。




 う、うーん……。

 目覚ましのモ◯リー・◯ルーのキッ◯◯タート〇〇・ハートで目が覚めた。

 朝8時半……。

 ふあああああ……。

 そんなに寝ていないのに早起きなのは歳のせいか?

 昨日の頭痛がウソみたいに、二日酔いの痛みもなくて顔を洗いに行く……。




 異世界――。




 はっと気づいて走ってトイレのドアを開ける。

 ガチャ(開)。

 ……。

 ガチャ(閉)。

 あれ? 何だよ、普通のトイレじゃねえか。昨日のは一体何だったんだ?

 時間を開けて何度か開け閉めしたけど、結果は変わらなかった。

 目の前にはいつもと変わらない普通の見慣れたトイレがある。

 ブレーン宇宙(パラレルワールド・パラレル宇宙)の異世界。

 あり得ないけど可能性がゼロじゃない世界。

 オレは昨日そう位置づけた。

 はずだ。

 じゃあ何で今ないんだ?

 オレは夢でも見ていたのか?

 いや、オレは確かにあの臭いを嗅いだし、2人組の男もいたじゃないか。

 全部オレの夢なのか?




 ……ん?

 何だコレ?

 部屋中をウロウロと歩き回っていると、オレは玄関にあるスリッパに目がいった。

 昨日も今日も雨なんて降ってないし、ぬかるみにハマってもない。

 でも目の前には泥で汚れたスリッパがある。

 近所のコンビニ行くにしたって舗装されてるから泥なんてつくはずない!

 結論=ブレーン宇宙異世界は実在する=しかしなぜか今はない。

 じゃあ何で今はないんだ?

 昨日と今の違いは……。

 酔いは? 昨日は1本だけだし今はアルコールが抜けてる。じゃあ飲んでみるか?

 プシュ。

 ぐびぐびぐび……。

 バタン(開閉)。

 変わらない。

 次は?

 昨日は……パンイチだったけど、今も同じ。

 あとは何が違う?
 
 トリガー条件は何だ?

 ドアを開ける行為か? いや、さっきから何度もやっている。

 オレ自身の状態か? 今は酔っちゃいない。

 ……じゃあオレの意思とは無関係の、外部要因か。

 1番可能性が高いのは何だ?

 ……時間だ。

 昨日あの現象が起きたのは22時過ぎで、今は朝の9時前。

 つまり、あのゲートは特定の時間帯にしか開かない、時限式の現象である可能性が高い……。

 あー! モヤモヤするっ!




 ……分からなきゃ調べりゃあいい!

 科学者(の端くれ)である以上、観察・推論・仮説・検証・考察をやりゃあいいじゃないか!

 オレはスティックシュガー入りの微糖のコーヒーを作って飲む。

 じっくり考えても答えは変わらない。




 まずは観察。

 昨夜起きた現象は、今は起きていない。

 玄関には、物理的な接触があった事実を示す泥のついたスリッパがある。

 次は推論。

 現象の発生には、何らかのトリガーとなる『条件』があるはずだ。オレ自身の状態(酔いなど)が原因である可能性は低い。とすれば、外部要因、最も可能性が高いのは「時間」だ。

 そして、仮説。

 あのゲートは、特定の時間帯にだけ開く時限式の現象である。

 じゃあ次にやるべきなのは検証だ。

 現象が再現する『前』と『後』、そして『最中』の環境データを比較する。

 それが定石だ。

 そのためにはまず、『正常時』の今の状態を徹底的に測定して、基準となる『ベースライン』を確立しなきゃならない。温度や湿度、それから目には見えない磁場や電波強度……。

 考えられる限りの物理パラメーターを測定して、異常の兆候を探る。




 今……朝の9時か。

 よし、ドンキに行こう。

 オレは愛車の古いレガシーのエンジンをかけた。

 さて、何から買うか……。

 四菱電機府中技術者寮から旧甲州街道沿いのメガドンキまでは、車で10分ほどの距離だ。

 短い時間で今日の行動計画と買物リストを頭の中で最終確認する。

 FMからはお決まりの週末の交通情報が流れていた。中央道は小仏トンネルを先頭に15キロの渋滞……。

 平和なもんだ。

 こっちは、これから文字どおり世界の壁を越えるかもしれないってのにさ。

 カーオーディオのボリュームを少し上げて、リストの最初に書いた『デジタル温湿度計・3個』の項目を指でなぞった。




 メガ・ドンキのけたたましいテーマソングが頭に響く。

 土曜の午前中なのに、このカオスな空間は一体何なんだ。

 オレはカートを押しながら、スマホのメモにリストアップしたブツを機械的にカゴに放り込んでいく。

 まずは計測機器なんだけど、デジタル温湿度計を3つ。

 トイレと洗面所、それからリビングに設置して常時比較観測するためだ。

 キッチンタイマーを大小2つに安物の放射線測定器……お、あったあった。こんなもんまで売ってるのか。

 次にアウトドア用品。

 ヘッドライトや革手袋、サバイバルシートに折り畳みのウォーターキャリア。

 食料はカロリーメイトとミックスナッツ、塩アメを数袋。

 最後に衣料品コーナーで、あの職人たちが着ていた服に一番近い目立たない色の作業着を手に取った。擬態は、未知の環境における基本のサバイバル術だ。

 コスプレコーナーで異世界の中世衣装なんてのがあったから迷わずゲット。

 レジで会計を済ませながら、オレはまるで会社のプロジェクト計画を立てるみたいに頭の中で今後の手順を組み立てていた。

 家に着いたら、すぐに計測機器を設置してベースラインの測定を開始する。

 気象庁のサイトで調べた今日の東京の日没時刻は、17時57分。

 もし、ゲートの開閉が日没や日の出と連動しているなら、その時間帯がXデー……いやXタイムだ。

 オレは高鳴る心臓を抑えつけながら、ドン・キホーテの袋を両手に、自宅へと急いだ。




 帰宅後すぐにトイレと洗面所、それからリビングにドンキで買ってきたデジタル温湿度計をそれぞれ設置した。

 次は目に見えないパラメーターだ。

 オレは、リビングのサイドボードの引き出しの奥から、古いスマートフォンを3台引っ張り出して準備する。

 ひとつは、オレ自身が使っていた1つ前のXperia。

 もうひとつは、元・妻が使っていたiPhone。

 ホームボタンのある、少し古いモデルだ。確か……割賦払いが終わるタイミングで、大した不具合もないのに新しいのに変えたやつだな……。

 最後のは、息子が高校生の時に使っていたAndroid。OSのアップデートが来なくなったとかで、家に置いていった代物だ。

 キャリアの販売戦略と技術の陳腐化の速さが生み出した、現代の家庭における電子ゴミの墓場だね。

 まさかこのガラクタの山が、異世界研究の最前線に立つとはビックリだぜ。

 オレは皮肉な笑いを浮かべながら、3台全部のホコリを拭って充電ケーブルをつないだ。

 手際よく自宅の無線LANに接続し、Google PlayストアやApp Storeで目当てのアプリをいくつかインストールしていく。

 地磁気センサーの数値を記録するアプリや無線LANの電波強度を分析するアプリ……。そして、測定値を5秒ごとに自動記録するよう設定して、3台のスマホを簡易的な『データロガー』に仕立て上げた。

 1時間ごとにトイレと洗面所に設置したスマホを回収して、記録されたデータをノートPCに転送した後にExcelでグラフ化する。

 今のところ、どのグラフも一直線に近い。平たんなベースラインだ。

 異常はまだない。まさに嵐の前の静けさだな。

 机の上にはドンキで買った探検用具一式を詰めたリュックが置いてある。

 擬態用の作業着はすぐに着替えられるようにハンガーにかけて、スマホの画面にはカウントダウンタイマーを設定。

 目標時刻は17時57分。

 ごくり、と喉が鳴る。

 52歳にもなって一体何をやってるんだか。

 でも航空機エンジンの初号機に火を入れるときみたいな、あの腹の底から湧き上がってくる興奮と、ほんの少しの恐怖が全身を支配していた。

 これはオレの人生における、最大の実験だ。




 ――17時56分。

 リュックを背負って作業着に着替える。ヘッドライトを首にかけて、観測用のスマホを片手にトイレの前に立った。

 心臓の音が、やけに大きく聞こえる。




 ――17時57分。

 タイマーがゼロを指してアラームが鳴り響く。

 今だ!

 オレはゆっくりとステンレスの無機質なドアノブに手をかけて、開けた。

 目の前に広がっていたのは――。




 ――やっぱり! 期待どおりのぼっとん(くみ取り式)便所。

 胸が高鳴った。




 次回予告 第3話 (仮)『擬態と探査』

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